九月四日

夏休みの最終日

──誰かの話し声で目が覚めた、ような気がした。重い目蓋をそっと持ち上げると、とうに昇りきった陽光の眩しさが滲みる。眦を伝う涙を指先で拭うと、視界にもピントが合ってきた。


「あっ、彩織ちゃん、起きた?」


 いつもの聞き慣れた声がする。布団に手をついて、僕の顔を覗き込んでくる。肩まで伸びた黒髪も、黒曜石のように澄んだ瞳も、前と何も変わらないのに──なんだか、妙な違和感があった。透き通るように綺麗な肌に触れて、僕はふと気付くと同時に、彼女を抱きしめた。


「えへへ……気付いた?」


「そりゃあっ……え、なんで……?」


「私も、分かんないけど」


 見間違いかと思った。夢かと思った。何度も寝ぼけまなこを擦って、到底、嘘にしか思えない目の前の現実を見ようとした。けれど何も変わらないまま、あやめは昔のように笑っている。何もかもが戻っている。この夏、出会った時の姿で、透明ではない姿で、存在していた。


「最初は、見間違いかなって思ったよ。……朝日がね、すっごく眩しいみたいな気がした。空も、すっごく青くて、自分の手を見たら、透明じゃなくて……でも、透明に見えるほど、綺麗な肌色。それで分かったんだ。きっとね、たぶん神様が、お願いごと、叶えてくれたんだよ」


 「神社でお祈りしたの、覚えてる?」と、耳元で声がする。


「私、『この夏を楽しく過ごせますように』ってお願いした。今日が私の命日だから……今日、ちゃんと成仏するから、いい子だねって、褒めてくれたんだと思うな」


「……うん、きっとそうだよ。しっかり踏ん切りつけられるのは、偉いし、凄いから」


「それにね、気付いたんだ。昨日までは分からなかったけど……よくよく考えたら、昨日くらいから、目もはっきり見えるの。色も、こんなだったなって。自然すぎて、気付かなかったや」


 屈託なく笑うあやめの姿に、思わず僕もつられてしまう。神様はいたんだ、なんて、そんな思いが胸を満たしていった。薄幸ばかりの彼女が、最後の最後に報われたような気がして、眦から伝っていた涙を優しい指先が拭ってくれる。何も言わずにただ、眩しさに目を細めていた。


 けれどそれは──今のあやめは、まるで消えかけの蝋燭みたいで、純白のワンピースと、透き通ったような髪も、肌も、夏の終わりを彩る、儚い産物の一つに思えた。僕にとっての夏は、昔から、彼女だから。それが紛れもなく終わってしまうのだと、胸の奥が鈍く痛む。


「──おっ、彩織ちゃん起きたん? おっはよー」


「……小夜。早いんだね」


「ちょっと覗いてみたら、あやめちゃんが起きてたっぽくて」


  ほら、と座卓の上を指し示す。破いたノートとペンが置かれていて、昨日にはなかったものだ。ページの終わりまで何か書かれているのを覗こうとしたら、あやめにすぐ止められた。


「なに」


「彩織ちゃんはまだ見ちゃダメっ」


「なんで」


「これは小夜ちゃんのお手紙だから」


「小夜に?」


  僕の隣に座りながら、小夜は自慢げに頷く。


「あやめちゃんの気遣いやね。ウチは何も渡せるものとかないんやけど……それでも構わんって言うから」


「へぇ……。あやめちゃんが手紙を書くって、あんまりイメージないけどなぁ。でも、いいね。形に残るものだもんね」


  そんな話を横目に、彼女は手紙を丁寧に折りたたんでいく。変わった折り方をしているなと思ったら、どうやらハート型らしい。小夜が可愛らしい声を上げると同時に、あやめも笑った。


  『小夜ちゃんへ  椎奈あやめより』と、ペンで書く。それを大切そうに手渡すと、少し迷ったように視線を彷徨させてから、またノートのページを破いたそこに、何かを書き始めた。


「……あやめちゃん、こんなんできたんやなぁ」


  可愛いんね、と、僕に耳打ちしてくる。昔から一緒にいたのに、この歳にもなって、まだ知らないことがあったらしい。


  小夜はずっと、あやめのことを無言で見つめていた。もちろん見えているわけではない。ただ、やはり、本当に見えているかのように──動いているペン先ではなくて、まるで、彼女の横顔を眺めているみたいな、そんな懐かしい表情をしていた。


「ウチはね、見えなくてもいいんよ。いてくれるだけで。こんだけ大事な人だったら、それだけで安心できるやん?  ……あと、不思議なことにさ、なんか、ぼんやりと見える気がして」


  珍しく女の子座りをしながら、太ももの間に手を挟んでいる。いじらしい彼女が言うことも、なんだか分かるような気がした。


「……よし、書けたっ」


「なに、それ」


「私から小夜ちゃんに言いたいこと!」


  満面の笑みで、それだけ告げる。ページびっしりには書かれていないけれど、それでも、一行や二行は書かれていた。


「『いま渡したお手紙は、私から小夜ちゃんへの想いを書いたものだよ!  目の前で読まれるとはずかしいから、ぜったい、私がいなくなったあとに読んでね。彩織ちゃんには見せてもいいけど、しっとされるかもだから、気をつけてほしいな……。』」


  なにを書いたのか知らないけど、僕がそれくらいのことで小夜に嫉妬するだろうか。自分があやめにとっての一番だと分かりきっているのだから、心の余裕は大海原よりも広い。はず。


「ここじゃ読まへんよ、どうせ泣いちゃうもん。ボロボロ泣いて笑われるくらいなら、普通に笑って別れたいわ。あとでギャーギャー泣いて、彩織ちゃんに慰められるんがオチやけどっ」


