恋人らしく
「ただいま」
「お邪魔しまーす」
カラコロと鳴る扉の音を耳に聞きながら、僕とあやめは、同時に口を開いた。解いたばかりの右手に、まだ生暖かい感触が残っている。その右手で扉を閉めると、いつものように履物を揃えて、廊下に上がった。
奥からひょいと顔を見せた小夜が、「おかえりー。今日は彩織ちゃんたち、どこ行ってたん?」と訊ねてくる。妙に早い湯上がりの時間らしく、髪を団子状に束ねていた。目を凝らすと、蒸気が見えそうな気がする。というか、実際に見えていた。暑苦しい。
「駅のほう。っていうか、だいぶ早くお風呂に入ったね。まだ三時ちょっと……四時にはならないでしょ」
「いやほら、夜に入るの面倒やん? 今日はそういう気分ってことで、頭脳明晰な小夜ちゃんは先手をね?」
そう言って、彼女は額のあたりに滲むお湯だか汗だかを拭いながら、こめかみを人差し指で軽く叩いた。あやめがそれを見て、密かに、はしゃぐように笑う。
「小夜ちゃん、昔とそんなに変わらないんだね」
「なんだかんだ、そんなものだよ」
つられて笑ったところで、ふと我に返る。案の定、小夜は豆鉄砲を喰らったみたいにして、僕と、その隣に向けた視線の先を、交互に見返していた。
……失敗したな、と苦笑する。小夜が相手だから、素直に油断していたのだろう。最初からこんな調子じゃ、先が心配だ。隣にいるあやめも、少々、決まりが悪そうに目を逸らしている。
「……あれ、もしかして、あやめちゃんも一緒?」
──流石に察しが良かった。
「うん、まぁ。一緒に泊まりたいんだって」
「誰と?」
「僕と」
「あっ、そうなんや……。へぇー……」
小夜はそう呟くと、僕の隣にある空間──あやめが立っているあたりを気にするように、視線を何度か向ける。けれど彼女は、あやめが手を振り返していることを、知りようがない。やはり、見ることができないのだ。
あまつさえ僕からしても、あやめの姿は、半透明のそれとして映っている。今だって、そうだ。硝子戸から射し込む柔らかな斜陽を、彼女は素直すぎるほどに真っ直ぐ、一滴も洩らすことなく受け止めている。
「じゃあ、ウチはあんまり邪魔せんようにしとくわ。二人で仲良くするのもえぇけど、彩織ちゃん、皆にバレないように気を付けてな? それだけが心配なんよ」
「現にいま、ウチにバレてるもん」と彼女は笑う。
「うん。……あやめちゃんも、気を付けてね」
「えへへっ、大丈夫だよ。任せて」
締まりのない、可愛らしい笑顔が、逆に心配だった。
◇
そんな僕の心配も、ほとんど杞憂に終わったらしい。夕食の時になって、小夜が呼びに来るまでは通常運転。そこから雨宮家の一家団欒になってからは、あやめはまるで、自分は部外者とでもいうように、僕の背後でずっとご機嫌そうに笑いながら、その光景を眺めていた。
暇、ではないらしい。少なくとも僕たちの話に耳を傾けたり、笑ったりして楽しんでいるのだから、彼女なりに時間の潰し方を考えているんだろうな、と、そんなことを思う。
……小夜と話せていたら、どうなっただろうか。
「彩織、風呂入るか?」
