九月三日

後悔と贖罪

──暑さゆえの過ちから、丸一日が経った。どことなく僕は、あやめと顔を合わせるのが恥ずかしいような気がして、けれども彼女は昨日からご機嫌そうに、僕の手を繋いだまま片時も離れない。あろうことか今日の昼食に小夜まで誘った。


 僕の部屋にある座卓を三人で囲みながら、今夏で何回目かの素麺を食べる。


「あやめちゃん、彩織ちゃんが優しいのは分かったから……。もう三回目やで、その話。なんや分からんけどウチはもう絶対に首は突っ込まないからな……! 聞くんが怖い……!」


「あー小夜、喋りながら素麺こぼさないで……。あやめちゃんは無視して構わないから」 


「えー!? そんなこと言うなら私もう寝ちゃうからねっ。ふーんだ。……ちらっ」


 あやめは演技ぶって敷きっぱなしの布団に飛び込むと、枕に顔を埋めながら僕のほうを見る。可愛いなぁと思いつつも小夜の前なので、いつも通り、平静を努めることにした。


「あやめちゃんね、いま拗ねたふりして僕のこと見て──あ、向こう向いちゃった。寝てるふりしてる。こういうところ可愛いよねー……。小夜にも見せてあげたいもん」


「彩織ちゃんも大概やなぁ……。二人してズブズブになって惚気けるん止めてくんない? ウチなんか通信制の学校で出会いなんてまったくないんやで? 分かるか彩織ちゃんっ」


 半ギレで座卓を叩かれた。少し怖い。あやめは顔だけこちらを向いて面白そうに笑うと、不意に欠伸を漏らしていた。


「……あやめちゃん、眠いんなら寝てもいいよ」


「んー……。彩織ちゃんといっぱい遊んだから、疲れちゃった」


  もう少しお話してたいんだけどなぁ、と眠そうに頬を緩ませながら、二度目の欠伸をして枕に顔を埋め直す。欲に正直だ。


「……あやめちゃん、おねむ?」


「うん、おねむ。寝かしてあげよう」


  二人で顔を揃えて笑いながら、夏の午後に射す陽光に降られて透き通った彼女の姿を、呆然と眺めていた。もともと開けていたのかさえ分からない窓から、青い匂いが立ち込めてくる。


  小夜は最後の素麺を食べ終わると、忍び足で布団の側まで歩み寄った。「頭、撫でてええ?」と小声で問いかけてきたのに笑いながら、僕も近寄って、頭はここだよと指で示してやる。


「……もう寝てる」


「起きない?」


「だと思うけどね」


「よしっ……」


  小夜からしたら、そこは何もない虚空のはずなのに。温度も匂いも感触も、伝わらないはずなのに。けれどもしっかり、触れられていた。ここにいると確信した、そんな手つきだから。


  今だけじゃない。あやめと話している時だってそうだ。お互いに見えているようなリアクションで、昔と何も変わらない態度で、ずっと笑い続けてくれた。だから、懐かしいのだ。


「……ごめん、彩織ちゃん。なんか、泣いちゃいそう」


「……うん、分かるよ」


  見えないはずのあやめを見つめる小夜の面持ちは──悲痛というには言い過ぎで、寂しげと言うには弱すぎる。額の汗に張り付いた前髪よりも、眦から頬を伝う紅涙が横髪を巻き込んで、小さな雫を付けて、そこを写真のように、眠っている少女が、小さく映っていた。


「っ、やっぱり……無理や。どんだけあやめちゃんが許してくれても、ウチが死なせちゃったって……後悔しかできん……。戻れたらいいんになって、最近、思ってて……」


「……僕たち、あやめちゃんがいなくなってさ、どんな思いで過ごせばいいんだろうね。忘れることなんてできないし、自分を許そうとも思えない。なんとか自分を納得させられたところで、僕はもう、あやめちゃん以外、考えられないもん。このまま暮らしてて、いいのかなって」