  三人で、顔を見合わせて笑う。きっと……いや、絶対、そうなるんだろう。僕だって、本当は小夜に慰めてもらいたいんだ。ただ少なくとも、この二人では、今後もやっていけるはず。そんなことを無意識に思いながら、あやめを安心させたかった。


「……前にも言ったけど、あやめちゃんに会えて良かったって思うわ。会えなかったらきっと、何も清算できないままで、何も変わらないままで、ずっと後悔してるばっかやったから。まだ自分じゃ許しきれてないけど……あやめちゃんが許してくれたから、なんとかやってこうって思えた。ありがとね、ほんとに」


「『昔のことは忘れてもいいけど、私のことは忘れちゃダメだよ。これはワガママだけど、二人には、私のぶんまで楽しんでほしいんだ。ときどき思い返してくれれば、それでいいから。』」


  あやめはやはり、どこまでも優しかった。底抜けに優しくて、それはずっと、昔から。ときどき自分勝手なところもあるけど、それさえ必ず、周りに対する優しさゆえの行動だから、強く言えないのだ。その優しさに、今まで甘え続けてきた。


「……あやめちゃん、ほんと優しすぎて心配になるわ」


  困ったような、けれども泣き笑いのような表情で、小夜はそっとあやめに手を伸ばす。あやめもそれに応えるように、小夜の指先を優しく撫でる。朝日がそれを照らしていた。


「……小夜ちゃんの手、柔らかいねぇ」


「……あったかい」


  感触は分からない。見えないし、聞けない。そうだとずっと思っているのに、小夜自身がそう言っているのに、ほとんど確信にも近いこの動きは──本当に、なんなのだろう。ここまでお互いに通じあっているのが、とても羨ましくなった。


  ──不意にあやめが指をほどくと、小夜が一瞬、寂しそうな顔をする。しかしそれを横目に彼女は、卓の上にあるペンを取って、さっきの紙をさらに破いて、一言だけ書き加えた。


「……好き好き言っても、今日くらいは許されるよね?」


  お茶目なあやめの照れ顔に苦笑しながら、僕は迷わず頷く。昔と変わらない筆跡で、『小夜ちゃん大好きだよ』と、それだけ。彼女の小さな嗚咽が洩れるのと、陽光の眩しさが目に眩むのは、ほとんど同時だった。それをまた、あやめが優しく拭っていた。


 



 


  三人で食べた最後の昼食から少し後、ふと冷蔵庫を覗いたら、未開封のラムネ瓶が十本、冷やされていた。祖母に聞くと、スーパーで安く売られていたから、まとめて買ってきたらしい。


「……彩織ちゃん、飲むん?」


「うん。あやめちゃんと一緒に飲もうかなって」


「おー……太っ腹だねっ。ありがとっ」


  冷蔵庫の前に集まりながら、居間の祖父母には聞こえない程度の声で話す。冷気がずっと頬を撫でて気持ちよかった。ちなみに駄菓子屋で買ったカルパスは、あっという間になくなっている。こういう時は絶対に小夜が裏で食べ尽くしたり……。


「冷蔵庫が冷えなくなるからあまり開けとくんじゃないよ!」


「はーい。おばあちゃんさ、このラムネ二本もらっていい?」


「いいよ、好きに持ってきな。いっぱい買ってきたから」


  冷えた瓶を握る手が、浮かぶ水滴に濡らされる。それだけビニール袋に入れて、僕は一瞥するようにあやめを見た。


「彩織ちゃん、どっか行くん?」


「あやめちゃん家。のんびりしてたいから」


  彼女の手をそっと引いて、玄関に向かう。小夜もそのままついてきて、眺めるように後ろ姿を見つめていた。僕たちが履物を履いても、それ以上ついてくる素振りは見せなかった。


「……小夜も行く?」


「ううん、もう邪魔したくないから、ここでええわ」


「じゃあせめて、道のとこまで行こうよ」


  頷く彼女と、嬉しそうに顔を綻ばせるあやめ。カランコロンと鳴く戸の音が、今日は特に澄み渡っていた。三人分の靴音も重なって、降り注ぐ日射しはやはり、底抜けに眩しい。


  家を出て、アスファルトを踏んだ。


「じゃあ、ウチはここで」


  軽快な小夜の声だけが、この昊天に融けていくようだった。紺青の空を、普段と何も変わらない入道雲が昇っている。


「あの、あやめちゃんさ──本当に、ありがとね。こういう形だけど、話せて嬉しかった。あやめちゃんのおかげで頑張れるし、絶対、無駄になんないように生きようって思ったんよ。失望されるようなことはせんから……見守ってくれると、いいなって」


  そう言って、気恥ずかしそうに笑う。一瞬だけアスファルトに落とした視線をすぐに上げると、まるであやめの答えを待つように、じっと、見えないはずのそこを見つめていた。


「うんっ、当たり前だよねぇ」


  届かない声を洩らしながら、あやめは一歩、二歩と近づいていく。そのまま小夜の身体を抱きしめると、小さくはにかんだ。


「……やっぱり、あやめちゃん、あったかいな」


  夏の暑さを抱え込むように、或いは夏そのものをしまい込むように、彼女はそれを抱き返す。懐かしそうな微笑。眦に溜まりかけた紅涙の、玻璃みたいな美しさ。けれども小夜はそれを自分で拭って、あやめには見せまいと、強がっていた。


  ──やがて、小夜のほうから手をほどく。額に滲む汗が煌めく。向こうに立つ陽炎が、夢心地のように揺らいでいる。それを無理やり引き戻すように、彼女はあやめと目線を合わせた。


「なぁ、あやめちゃん」


「……うん」


「また来年、会いに行くわ」


「……えへ、了解」


  小夜には、今のあやめがどんな顔をしているか、きっと分かっているのだろう。片方は盛夏のように吹っ切れた笑みで、もう片方は、晩夏の儚さにも似た、少しだけ控えめな笑み。それでも笑って終わらせるのがいいのだと、お互い、分かっていた。