夕食後の入浴時間。祖父がひょっこり居間に戻ってくると、僕を見ながら言う。扇風機の前に腰を下ろすと、そのまま無造作にタオルで頭を拭いていた。白髪が目立つのはいつも通り。
「んー……小夜は?」
「ウチは頭脳明晰な小夜ちゃんやからもう入った」
「あ、そっか。じゃあ入る」
食後のアイスを頬張りながら、小夜は得意げな笑みを僕に向ける。『夕飯のあとにわざわざ風呂に入らないんがこんだけ最高とはなぁ……』などと呟いているあたり、たぶん明日からは早めの入浴を心がけるようになるかもしれない。
僕が立ち上がるのに合わせて、あやめも後ろからついてきた。それを無視しながら、廊下を抜けて、奥にある脱衣場へと向かう。扉を閉め──ようとしたところに、半透明の彼女の姿が見えた。期待するようにこちらを見ている。
「……なに」
「えへへ、なんだろうね」
「やだよ、一緒に入るとか」
「私、まだ何も言ってないのに?」
彩織ちゃんのえっち、なんて言いながら、さらっと僕の腕をくぐり抜けて侵入してくる。それから当然のようにワンピースの裾に手をかけて、持ち上げようとした──寸前のところを抱きしめて止めた。本当に油断も隙もない。
「えっ、ちょっ、彩織ちゃん……? 誰もいないからって、さすがにまだ早いよっ」
「違うよ馬鹿っ。あやめちゃんがいきなり脱ごうとしたから止めたんだよ……!」
「だ、だって! 私もお風呂に入ろうと──」
「ずっとお風呂なんて入ってなかったはずじゃんっ」
「っ……!?」
あやめは目を見開くと、一気に顔を赤くしてから僕のことをボコスカと殴り始めた。
「乙女がっ、気にしてることをっ! 彩織ちゃんはどうして言うかなぁこの分からずやっ!」
「ちょっ……」
「それに恋人になったんだから一回くらい一緒に入ったっていいじゃんっ。大丈夫、半透明だから見えるところも見えないって……!」
「待って、一緒に入りたいだけなの?」
「……察しなきゃダメだよ、それくらい」
僕の腕のなかで、か細い声が聞こえる。服の生地に吹き付けた生ぬるい吐息も、密着して蒸し暑いこの感触も、お風呂場から朦々と立ち込める湯気の嫌ったらしさも、そのすべてが愛おしいというか、そんな気がした。あやめのいじらしさを前に、思わず目を逸らす。
いつの間にか、やかましいほど脈を打っていた。彼女を抱きしめていたことが今さら恥ずかしくなって、二人で顔を背けながら、無言の空気を吸い込んでいる。何かを言い出すのもはばかられて、けれど、密着したままで──何がしたいのかも、もう分からない。
「……タオルで巻いて入ろうか。お互い見えないようにさ」
「……ん。そうする」
「じゃあ、僕が先に脱いでるから、あやめちゃんは目ぇつぶってて」
僕の指令にあやめは無言で頷くと、なぜかしゃがみ込んでから、素直に扉のほうを向いた。目蓋をぎゅっと閉じているのが、半透明の背姿からでもうかがえる。可愛らしい。
そんな彼女を横目に、僕はさっさと服を脱いで洗濯機に放り込んだ。洗面台の鏡越しには、そっと僕の様子を覗き見ているあやめが──ってヤバい、タオル巻かなきゃ……!