  小夜の拭った涙が、布団に染みを付けていく。その跡はもう、二度と取れないような気がした。純粋な罪悪感と後悔が、きっとそこに秘められているから。目元を吹く風が、嫌に冷たい。


「……ウチさ、通信制の高校に行ったって話したやん。あれね、なんでかっていうと、人が嫌いになったからなんさ。ここの同級生みたいなやつとまた一緒になりたくなかったし、もう面倒臭いし、怖いから、付き合いもしたくなかったんよ。だから……うん、そんだけの話」


 作り笑いの笑みが、小夜の顔に貼り付いている。きっと理由があるのだろうと、触れずにおいたのだけれど──案の定、という感じだった。何も言えなくて、ただ無言で頷く。


「あやめちゃんは、たぶん、ウチに彩織ちゃんのこと任せると思うんさ」


「……なんで? どういうこと?」


「お互いに、昔から知ってる友達で、彩織ちゃんの親戚やから。あやめちゃんもきっと気付いとるよ、自分がいなくなったあと、彩織ちゃんがどうなるかっていうんはさ。だからきっと、あとのサポートはウチに任せると思うんだ。同じ穴のムジナ……とまでは、言わんけど」


「……ぶっちゃけ、頼るかなんて分からないよ。小夜は、それでいいの?」


「嫌なわけやないけど……それが、責任と贖罪ってもんやろ」


 涙を拭って、困ったように笑う。「それに」と続けた。


「他の人間なんかよりも、彩織ちゃんのほうが、信用できるから」


「……そっか」


  ありがとう、と言うのは、なんだか違う気がした。僕が偉いわけじゃない。相対的に、そう感じざるを得ないだけなのだ。


  ──会話はそこで切れて、代わりに軽風が吹き込んでいく。髪を張り付かせた汗が涼しくて、けれど、寂しい。紛らわすようにあやめの頭を撫でてやると、それだけで少し、落ち着いた。


「僕ね、昨日、あやめちゃんに言われたんだ。私のことは忘れて、今すぐ実家に帰ってほしい、って。……なんのことだと思ったよ。でも、今なら、その理由が分かる気がしてさ」


「……あやめちゃんが、そんなこと言ったん?」


「うん、僕もショックだった。でも、嘘だってすぐに分かったから。そんなこと言うような子じゃないし、騙されないよ。結局、優しすぎるから──少しでも希望のあるほうを考えちゃう」


  彼女が僕に向けている恋情の強さに比例して、症状は進んでいく。死んでからもずっと、僕のことを覚えていた。簡単には断ち切れないはずなのに、それを本気で、一度でも断とうとしたのは、あれは一種の愛と、優しさと、覚悟だったのだろう。


「……好きな人のことを、完全に清算できるかなんて、分からないよ。だったらいっそのこと、成仏しないまま別れて、心のなかでまだ生きていることにして、夢にでも逃げればいい。僕だってそう言ったかもしれないし、あやめちゃんは、言った」


  でも、違った。それは苦肉の策でしかなくて、彼女の姿が僕にしか見えないその理由を考えれば、そんなことをしている場合でもなかった。四年越しの後悔と覚悟を清算しなければならない。それがきっと、僕たちに課せられた贖罪なのだろう。


「彩織ちゃんは、強いね」


  あやめの頭を撫でながら、洩らすように、小夜が呟く。


「ウチはもう、逃げた側の人間やから。あやめちゃんが自殺したあの夏から、ずっと目を背けて生きてきたようなもんやし。……でも、彩織ちゃんは、偉いよ。ウチとは違う、っ、から……」


「……泣かないでいいんだよ。小夜だって、できることはやったじゃん。しっかりあやめちゃんに謝れて、許してもらった。それでいいんだよ。僕はまだ、役目を残してるだけだから。早いか遅いか、それだけの違いでさ。小夜が気にすることないよ」


  堪えるように目をつぶって、そこから溢れた涙がまた、布団の上に染みを作っていく。何度も首を横に振るのが痛々しくて、けれど、あれは本心だから、慰めでもなんでもなかった。