「彩織ちゃん。あやめちゃんのこと、よろしくな」


「うん、任せて」


「じゃ、そういうことで。あやめちゃん、またなっ」


  手を振って、振り返す。そこを一瞬だけ眺めてから、駆けるように玄関へと戻った。今まで小夜がいた空間そのものが、晩夏の熱気に融和してしまうのが、目に見えて分かる気がした。


「……じゃあ、行こっか、彩織ちゃん」


  名残惜しそうな笑みが、僕を見上げる。繋いだ手のひらが、少し湿っている。数歩ほど歩いて、ふと振り返った。


  ──涙の跡が、アスファルトに消える寸前だった。


 



「……あ、曼珠沙華」


  僕があやめの髪飾りを眺めているのと、彼女がそう洩らしたのは、ほぼ同時だった。線路沿いにいよいよ咲き始めた紅い曼珠沙華が、帯のように連なっている。一つ、二つ、と咲いていた少し前を思うと、本格的に夏が終わるんだなと寂しくなった。


「やっぱり、あのくらい赤くないとねっ」


「……そうだね。鮮やかなほうが綺麗だもん」


「一本だけ、持ってっていい?」


「いいけど……何に使うの?」


「えへへ、最後までのお楽しみってやつ」


  悪戯っぽく笑いながら、あやめは線路沿いへと向かう。そのまま品定めするように曼珠沙華の大群を見回すと、ひときわ小さい、けれどひときわ鮮やかなものを、優しく手折った。


「それがいいの?」


「うんっ」


  僕はビニール袋にラムネ瓶を入れて、あやめは曼珠沙華を持って、けれどその間は、握りしめた手で繋がれている。少しだけ汗ばんだ手。少しだけ火照った手。柔らかくて、温かな。


  白い眩しさに目を細めながら、ふと気づく。


「あやめちゃん、今日は麦わら帽子、かぶらなかったの?」


「だって、眩しいほうが、目が見えるって感じするもんね」


  いつも通りの、向日葵のような笑み。もう一度だけ顔を上げると、さっきと変わらない入道雲が昇っていた。アスファルトから立つ熱気が肌に滲んで、そのせいか、胸の奥まで熱くなるような気がする。零れた笑みを、あやめが不思議そうに見た。


「お家に行くのも、久しぶりな気がするねぇ」


「ここ何日か、ずっと行ってなかったもんね」


「うんっ。やっぱりお家がいちばん落ち着くかも」


  頭上に生える枝葉の影が、坂ばいのアスファルトに落ちている。夏の木漏れ日も、至るところを照らしている。そこを踏まないように歩きながら、視界の端にかかる眩しさに目を細めた。蝉時雨の勢いも、一週間前よりは、大人しくなってしまった。


「いぇーい、到着っ」


あやめは家に戻るや否や、僕の手を引っ張りながら縁側に座る。いつものように「彩織ちゃんはここね」と、隣を叩いた。この感覚も、たった数日なのに、随分と久しぶりな気がする。


「やっぱり、最後はこの家だねっ」


  子供のように無邪気な笑顔が、黒髪を揺らす。曼珠沙華の髪飾りも陽光に燦々と瞬いて、とびきりご機嫌に思えた。


  焼けて熱い縁台も気にせず、あやめは足を揺らしている。見慣れたサンダルが、残影を伴って動いている。純白のワンピースが、風をはらんで膨らんでいる。曼珠沙華が、変わらない鮮やかさのまま、昊天を仰いでいる。手は、離していない。


「夕方くらいまでは、たぶん、ゆっくりしてられるよ」


「そっか。……なにする?」


「こういう時はねぇ、やっぱり、昔話っ!」


「絶対に泣くからやめよう」


  得意げなあやめの提案を却下する。「えー……」と残念そうな横顔を眺めながら、代替案はないものかと考えてみた。ふと居間のなかを覗くと、数日前の状態で、布団が敷きっぱなしになっている。あやめが起きてそのままだったのだろう。


「暑いから、せめて中に入らない?  布団あるし」


「おー……。じゃあ、そうしよっか」


「それじゃ、お布団にダーイブっ」


  手にしていた曼珠沙華を放り投げながら、子供のように布団の上ではしゃぐ。呆れたものだと思いつつも、最後の最後までこんな調子なら、むしろありがたいとさえ思った。例の曼珠沙華に関しては、どうして取ったのかさえ、分からないけれど。


「彩織ちゃん、こっち」


  手持ちを一緒にまとめたところで、服の袖を引っ張られる。あやめの隣に寝転ぶと、開けっ放しの戸の向こうに、ずっと広がる夏空が見えた。吸い込まれてしまいそうなほど、青かった。


  それを遮るように、少女の顔がひょいと現れる。えへへ、とだらしなく笑うのはいつものことで、僕の伸ばした腕を枕代わりに、あやめはやや上目遣いになりながら、口を開いた。


「……私、ずっと彩織ちゃんのこと好きだったからさ、いつかは恋人になるのかなって思ってた。でも、子供だったから、具体的に何するか分かんなかったんだ。小学校の時までね」


「やっぱり……中学生になると、意識しちゃった?」


「うん。こんな村だから、噂とかはすぐに回るし。私は……彩織ちゃん以外に、縁とかなかったから。あっ、でもっ、この夏に会ってからずっとそういうこと考えてたわけじゃないよっ」


  誤解されないように弁明してくるのが可愛くて、「分かってるよ」と言いながら、無意識的に抱き寄せてしまう。こういうことができるようになったのも、恋人になったおかげだった。