「先に入ってるね。きちんとタオル巻いてこなきゃ駄目だよ? フェイスタオルじゃなくてバスタオルだからね。半透明だからとかそういう話じゃないんだからね」
「彩織ちゃん、私のこと何だと思ってるの……」
興奮してて危なっかしいんだもん、と笑いながら、磨硝子の引き戸を開けて浴室に入る。
浴槽から湯気が朦々と立っていて、夏なのに暑苦しいな、と思ってしまった。心臓の鼓動が早いのは、熱いせい……もあるけど、あやめが一緒にいるから、なのだろう。
そのまま足元の椅子に座って、桶でかけ湯をして、少しだけぬるくしたお湯をシャワーで浴びる。シャンプーボトルを押して、出てきた液を泡立てて、目をつむりながらいつものように洗った。流している最中に、背後からあやめが扉を開ける音が聞こえる。
「あの……ちゃんと隠してるから、大丈夫だよ」
「隠してもらわなきゃ困るんだよね……」
濡れて重くなった髪を掻き上げながら、ふと彼女のほうを見る。だいぶ大きめのバスタオルを巻いて、それごと浴槽に入るところだった。首から踵までしっかり覆われているから、もはや色気もなにもあったもんじゃない。逆に可愛らしくて、これでいいや、と思った。
「はぁー、あったかい……。久しぶりにお風呂なんて入ったねぇ」
「これから毎日入れるから、良かったね」
「彩織ちゃんと一緒なら、何をやっても楽しいもんねっ」
淡い照明に照らされた浴槽のお湯が、彼女が動くのに合わせて揺れていく。爛々とした眩しさは、半透明の身体を突き抜けていた。今のあやめと水は似ているな、と、ふと思う。大きいバスタオルだけが確かな存在をそこになびかせていて、それがまた不自然だった。
「みんなにバレないかどうかが心配だよ、僕は」
リンスを終えて、流す。手触りの良くなった髪を掻き上げてから、ボディソープの泡で身体を包み込んで、それからまたシャワーで流す。いかにも既製品という甘い匂いがした。
「はい、あやめちゃんの番」
「あーい……。でも身体洗うのめんどくさい……」
「……やらないからね、僕は」
「えー、まだ何も言ってないのに? 彩織ちゃんの妄想魔……いてっ」
呑気に足を伸ばしているあやめの頭を軽く叩いてから、僕は空いたスペースに割り込んで座る。お互いにさっきまでの恥じらいはまったくなくて、ゆるっとリラックスしていた。
立ち上がろうと姿勢を変える彼女に合わせて、お湯が波を打つ。その音が反響するのを聞きながら、あやめは「よいしょ」と声を上げて、タオルを張り付かせたまま椅子に座った。
「誰かにバレたら、彩織ちゃん、完全に変な子だね」
「だって、一人ぼっちでタオル巻いてお風呂入ってるし」と、彼女は笑う。
「……それはそうと、髪の毛だけでも洗ってほしいなー、なんて」
「いや、なんで。めちゃくちゃ恥ずかしいじゃん」
「恋人特権だよ恋人特権っ! 行使しなきゃもったいないじゃん」
「……それで僕に対価はあるの?」
「じゃあ、添い寝してあげよっか」
「乗った」
「えへへ、やったぁ」
我ながらあやめに甘いな……と思いながらも、こういうスキンシップがとれるのも、もう長くないんだということは分かりきっていた。だから、恥ずかしがっている暇なんてない。
ご機嫌そうに鼻歌を歌っている彼女の背後に立ちながら、僕は軽く深呼吸をする。それからシャワーの温度を改めて確認しつつ、慣れないながらも、優しく頭にかけてやった。これしきのことで楽しそうにはしゃいでいるのが、なんだか子供だなと思っても、ふいに嬉しくなる。
「シャンプーするね。目、閉じてて」
「りょーかいっ」
泡立てた液を、軽く揉み込んでいく。自分にするよりも遥かに丁寧に、マッサージするみたいに、優しく指を這わせていった。ここから彼女の表情は見えないけれど、たぶん、笑ってる。
「どう?」
「人にやってもらうのって、気持ちいいし楽だねー……」
「……明日は僕にもやってね」
「ふふっ、彩織ちゃん、嫉妬? それに明日もってことは、入る気満々だねぇ」
「裸さえ見えなきゃいいでしょ、お互いさ」
「んー……それもそっか」
「はい、流すよ」