  手を伸ばしてやりたいけれど、触れてしまったら、なんだかあやめに申し訳ないような気がする。胸の奥が鋭く痛んで、何も言えないまま、小夜が落ち着くのをずっと待っていた。


  ──あやめの穏やかな寝顔だけが、唯一の安らぎだった。





「……」


  気がついたら、あやめの隣で僕も寝ていた。さっきよりも日が落ちて、射し込む斜陽の茜が眩しい。それに彩られた彼女はもう、目を凝らさなければ見えないほど淡くて、儚げで、それでもやはり、綺麗だった。どこからかまた、ふわりと、蚊取り線香の匂いがした。


「あやめちゃん」


「……んー」


「夕方だよ。起きて」


「起きる……」


  身をよじっても目は開けない。僕だけ先に立ち上がってから、そのまま腰をかがめて、彼女の身体をすくい上げた。想像していたよりも遥かに軽くて、一瞬だけ拍子抜けしてしまう。


「えっ、あっ……えっ……?」


「……あやめちゃん、軽いね」


「えっ……お姫様抱っこ……?」


  寝ぼけまなこを擦りながら、混乱したように僕を見る。そういえば、あやめを抱き上げたのは初めてかもしれない。思った以上に軽くて、華奢で、腕のなかにしっかり収まっていた。


「近くで見ると、もっと可愛いね」


「えへへっ……。なんか、赤ちゃんに戻ったみたい」


「だいぶ大きな赤ちゃんだね」


 ひとしきり笑って、その余韻が静寂に変わる。はっと現実に引き戻されたような、そんな嫌な感覚だった。今は何時だろうと取り繕うように時計を探しながら、四時くらいか、と呟く。


 ……例えばこれが、あやめが死ぬ直前の二年前だったら、その時に抱き上げることができていたら──今と同じこの感触で、この重さだったのだろうか。何も変わらないようで、何かが変わってしまっているかもしれない、そんな漠然とした恐怖が、脳裏によぎっていく。


「彩織ちゃんさ、夕方って、怖い?」


「……別に。なんで?」


「じゃあ、子供の時はどうだった?」


「怖いっていうか……寂しいかな」


 近くから見上げるあやめの身体に、抱きかかえた僕の手が透けている。それでも服は透けないんだな、なんて、そんな馬鹿なことを思った。寝起きでいくらか情緒が不安定かもしれない。


 彼女は「ふぅん」と呟いて、優しく僕の腕から降りると、そのまま窓際に立つ。


「ちょっと前に、夕暮れ時の踏切が怖いって話したの、覚えてるかな。薄暗くなって、綺麗なはずの曼珠沙華が不気味で、でも、お家に帰るには、我慢してあの道を通るしかないの」


 昔を懐かしむように、或いは斜陽の眩しさに目を細めるように、あやめは外を眺めた。


「……今日の夕暮れは、彩織ちゃんは、怖くない?」


「あやめちゃんがいてくれるなら、大丈夫だよ、きっと」


 わざと間髪入れずに答える。少しでも口ごもってしまったら、それが明確な肯定になってしまう気がして。それに、今だけは自分を誤魔化したかったから、そう答えた。彼女の言いたいことに気付いてしまったから、少しでも不安にさせまいと、そんな優しい嘘を吐く。


「明日も、一緒にお散歩、行きたいなっ」


「うん。あやめちゃんとなら、どこでも」


 どこかで聞いたような、或いはどこかで言ったような台詞だなと、そう思った。けれど上辺だけの取り繕いではなくて、衷心から絞り出した本音であることは、分かり切っていた──。


 



 あやめと一緒に居間を降りて、適当に夕食時まで待つ。いつの間にか叔父と叔母も仕事から帰ってきていて、祖父母は珍しく二人で台所に立っている。小夜はマイブームの早風呂らしい。