  この夏は、色々なことが変わった夏だ。環境、関係、境遇。成り行きで一線を越えたのも、そのなかに含めたっていい。


「プラトニックとか言いながら、昨日、結局しちゃったねっ」


「……雰囲気とノリで進めちゃった感あったよね」


「でもまぁ、彩織ちゃん、やっぱり優しかったよ」


ぽつりと零した言葉のなかに、小さな嬉しさが滲んでいる。蕩けたように目を細めるあやめの、逆光になったその姿がはっきりと見えることに、僕は堪らないほどの愛おしさを感じていた。


「……どっちのほうが引きずるのかなって、彩織ちゃんとお話してさ、ちょっと考えてみたんだよ。でもどうせ、どっちも引きずることになるから、思い出を増やすくらいはいいかなって」


  それにね、と彼女は続ける。


「現実的な話、彩織ちゃんはこの後も、ずっと一人で生きてくわけじゃないもん。私のことは覚えてても、きっと、他のパートナーさんができるんだよ。小夜ちゃんとか、いい子だよ」


「……なんで、いま他の子の名前を出すわけ」


「ごめんね。でも怒んないで聞いてほしいの。彩織ちゃんが私のこと大好きなのは知ってるよ。私だって大好きだよ。だけどさ、いつまででも一途じゃいられない時だってあるよ」


  ……分かっているはずだった。だった、のに、あやめからそれを言われると、これだけ辛いのはなぜなのだろうか。心臓が締め付けられるような、そんな痛みが続いて消える気配もない。


  目の前の少女は、いつになく真剣な眼差しで、黒曜石のようなあの瞳も、澄み切って凛としている。瞳の奥に深さを兼ね備えているんだと、気圧されるような雰囲気に気付かされた。


「あらかじめ言っておくね。私のことは……早いうちに、思い出にしてほしいんだ。いつまでも、そこに縋るのはダメだよ。けど、彩織ちゃんのことだから、それが難しいのは分かってる。他の女の子になんて、見向きもしないって、絶対に言えるもん」


  僕の服の裾を掴みながら、あやめはずっと、目を逸らさないでいた。それが彼女自身の覚悟だと、言外に告げているようで──やっぱり、あやめちゃんは強いな、と、そう思った。


「だから、小夜にってこと?  本人にも言われたよ」


「……やっぱり、小夜ちゃんも分かってたんだね」


  伏し目がちに呟いて、それから一瞬、静寂に戻る。耳が痛くなりそうな森閑のなかに、遠い蝉時雨と軽風の音がした。


「彩織ちゃんがいちばん気を許してるのって、私以外だと、小夜ちゃんしかいないよね。……別に、無理に恋人になれって言ってるわけじゃないよ。でも、そうじゃなければ、彩織ちゃんはずっと一人ぼっちになっちゃう気がして……。それだけは嫌なんだよ。だから、隣にいてくれる人は、いたほうがいいよ」


  訴えかけるような、諭すような、それでも、少しだけ無理をしているみたいな──少女の儚い笑みが、目の前で咲く。


  自分の恋人と別れることが決まっているのに、それだけでも辛いはずなのに、僕のことだけを案じて、あやめは現実的な心配だけをしてくれる。いや、辛いからこそ──いちばん傷の少ない可能性を提示しているのだと、そのことに今、気付いた。


「……小夜ちゃんはね、いい子だよ。優しくて、友達思いで、明るい子だよ。ただ、ちょっとだけ……自分で抱え込んじゃうところがあるから、そこは、しっかりケアしてあげてほしいな。私は本当に何も気にしてないんだって、何回も言ってきたけど──やっぱり、負い目は感じてると思うから。……お願い」


  ふと、あの時に言っていた小夜の言葉を思い出した。僕たちは『同じ穴のムジナ』のようなもので、彼女からすれば、それは『責任と贖罪』でもある。あやめはきっと、そんなことは思っていないだろうけど──まるで傷の舐め合いみたいな気がした。


「後追いなんてしたら、許さないからね」


「……分かってるよ、そのくらい」


  聞いたこともない低い声が、彼女の本気を示唆していた。どんな表情をしているかは見たくないから、また空を仰ぐ。


  ……仮に小夜がパートナーになったとして、それから一生続く傷の舐め合いが、果たして贖罪になるのだろうか。そんな僕の心境を見透かしているかのように、あやめは言う。


「あの……彩織ちゃんも、小夜ちゃんも、すっごく辛いのは分かるよ。でもそのままじゃ、私が安心できないんだよ。一生このままでいてほしくないの。だから、二人が一緒になったとしてもね──私に悪いと思ってるなら、せめて、楽しんで生きて。私のせいで、重荷を背負って生きないで。私のぶんまでさ……っ」


  彼女が裾をさらに強く握るのが分かった。逃げるように僕の胸元へと顔を埋めて、文句の一つでも言いたそうに、額を押し付けてくる。声は何も聞こえなかった。身体は少し震えていた。


  ──僕は、僕自身で自分を許せていなくても、あやめを信じきれていないのだろうか。限りなく本心に近いと分かっていても、どこかで罪悪感が邪魔をしてしまっていた。それは一種の呪いのような、死んでも解けないもののように思える。


「……分かった、約束する。あやめちゃんに迷惑はかけたくないから。小夜も同じこと言ってたし、一緒に頑張るよ」


「うん……。私はずっと、応援してあげるから」


  少しだけ弾んだ、けれどくぐもった声が、胸元で小さく響く。


さっきよりも強く抱き寄せた。確かに存在するその温もりを忘れないように、手のひらと指先で、優しく撫でた。穏やかな脈拍が、悠然とした時間の波を刻んでいく。それはやがて泡沫に変わって、紺青の空に吸い込まれていくように思えた。


手触りのいい髪は、わずかに汗の玉が煌めいている。火照った肌は、瑞々しさを残している。外から煙る土草の匂いが、遠くを微かに香った蚊取り線香のそれと、綯い交ぜになっていた。


