第七話 (彼女の教えてくれた詩を僕はあんまり覚えていないが、少しなら教えてやってもいい)

 それから僕は毎日、彼女のもと(例のバス停)を訪れるようになった。それは、詩の一部(僕がまだ詩に慣れていないので、そして、自分のすばらしいと感じる詩の部分を共有するためにそうするらしい)を彼女から聞いて、僕がその詩から感じることを彼女に話すような、そんな日々。


「『私らの夢はどこにめぐるのであらう

 ひそかに しかしいたいたしく

 その日も あの日も賢いしづかさに?』」

 晩き日の夕べに。立原道造。

 夢は優しくもこわく、自分の隠れた気持ちをあらわす。この詩の夢が、眠っているときのものなのか、それとも、未来に対する思いなのかは分からないが、賢いしづかさ、というのは、少し皮肉な気がした。静かに考え込んでいる時は夢なんて考えないし、考えられないから。けれど、その奥底に実は夢が眠っているのかもしれない。見えもしない、感じもしない、本当に奥底に。


「『群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ

 どこへでも流れてゆくひとつのだ』」

 群集の中を求めて歩く。萩原朔太郎。

 これは、本当に、共感だ。みんなバラバラに見えて、みんな同じ感情を持って、大きな感情で、こっちを睨んで、しかもみんなで一緒に行動する。結局、個人で生きているものなどいなくて、ひとつのグループと同じ。流されて生き、時にはそれに乗り遅れ、それによって、人生が消えかけることもあるのだ。それが群集なのかもしれないが。


「『泣かさうとでもいふように

 しかし 泣かしはしなかった

 きらきら 僕を撫でてゐた

 甘つたれた 僕の心を嘗めてゐた』」

 失はれた夜に。立原道造。

 泣かないで。泣いて。そのどちらも感じる夜。夜空の星は、風は、痛めずに、僕らの心をそっと撫でていく、嘗めていく。気持ち悪いなんてことなくて、むしろ優しくて、泣きそうになるのに、泣かせない。


「『町々はさやぎてありぬ

 子等の聲もつれてありぬ

 しかはあれ この魂はいかにとなるか?

 うすらぎて 空となるか?』」

 臨終。中原中也。

 人が死のうとこの世界はまわっていて、騒がしいし、子供たちの声も同じだ。しかし、魂はどうだ?死んだ者の魂や、今の僕の毎日みたいな、軽くて、うすくて、柔らかくて、消えそうなこの魂は?空にでもなるというのだろうか。


「『時のあちらに あの靑空の明るいこと!

 その望みばかりのこされた とは なぜいはう

 だれとも知らない その人の瞳の底に?』」

 眞冬の夜の雨に。立原道造。

 雨空の向こうに広がる青い空。それはある意味の望みなのかもしれない。雨を嫌う人の瞳にうつる世界がどんなものか、僕は知らない(僕は雨が大好きである)。僕にとっての雨は、望みだ。だから、靑空を望みと言うことはしない。けれど、空が綺麗だからと前を向ける日も僕は知っている。その綺麗な靑空は、名も知らない誰かの瞳の底にあるのかもしれない。


「『崖の上の彼女の上に

 精靈が怪しげなる條を描く

 彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片附け

 彼女は直きに死なねばならぬ。』」

 深夜の思ひ。中原中也。

 崖の上で彼女は何を思ったか踊りだし、彼女の思い出を探り、苦しみや辛さの固まった、いや、散らばった書斎を片づけ、一歩を踏み出す。それは、精霊に遊ばれているのか、彼女の意思なのか。けれど、彼女が死ななければならないことに変わりはないのだろう。


 彼女の好きな、立原道造の詩が誰の詩よりも多かったこと。僕が、その場にいる時は覚えていても、家に着く頃にはその日に教えてもらった詩を忘れてしまっていること。気づいたのはそれくらいだった。

 そして、僕の夏休みも過ぎていった。宿題なんて一つも終わらぬうちに。どうしよう、全く手をつけていない。





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