「……あ、降りてきとる。彩織ちゃん今から風呂入る?」


「じゃあ入ろっかな。ご飯までまだ時間あるし」


「うん。ぬるめのお湯にしといたから気持ちいいでー」


 隣にいるあやめと目を合わせながら、すれ違いざまの小夜に手を振って居間を後にする。何を言わなくても僕の後ろをついてくるのは昔からで、まるで、鳥の雛みたいだなと思った。


 脱衣所に入るや否や、彼女は楽しそうに声を弾ませながら笑う。


「ねぇねぇ彩織ちゃん、ぬるめのお湯だってっ!」


「ね。気持ちよさそう」


「一緒にぎゅーってしながら入ろうね?」


「……まぁいっか。今更だし」


 苦笑しいしい服を脱ぐ。それくらいではもう、お互いに顔を背けることもなくなった。ここ数日でだいぶ慣れてきたというのか、恥ずかしいけれど、まぁ、という関係性にはなっている。


 とはいえやはり、女子の素肌が見えるのは落ち着かない。ましてや奔放なあやめのことだから、一度でも開放的になってしまうと、子供のようにはしゃぎだすわけで。少し困るかな。


「おーっ、なんか涼しいかも……!」


 フェイスタオルで前だけをぎりぎり隠しながら、彼女は一足先に浴室へと入っていく。小ぶりなお尻が丸見えだ。でもまぁ、僕も多少は慣れた。こちらはしっかりと腰にタオルを巻く。


 肌にまとわる熱気は、確かに少しぬるかった。換気扇が回っているし、窓が少し開いていることもあるのだろうけれど、張られたお湯に手で触れてみると、確かに心地よい温度だ。


「えへへ……暑い日にはこういうのもいいねぇ。それじゃあ、今日もお願いしますっ」


「あやめちゃん、人に洗ってもらうの好きだねー……。家族がそうだったの?」


「んー……別に。彩織ちゃんにやってもらえるから、ね? 意味があるわけでさ」


 椅子に座ったあやめが、首を回して僕を見ながらそう力説する。なんとなく分かる気もするなぁ、と相槌を打って、いつものようにシャワーで髪を濡らす。温度は少しぬるめにした。


「ひゃっ! っ、あははっ、ちょっと冷たい……!」


「慣れれば気持ちいいから、ちょっとだけ我慢ね」


「なんかそれっ……! えっちな意味に聞こえ──いてっ」


「人が真剣にやってあげてるのにさぁ……」


 含み笑いで軽く頭を叩きながら、僕はそのままシャンプーを泡立てる。マッサージするように指を動かしていって、リラックスしたあやめの顔を見るのが、ちょっとした楽しみだ。お風呂のときだけじゃなくて、寝る前のスキンシップとかにもやってるし。正直、癒しになる。


「はい、腕。大きく上げてくださーい」


「ばんざーい」


 流れるような手順でリンスまで終わらせる。手触りの良い髪を軽くまとめて、今度は身体を洗う体勢に入った。本人の強い希望で、僕の手で洗ってほしいらしい。数回目とはいえ恥ずかしいものだ。まぁ、最後には僕も洗ってもらうから、ぶっちゃけお互い様ではある。


「あやめちゃん、本当に肌すべすべだね」


「でしょでしょー。気持ちいい?」


「……あとで抱きしめさせてほしい」


「彩織ちゃん素直だなぁー……。えへへぇ」


  ボディーソープの甘い匂いが鼻を香る。泡が余計に手のひらを滑らせて、それがなおさら心地良さを増していた。適度な温かさと柔らかさに触れていたくて、同じところを何度も洗う。


「流すよ」


「うん。次は私ねっ」


  付いた泡を流しきらないまま、あやめは即座に立ち上がって僕を椅子に座らせる。足元にあるフェイスタオルは見ないふりをした。油断しすぎ……。僕じゃなかったらどうするんだろう。


「彩織ちゃん、冷たい?」


「ううん、大丈夫」


「じゃあ、頭いくねぇ」


  細っこい指先で掻き回すように撫でていく。優しいというよりは少し手荒で、加減を知らない子供らしさがそこにあった。同年代の幼馴染……のはずなのに、たまに親子と錯覚する。