「ねぇ、あやめちゃん」


  顔を上げたところに、ふと口付ける。ひんやりしていた。そんな感覚がどれほど続いたかは分からない。ただ、息継ぎのために唇を離した。目元も、口元も、愛らしく綻んでいた。


  暑さに朦朧としかけたなかで、二度目のキスをする。少女の目蓋が軽く震える。どうしてまた、こんなことをしているんだろうかと、ふと思った。理由はない。最初からなかった。


「えへへ……ばっちぃ」


  唾液が軽く糸を引く。あやめはそれをワンピースの裾で拭うと、一点だけ汚されて、色が変わって染みになった。


「……あっちいから、ついでに脱いじゃうね」


  悪戯っぽく笑いながら、拭ったばかりの裾をまくり上げる。白い下着が涼しそうで、何がなしに、いいなと思った。汗ばんだ肌に触れる風が心地よいのか、布団を足で扇ぎ始める。けれど、繋いだ手はやはり熱くて、それはそれで安心する。


「──忘れられないくらい、お願いしますっ」


  上目に僕を見るあやめの表情が、これ以上ないほどに愛おしかった。せめて、感触の断片でも覚えていようと、そう決めた。


 


 

  気付いた時には、すぐに分かるくらい陽が傾いていた。汗ばんだ服が肌に張り付いて、少し気持ち悪い。腕のなかで穏やかな呼吸をしながら、あやめは僕の顔を覗き込んでいる。結局、面倒だからと脱がなかったワンピースは、ほとんど透けていた。


「……なんか、時間が経つのも早いねぇ」


  ゆっくりと身体を起こして、彼女は外の様子を眺める。紺青から藍白に変わりゆく空の色を見ると、まるで空も透明になっていくような気がして、夕暮れ時の静けさは、やはり寂しい。


  癖のついた髪を手ぐしで梳かしてやりながら、そうだ、と思い出しざまに、傍らのビニール袋たちを手に取る。もう一度あやめに向き直ると、斜陽が放つ茜色が、瞳に眩しかった。


「あやめちゃん、ラムネ飲もう。あと、これも」


  縁台へと向かいかけている背姿を呼び止めて、僕は小さな手にそれを持たせた。ぬるくなってしまったラムネ瓶と、少しだけ疲れたような、たった一つの曼珠沙華。無意識に脈が速くなっていることに気がついて、何を焦っているんだ、と思う。


「あっ、曼珠沙華……。そう、これはね、使うんだ」


「何に使うかは、まだ教えてくれない?」


「うん、もう少し待っててね。私の思いつきだけど」


  無邪気に笑いながら、だんだんと涼しくなってきた軒先の縁台に座る。僕もその隣に腰掛けて、またいつもの横顔を見た。足元を彩る影が長い。今はいったい、何時になったろうか。


「やっぱり、夏はラムネが美味しいね」


  瓶の口を塞ぐビー玉を落としながら、あやめは飲みもしないうちに、そう呟く。とぷん、と沈む音が聞こえて、炭酸の弾ける細やかな音も、瓶の内側で反響しているような気がした。


「えへへ……ぬるいや。あんまり美味しくないっ」


「もっと早く飲めば良かったね。忘れててごめん」


「ううん、これはこれで思い出になるんだから」


  さほど冷たくないラムネ瓶越しに、庭先の景色を透かしてみる。炭酸水が背景を歪ませて、ピントの合わない写真みたいだった。ただ、斜陽の眩しさだけは、そこに溶け込んでいる。


「あ、彩織ちゃん、乾杯」


「あっ、うん、乾杯」


  硝子がカランと音を立てた。中のビー玉が波に揺れる。


「……あやめちゃんとラムネを飲んでるとさ、いちばん最初に会った時のことを、やっぱり思い出すんだよね」


「昔話?  絶対に泣くからやめようって言ってたのにねぇ」


「ふふっ。この際、別に泣いたっていいよ。最後くらいは懐かしんで終わるのがいいんじゃない?  どうせ幼馴染ならね」


「んー……まぁ、それもそうだねっ」


  ラムネ瓶を傾けるたびに、とぷん、と波が立つ。炭酸が喉を洗っていく。胸の内にある靄をすべて流し去ってくれるみたいな、そんな爽快感だった。思わず溜息が漏れてしまう。


「……でも、そうだよねぇ。あの時、彩織ちゃんに、麦茶あげたもんね。なんなら、えっと……関節キス、だったし」


「子供同士だから、まぁ、ノーカンってことでさ。でも、今なら普通に関節キスできちゃうよね。キスくらいならするし」


「えへへ……。じゃあ、飲む?」


「ううん、いいよ。これあるもん」


「ねーえっ!  私の勇気……!」


  恥ずかしそうに身体を仰け反らせながら、勢いそのまま叩かれる。大声を出して恥ずかしがるあやめは、ちょっと貴重だ。


  笑い声が夕暮れ時に染みていく。蝉時雨も、ほとんど聞こえなくなっている。ラムネを飲むたびに、喉が鳴った。


「彩織ちゃんはさ、夏休みも終わったけど、どうするの?」


「……地元に戻るよ。学校はもう始まってるし、夏休みが終わったら、ここにいる理由もないから。それに──ほら、小説も書き上げなきゃいけないんだ。ずっと、スランプだったから」


「そういえば、言ってたね……。スランプは治った?」


「さぁ、どうだろう、書いてみなきゃ分からないね。ただ……今年の夏休みは色々と楽しめたから、いっぱい頑張るよ」


「うんっ。私は、彩織ちゃんのおかげで目が見えるようになったからね。そこは本当にありがとうって思ってる。きっとね、彩織ちゃんだからできたんだよ。彩織ちゃんは凄いよ」


  僕の手の上に、そっと重ねてくる。寄せた肩が、軽く当たって離れない。自分の存在理由を本当に認めてもらえた気がして、この後も、きっとやっていけると思った。あの盲目に、色を分けてあげられたことが、あやめにとっての救いになったから。


「……じゃあ、いま書いている小説のヒロインをあやめちゃんにする、って言っても、怒らないでいてくれるかな」


「えっ……?  私?」


「うん、書いてみたいんだ。この夏にあったことを、忘れないようにさ。あやめちゃんのことも、一生、忘れたくないから」


  僕の問いに、彼女は少しだけ迷っているようだった。ふいと茜の射す空を見上げて、眩しそうに目を細める。


「私のことは、脚色しないで書いてほしいな。見た目も、性格も、お家の事情も……どういうふうに、生きてきたかも。彩織ちゃんが期待するほど、私、純真じゃなかったかもしれないけど──そこはしっかり、書いてほしい。彩織ちゃんから見た私がどんなだったのかっていうのも、好きなだけ書いてほしい」


  淡々と、けれど確かに意志を持った声。それがあやめの頼みなら、きっとその通りに書こうと思った。正直、スランプを抜けたかなんて分からない。ただ漠然と、書かなきゃいけないという使命感に駆られている。どれだけかかるか、分からないけど。


「分かった。あやめちゃんとの約束は、絶対に守るから」


「えへへ……ワガママばっかでごめんね」


  手に感じる温もりが、ひときわ増して強くなる。二人同時にラムネを飲んで、炭酸が滲みると目をつぶった。昔話といったけど、今さら話す内容なんて何もなくて、ただこうして一緒にいられるだけで幸せなのだと、やはりお互い、分かっていた。


「この一週間で、四年分、取り戻せたかな」


「もちろんっ。彩織ちゃんは、不満?」


「ううん。あやめちゃんが楽しめたなら」


「毎日、一緒に遊んで、お話して……。お泊まりもできたし、お風呂にも入れたし、小夜ちゃんとも会えた。好きなだけ寝て、起きて、彩織ちゃんと一緒で──すっごく楽しかったよ」


「うん、僕も楽しかった。これだけ楽しい夏休みは、久しぶり……いや、初めてかもしれないね。一週間だけだったのに」


  心から楽しめて、心から悲しめる夏休みになった。四年越しの再会が、その現実を見せつけてくれた。色を分けた夏で、夏の落とし物をたくさん拾った。初恋の相手の、その境遇を深く知った。せめてもの罪滅ぼしに、最期まで一緒にいると決めた。


  初恋が実った夏になった。幼馴染を失う夏になった。僕にとっての夏は、彼女の存在そのもので──あやめこそが、夏の落とし物なのだと、そう思わずにはいられないような気がした。今も、斜陽が沈むごとに、何かが離れていくみたいだった。


「彩織ちゃんは、なんでこの村に来たんだっけ?」


  一週間前の記憶を思い返すように、あやめは呟く。横目でそっと見つめると、何か言いたげに、柔らかく笑っていた。


「──夏を探しに来たんだ。自分の思い描く、理想の夏をさ」


「……それは、どうだった?  見つけられた?」


あの時と変わらない彼女の面持ちは、どこか満足そうで、頬を緩ませたまま僕を見つめているのが、少しだけ可愛らしく思えた。純白のワンピースを涼風になびかせながら、あやめはまた、濃さを増した茜色の空に映える、あの入道雲を見上げている。爛々と降り注ぐ斜陽の眩しさを愛おしむように、目を細めた。


肩まで伸びた黒髪と、紅い曼珠沙華の髪飾り──それが今は、麦わら帽子に隠れることなく現れている。黒曜石のように玲瓏とした瞳の色で、あやめはまた、僕の方へ視線を戻した。その答えを期待しているかのように、何も言わず、ただ見つめてくる。


「僕にとっての夏は、あやめちゃんそのものだからね。あやめちゃんがいなかったら、意味がないんだよ。だから、本当に……最後の夏休みを、あやめちゃんと過ごせて良かったなって」


  彼女に包まれた手が、痛いほどに握られる。俯いたように地面を見て、何かを隠すみたいに、僕と目を合わせなくなった。ただ、小さく首を縦に振っているのは、隣からでも分かった。


「彩織ちゃん、本当に……っ、私のこと、大好きだよねぇ……」


「だって、本当に大好きだから。そりゃあ言うよ」


  えへへ、と、泣き笑いのような声がする。あやめはそのままラムネ瓶を口に付けると、三口、四口と一気に飲み干した。軽やかな炭酸が喉を通って、目蓋を固く閉じながら、軽く悶えていた。


「あーあ、やっぱりシュワシュワして辛いや……」


  泣き顔を誤魔化そうと無理に笑う。眦から頬を伝う紅涙が地面に落ちて、丸い染みを作っていった。拭うわけでもなく、それ以上に零すわけでもなく、ただ、そのひとしずくのみだった。


「そろそろ、曼珠沙華の使い道、教えてあげるね」


「……そのラムネ瓶が使いたかったってこと?」


「まぁねっ。ちょっとお水だけ汲んでくる」


  ワンピースの裾で雑に涙を拭ってから、あやめは影の伸びる夕暮れ時を走っていった。地面を踏むサンダルの音が遠くなる。手に持ったラムネ瓶と曼珠沙華も、斜陽に染まっていた。


「……最後までご機嫌だなぁ」


  でも、それがありがたい。僕が今、それほど感傷的になっていないのも、彼女のおかげなのだから。あやめは、強い。僕よりも、小夜よりも、遥かに強い心を持っていると断言できる。どうしてこんなに強いのかと、たびたび疑問に思うほどには。


  やはり、一度は自分の手で命を絶ったから、それが影響しているのだろう。どうしようもない生前を、過去と割り切れる力。現在を現在と疑わず、残りわずかな未来に最大限の期待を込めて、それを実現させようとする力。言うなれば、運命への抵抗。