……すっぽんぽんなのを気にしないままのところとか。


「流すねっ。そしたらリンスやるからね」


「はぁい」


  流すのも豪快だ。水圧の強さを肌に感じながら苦笑する。


  「泡が出ない魔法のシャンプーだよっ。すごくヌルヌルするんだよっ」と言われて、頭をわしゃわしゃと掻き回された。謎に髪を立たせて遊ばれながら、いよいよボディーソープ。


「じゃあ彩織ちゃん、ばんざいしてね」


「はい」


「えへへ、素直だ……。洗うねー」


  ちょこんと立てた泡を僕の肩に乗せると、そこから手のひらで伸ばしていく。


自分が洗うのとはまた違う感覚だった。触られているという感じが大きい。


「これ、手で洗うより、私の身体で洗ったほうが早いのかな」


「……変なこと言わないで。ただでさえ裸なのに」


「へっ……? あ、タオル持ってなかった……」


  気付くのが遅い。


「でもまぁ、私、おっぱい小さいから。大丈夫っ」


「いや、そういう問題? 抵抗ないから大丈夫なの……?」


「大丈夫だよっ! 一緒に抱き合って寝てる仲じゃんっ」


「そういう問題じゃないですっ。タオル巻いてね」


「はぁー……」


 なんで溜息を吐かれなければいけないのだろうか。


 それでもあやめは楽しそうに笑うと、僕の身体に付いた泡を適当に流してから、勢いそのまま浴槽に飛び込んだ。無邪気な笑みと伸ばされた手が照明に透けて、湯気に隠れていく。


「えへへ、くっついちゃった」


 後を追って沈む僕に、彼女がぴたりと身を寄せた。浴槽に足を伸ばしながら、かろうじて見えているくらいの半透明を、逃さないように抱きしめる。それは確かに、温かかった。


「あやめちゃん、そのうち暑くなったから出る、って言うのに一票」


「ううん、違うよ。暑くなったからもう出よう? って誘うのが正解ですっ」


  屁理屈だなぁ、と笑いながら、もう少しだけ強く抱きしめる。彼女が隠しているのは身体の前だけ。水中越しにも素肌の感触はよく分かって、柔らかいな、としか思えなかった。


  それなのに透けているのがおかしくて、頭がこんがらがりそうになって、目をつぶりながら天井を仰ぐ。何も考えていないのに、眦がじわりと滲んで痛いような、そんな気がした。


「……彩織ちゃん」


「うん?」


「好きって言って。私のこと」


「なんで」


「言ってほしいから。私も言う」


  顔を上げて、上目遣いで僕を見る。はしゃぐような声でもなくて、沈みきった声でもなくて、ただひたすらに澄んだ、反響した、優しい声音だった。考えていることは、きっと同じだった。


「──昔っから大好きだよ、あやめちゃん」


「うん、私も、彩織ちゃんのこと大好き」


  一言二言、似たような言葉を、また繰り返す。それに意味はほとんどなくて、ただ、お互いの自己満足のような気がした。気恥ずかしさよりも勝る充足感が、手足の先を温めていく。


「……彩織ちゃんのなか、落ち着くなぁ」


「僕も、あやめちゃんを抱いてると、落ち着くよ」


「なんか、今年の夏は──いちばん仲良しだね。彩織ちゃんと会えて、恋人になれて、一緒にいられてるから。あの四年間を一気に取り返したみたいな、そんな感じがしてるんだ」


  そこまで続けて、あやめは気の抜けた欠伸を漏らす。身体が沈みかけるのを抱き直しながら、伝染した欠伸を噛み殺した。


「……そろそろ出る?」


  彼女に気を遣われたと気付いたのは、三秒後だった。




 

  眠くなったから部屋に行ってるね、という嘘は、みんなにはとっくに見抜かれているのだろうか。もはや何回目かの嘘か分からない。けれども騒がしい居間に寝転がっていたあやめの様子に、僕もあてられてしまった……というのが正直なところだ。夕食は少し、喉に詰まった。


  布団の上で猫のように丸くなっている彼女を横目に、僕は日記帳へと筆を走らせる。等身大の想いを書き綴って、結びの句点からペン先を離して、安堵の吐息とともにノートを閉じた。


「あやめちゃん、眠い?」


「……ちょっとだけ」


 窓の向こうが暗くなったから、昼間よりも、彼女の姿がよく見えた。座卓の上には、数時間前に置いたばかりのラムネ瓶とビー玉が、静止しながら蛍光灯の白を煌々と映している。


「ねぇ、このビー玉さ、まだあやめちゃんの名前を書いてないよね」


「……あっ。書く。マジックどこ?」


「ほら、これ。持ってきといたから」


「えへへ……マジックで書くときってなんか緊張するなぁ」


 さっきまで眠たがっていたのが嘘のように、あやめは僕の隣に肩を寄せて座る。細い指先でペンを持ち、ビー玉を押さえながら、真剣な顔つきで筆先を硝子の上に滑らせていった。


 瞬きすらしない横顔が、黒い髪に透けて見える。目線がわずかに動くばかりで、これだけ集中している彼女の面持ちを、未だに僕は、あまり見たことがないような、そんな気がした。


「できたっ」


 小さな手に乗せた小さなビー玉に、崩れた字。たどたどしい筆致で、乱れていて、お世辞にも上手いとはいえないけれど──そこに込めた感情は、安堵の笑みとともに伝わってきた。


「彩織ちゃんも、書いて」


「えっ?」


「お守りにするから。お父さんに会った時に、自慢するの」


「……じゃあ、ちゃんと成仏できるお守りだね」


「うんっ」


 屈託のない笑みで、あやめは笑う。明日が彼女の命日だ。すべて清算して送り出すのが、僕の役目なのだから──そう、これでいい。父親に会えると、嬉しそうに話してくれているぶん、もう現世に未練はないのだろうなと思った。あとはもう、心の整理をつけておくだけだ。


 彼女から受け取ったペンを片手に、もう一つのビー玉を手繰り寄せる。硝子に歪んで映る二人の顔が、やはり、照明の白に掻き消されがちだった。爛々として、少し眩しい。


「……ごめん、手が震えちゃうから押さえてくれない?」


「もー、彩織ちゃんは緊張しいで甘えんぼだなぁ」


あやめは僕の背後に移ると、そこから身体を寄せて、包み込むように手を握る。首筋を撫でる毛先がくすぐったくて、けれどもなんとか我慢しながら、温かい感触に意識を向けた。


「大丈夫?」


「うん、おかげさまで」


 触れているだけで、落ち着くような気がした。それは今だけじゃなくて、昔から。 


「……書くね」


  彼女が息を呑む音も、よく聞こえる。軽く押さえられた優しさを運ぶように、少しだけ重い手でペン先を動かした。漢字で書くのは難しそうだから、あやめに合わせて、平仮名。


「どうかな」


「うん、いいかもねっ」


  お揃いだねぇ、と、二つのビー玉を手に笑う。これだけありふれた存在が宝物になるなんて、不思議な感じだ。とはいえ思い出と呼ぶには、あまりにも儚すぎる。それは子供の頃、大切にポケットに入れていた、あの蝉の抜け殻にも、どこか似ていた。


「……ねぇ、お布団、入ろ」


「ふふっ、集中したら疲れちゃった?」


「えへへ、そうかもしれないねぇ」


  ビー玉を動かないように座卓へ置くと、あやめはそのまま僕の膝の上へ寝転がる。甘えんぼなのはどっちだか、と笑いながら、梳くような手触りの髪越しに、頭を優しく撫でた。


「よっと」


「わっ……!?」


  しっかり抱き抱えながら、僕は立ち上がりざまに布団へと向かう。本当は膝枕をしてあげても良かったのだけれど、顔を見ていたら、無性にくっつきたくなった。それだけの話だ。