  一度は自分の意志で道を断ったからこそ、二度目の運命は、自分自身にとって最高になるように、舵を取り続けてきた。限りなく短い道のりのなかで、後悔のないように生き続けてきた。そして今はもう、この現実を、しっかりと受け止めている。


「……僕にできるかな、それが」


  自分なりに整理はしているつもりだ。やり残したことなんて、今さらありはしない。ただ、少しでも長く一緒にいたい。そして、あやめとの約束を守りながら、生きていくのだと。過去から目を背けずに、未来を踏み外さずに──それが贖罪だから。


「えへへー……彩織ちゃん、どうかな、綺麗でしょ」


  あやめの声がして、ふとそちらに視線を向ける。一瞬、ラムネ瓶に反射した斜陽の茜が瞳を射して、不意に目が眩んだ。目蓋の裏に残る残影を煩わしく思いながら、何度か瞬きする。


  ──それが見間違いだと思いたかったから。


「っ、あやめちゃん、それ……!」


「……あ、もうそんな時間になったんだ」


  僕の声にも動揺せず、彼女は寂しそうに笑ったまま、水の入ったラムネ瓶に曼珠沙華をそっと生けている。背後から射し込む日射しが嫌に眩しくて、それは、あやめの背を突き抜けていた。宵の色を増していくなかに、融け込むようだった。


「ねぇ、綺麗でしょ」


  僕の前に立つ半透明の姿が、逆光に掻き消される。それなのに陽線は透けて、僕の瞳を射してくる。柔らかく笑うその表情は、確かに綺麗だった。地面に揺らめきを落とすラムネ瓶も、瑞々しさを戻した曼珠沙華も、すべてが神秘的に見えた。


「……やっぱり、あやめちゃんは綺麗だ」


「えへへ……。夕暮れ時だから、余計にね」


  一秒経つごとに、陽は沈んでいく。一秒経つごとに、辺りは宵に呑まれていく。早まりつつある心臓の音が、悠然としたこの情景には不釣り合いだった。焦燥すら、無駄だった。


「彩織ちゃんと過ごした夏休み、楽しかったねっ」


「……うん、本当に色々と遊べた。ありがとう」


「こちらこそ。彩織ちゃんがいなかったら、さ」


  ぬるくなったあやめの手が、そっと僕の手を握る。火照ってはいない。ただ、冷たくはない。中途半端にぬるいだけ。それがなんだか遠い存在のような気がして、もっと強く握り返した。


「彩織ちゃんさ、私のことを、夏そのものだって言ったよね。夏の色は、あやめ色だって。……それと同じで、私にとっての夏は、彩織ちゃんだったんだよ。彩織ちゃんしか、いなかった」


  ──そう、そうだ。僕にとっての夏は、今も、昔も、あやめだった。それしか有り得なかった。彼女と過ごすことが日々の彩りで、見るものすべてが、まるで夏の落とし物のようだった。いま飲んでいるラムネ瓶に、それが、ぎゅっと詰まっている。


「……来年の夏は、私はいないけど。でも、楽しみにしてることはいっぱいあるんだよ?  彩織ちゃんが進級して、学校でお勉強してることとか。しっかり小説を書いて、それを読ませてくれることとか。また報告に来てくれるって、思ってるからね」


  僕の手を握りながら、しゃがみ込んで目線を合わせてくる。半透明の瞳が、斜陽の茜に煌めいている。眩しいから目をつぶっただけなのに、眦のあたりを、涙が滲みるような気がした。


「眩しいから、目に滲みちゃった?」


「っ、違う……眩しく、ない」


「……誤魔化さないで、偉いね」


  とびきり優しい声とともに、ぬるい感触が眦に触れる。今さら、気取りたくなんてない。せめて最後くらいは、等身大のままで終わらせたかった。背伸びをしてもお見通しだろうから、そして、少しくらい困らせても、構ってもらえるから──そんな、子供みたいな理由で、けれど本当に悔しくて、また指で拭う。


  何が悔しいのかなんて分からない。分からないけれど、ただ、そう思った。自分の前からいなくなってしまうことが、悔しいのだろうか。そんな利己的な理由で、あやめだって同じはずなのに、本当は無理して笑っているはずなのに──僕だけがこれで、いいのだろうか。そう分かっていても、変われない。


「また、小夜ちゃんと三人で話そう。今度はきちんと、声が伝わるといいね。どうすればいいかは分かんないけど……。……でもね、私、ちゃんと二人のこと、見守ってあげるからねっ。何かあっても、頑張れって、応援するから。夢にだって出るからっ」


「……本当に?  出てこなかったら怒るよ」


「なんで彩織ちゃんがもう怒ってるの……。大丈夫だよ、私は嘘つかないよ。彩織ちゃんが私のことを忘れない限り、ずーっと一緒だから。ね?  安心していいんだよ。何も怖くないよ」


  あやめがそう笑ううちにも、陽はどんどん傾いて、夜の底が見えていくのが分かった。同時に、彼女がそこに融けこんでしまいそうなほど、透明の色を増していくのも分かった。


  抱きしめたいのに、何かが怖くて触れられない。手に伝う感触が、麻痺したように薄くなっていく。温度も、匂いも、あの柔らかさも、すべてが呑まれていくような気がした。けれど、いま手を伸ばさなければ、そのすべてを永遠に忘れてしまいそうだから、僕は咄嗟に言う。


「──っ、ねぇ、あやめちゃん」


「うん、なぁに」


「……もっと強く、抱きしめたい」


「えへへ、甘えんぼさんだなぁ」


  彼女が立ち上がって腕を広げるよりも早く、僕はそこに飛び込んだ。華奢な身体。ぬるさすらなくしていく体温。よろめくように一歩引いて、ラムネ瓶のなかの水が揺れる。曼珠沙華の花びらが頬をくすぐって、その場違いさを嫌だと思った。