  寝転がらせて、手を絡める。目線が合うのも逸らさないまま、お互い少しはにかんで、なんとはなしに足も絡めた。お風呂に入っていた余韻なのか、肌はまだ微かに火照っていた。


「……まだ九時にもなんないよ?」


「じゃあ、それまで抱きついてようか」


「彩織ちゃん、ぎゅーっしてるの好きだねぇ」


「……落ち着くんだよ、これ以上なく」


「でも、あっちいんだもん」


  そう言いながら、あやめは絡めていた手をほどいて、僕の背中に入れてくる。確かな温もりを持つそれが、柔らかさとともに背筋を優しく撫でていった。まるで陽だまりのようだ。


「彩織ちゃんの肌、ひんやりしてて気持ちいね」


「あやめちゃんはこんなに温かいのにさ」


「えへへ、くすぐったいから触っちゃ嫌だよ」


  手のひらを温めていく彼女の体温が、僕にはやはり心地よい。じっと触れているだけでも、意識が微睡んでいくようだった。睡魔が目蓋を押さえていって、それを必死に払い落とす。


「彩織ちゃんはもう、ドキドキしないの?」


「慣れたよ、流石にね」


「可愛いなって、思ってくれてる?」


「……そりゃあ、昔から」


  彼女は何も言わずに目を細めると、そのまま指先を絡めた。抵抗も反応もしない。それが自然とでも言うような、そんな、日常的な行動。ただ、胸の奥は、温かくなった。


「──んっ」


  ついばむように唇を尖らせて、あやめは不意に重ねてくる。悪戯をした子供のような、或いは蕩けたような笑みを洩らしながら、彼女は小さな歯を見せて、また指先に力を込める。


「あやめちゃん、もしかして、キスが好き?」


「んー……気分だよ、気分っ」


「僕の顔を見てたら、キスしたくなっちゃうってこと?」


  うん、と、迷いなく頷いた。キス……ではないけれど、無性にあやめを抱きしめたくなるのは、あれもきっと同じなのだろう。甘えられるし、甘やかせる。手を握るのも、たぶん一緒。


「……彩織ちゃんからは?」


  節操なく甘えてくる。一週間前の自分なら、きっと恥ずかしがって何もできなかっただろう。でも、変わった。変わらざるを得なかった。受け入れてくれたのは、他ならぬ彼女自身だ。


  目蓋を閉じて、顔を寄せる。唇が触れて、柔らかい感触がした。ぬるい吐息が漏れた。泡沫が、空気の海に浮かんでいった。


一秒では終わらない。三秒、五秒──胸の奥が苦しくなって、そのたびに頭上で泡が爆ぜていく。朦朧としかけた脳が、せめて息継ぎをしろと言ったから、泡沫はそのまま酸素を吸った。 「……これで、満足かな」


「……えへ、ボーッとしてきちゃった」


  困ったように二人で笑う。心臓が捕食に喘いでいる。絡めた指先の脈が、馬鹿みたいに早くなっている。回らない頭で、今はお互いに眠いんだ、ということだけを理解していた。


「彩織ちゃんさ、子供の頃……」


「うん?」


「寝る時、どんな歌を歌ってもらった?」


「……蝶々の歌。歌詞は覚えてないけど」


「蝶々?」


「うん。メロディはなんとなく覚えてる」


  そっか、と呟いて、あやめはそのまま目を閉じた。やがて口ずさんだメロディは、少し聴いただけでも分かる、適当なもので──僕の記憶にあるものではないけれど、でもどこか優しくて、温かくて、白い眩しさみたいに、懐かしいような気がした。


「えへへ、彩織ちゃん、おねむだねぇ」


  とん、とん、という規則的な感覚が、僕の意識を引きずり込んでいく。明日が最後なのだから、せめて今日くらいは夜更かししていたいのに。そんな想いも虚しく、いつの間にか寝てしまっていた。隣の気配は、ずっと動かないままだった──。

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