「……ごめん、最後まで我儘ばかりで。安心してもらいたいのに、こんなんじゃ──子供みたいで、ごめんね……」


「ううん、いいんだよ。最後の最後だから、思いっきり甘えていいよ。全部、忘れないでいてほしいから……私も、やる」


  細い腕が、僕の身体を抱きしめている──はずなのに、その感触がもう、薄かった。自分の神経が麻痺してるんじゃないかとさえ思った。それほど、あやめの存在が、薄まっている。目蓋を開くのさえ怖くて、ずっと、仮初を網膜に映し出していた。


「……やっぱり、あったかいや」


 昔から変わらない声がする。けれど、抱きしめた感触は、昔よりも違っていた。……この夏以外に、あやめを抱きしめたことなんて、あったろうか。そんなことは覚えていないのに、ただ、抱きしめたという感触だけは、身体のどこかで覚えていた。


「……あやめちゃん」


「なぁに?」


「……ううん、呼んだだけ」


「……そっか」


  何を話せばいいのか分からなくて、このやるせなさを、何で紛らわせばいいのかも分からなくて、意味もなく名前を呼ぶ。それなのに不思議と、心の奥が、微かに満たされるようだった。


「ふぁあ……。えへ、ごめんね……急に眠くなっちゃって」


「うん……。じゃあ、あんまり無理させられないね」


「ううん、大丈夫、頑張るから。あとちょっと……くらい」


  気の抜けた欠伸とともに、あやめは弱々しい瞬きをする。耳元で聞こえる声は吐息のように、涼風をはらんでいた。


「……何も言うことなんてないのに、なんで、これだけ一緒にいたいって、思うんだろうねぇ。いつ消えてもいいって、準備はできてるのに──なんか、すっごく、もどかしいんだ」


  それはきっと、距離が近づきすぎたから。お互いに充実した、無駄な時間を過ごしてきたから。いちばん辛いのは、別れじゃなくて──それを待っている今の心境だと、そう思った。


「胸の奥が、ぎゅっと締め付けられて、少しだけ息が苦しくて、早く楽になりたいのに、でも、彩織ちゃんと一緒にいたい。ワガママだけど……でも、そろそろ本当に、踏ん切りつけなきゃね」


  微かに残る感触が、身体から離れて手だけを繋ぐ。半歩だけ下がったサンダルと、地面を削った音。耳元で鳴る風のような深呼吸は、逆光に暗く、斜陽を透かしたそこから聞こえた。


  ──夜の帳がほとんど降りかけて、どこかで街灯の灯りが点く。肩まで伸びた黒髪も、黒曜石のように玲瓏とした瞳の色も、そのすべてが、いよいよ藍に融けていく。微かに残った茜と紫金が、空いっぱいを、薄く、淡く、彩っていた。


「……彩織ちゃん。最後にさ、一回だけ見せたいものがあるんだ。行く時に思いついたの。綺麗な別れ方って、何かなって」


  目を凝らさないと見えないほどに、あやめは透明の色を増していた。それでも今は、確かに笑っているのだと分かった。ラムネ瓶と曼珠沙華だけが、黄昏時のなかで、仄かに浮かんでいる。


「綺麗な、別れ方……?」


「うんっ。なんか、かっこよさそうなやつ」


「ふふっ、なにそれ」


  僕の意識が遠のいているのか、或いはあやめの姿が、声が、だんだんと薄らいでいるのか──もはや、よく分からない。繋いでいるはずの手を確かめるように、何度も何度も握り直した。


  それでも、最後に笑えたことが嬉しくて、こんな時でも、彼女はまったく変わらないんだと思えて、どこか安心した。薄れていく体温を、その温もりを、手のひらでしっかりと感じる。


「じゃあ──また、来年の夏休みに会おうねっ」


  一瞬だけ、あやめの身体に茜が射したような気がした。半透明のそこを内側から照らすように、確かにそう見えた。一歩、二歩、と、軽やかに走るサンダル。涼風をはらんで、なびく純白のワンピース。首筋を撫でる髪と、透き通ったあの瞳も、すべて。


  手のひらから指先を、撫でるように這わせていく。感触がいよいよ薄くなって、途切れて、その余韻だけを残していく。あやめは吹っ切れたような、昔から変わらない、あの屈託のない笑顔を浮かべると、僕のほうを見て、弾んだ声で告げた。


「──彩織ちゃん、見ててっ」


  そう言うより早く、彼女は持っていたラムネ瓶を空いっぱいに放り投げた。揺らいだ水が口から漏れて、まるで、少女を彩る水滴のように、二人を隔てるように、視界をそっと覆っていく。


  雨のように降るその向こうを、ずっと見つめた。一秒ごとに雰囲気が薄れていくのが、はっきりと分かった。それでも目を逸らすことはできなくて、存在の残滓を、見つめ続ける。


  ──彩織ちゃん、危ないよっ。


  そう聞こえたような気がして、咄嗟に我に返る。あやめがいた場所に、ラムネ瓶の破片が舞い散る、ちょうどその時だった。傾いていった斜陽の名残に照らされて、硝子の煌めきが目に刺さる。地面に染みた水溜まりは、雨上がりのような埃臭さだ。


「……危ないよ、やることが」


  泣きたいのか笑いたいのか分からなくて、もうなんでもいいやと苦笑しながら、ふと気づく。ラムネ瓶の他に何かが足りない──あの曼珠沙華はどこに行ったのかと、あたりを見回す。


  土に吸われていく水を浴びて、花びらが一枚、残っていた。それ以外にはどこにも落ちていなくて、あぁ、と腑に落ちる。


「最初から持っていくって、言えばよかったのに……」


  その花びらをつまんで、僕はしばらく、眺めていた。


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