「りょーか──って待って、あははっ、息ができないっ……!」
「我慢してね。……よし、あとは自分でやって」
「えー……!」
呼吸を止めていたのか、ぷはー、と息をしながら、あやめは不満そうな声を上げる。それを苦笑しいしい見送りながら、僕は手早く脱衣所に出た。磨硝子越しに声が聞こえる。
「え、彩織ちゃんもう出るの?」
「いや、だって暑いしさ」
「む……私がつまらないじゃん」
「じゃあ早く出てこようね。添い寝してくれるんでしょ」
「おぉ……? めちゃくちゃ楽しみにしてるパターン?」
「そのパターン。あとなんか普通に恥ずかしくなってきたから」
冷静に考えれば、介護でもないのに洗ってあげるなんて、変な話だ。それだけ僕も彼女も浮足立っているんだろうなぁ……とか思いはするけど、ちょっと、うん、節度は必要、かな。
◇
疲れたから早めに寝るね、と、みんなには誤魔化した。僕は部屋の座椅子に腰掛けながら、せっせと布団を敷いているあやめを漠然と眺めている。ずっと誰もいなかったこの部屋に、強いて言えば小夜以外に誰かがいるのが珍しくて、どこか落ち着く気持ちにはなれないでいた。
「……どうしたの、彩織ちゃん。ぼーっとしてる」
敷布団の上で足を崩しつつ、開けている窓から吹き込む涼風が、乾きかけの髪を揺らす。あやめは頬に貼り付いたそれを指で払ってから、勢いそのまま両腕を広げてきた。
「どうぞっ」
「……積極的だね」
「まぁ、恋人特権?」
蛍光灯の白い眩しさが、彼女を突き抜けて布団に落ちている。そのままあやめのところに向かうのもなんだか気恥ずかしくて、僕はついでに照明を落とした。困惑するような彼女の声。
外から射し込む月明かりが、八畳をほのかに照らしている。ぼんやりと見えるあやめの姿はどこか神秘的で、透き通った美しさに、思わず手を伸ばした。薄闇のなかで、彼女の首元に手を回す。それから優しく布団に寝転がらせて、枕に頭を添えながら、至近距離で見つめ合った。
「おっ、おぉー……? 結構、一気に来るんだね……?」
「……そのほうが恥ずかしくないじゃん」
「なんか、彩織ちゃんからシャンプーの匂いする」
「あやめちゃんもするよ。甘くていい匂い」
布団の感触を足の指先に感じながら、少し暑苦しいね、とお互いに笑う。昨日まではこんなことしていなかったのに。いきなり恋人らしいスキンシップをとっても、問題はないのだろうか。けれどあやめは満更でもなさそうだし、僕も落ち着けるから、これでいい気がした。
「……今日は、いっぱい彩織ちゃんと一緒にいるね。朝から、ずっと。あんなことがあったはずなのに、とっくに前のことみたいな、そんな気がする。なんでかな」
「気の持ちようだよ、きっと。だってもう、昔のことは気にしないって、あやめちゃんが言ったんじゃん。それよりも田んぼで遊んで、駅に行ったほうが楽しかったってだけでさ」
「じゃあ、彩織ちゃんは私が透明になってるのも気にしてない?」
意地悪げに、試すような口調で問いかけてくる。僕はそれに小さく笑ってから、首を振った。
「ギリギリ気にならないよ、まだね。……むしろなんだか、月明かりが射すのは、綺麗」
「えへへ……ありがと。面と向かって言われるの、だいぶ、恥ずかしいけど」
にへ、と笑う、そんな彼女のことが、堪らないほど愛おしくなった。手を首元に回したまま、後ろ髪に触れる。リンスをしたおかげで、手触りがとてもいい。女の子は凄いなぁ……。
「ねぇ、彩織ちゃんさ」
「うん?」
「プラトニックって、知ってる?」
「うん」
「……私とだったら、どっちがいいの?」
かかる吐息が生ぬるくて、触れる肌は火照っている。はにかんだ表情、緩んだ口元、頬に差した紅潮の色は、透き通ったそのなかでも、よく分かった。でも、なんでいきなりそんなことを聞くんだろう。そう思いながらも、少しだけ考える。プラトニック、あやめちゃんと、なら。
「僕は……プラトニックでいい。そういうことをするのは、やっぱりなんか違くてさ。女の子として見てないわけじゃないよ? ただ、昔みたいな距離感が、居心地がいいんだよ」
「……でも、もし、私がそういうことしたいって言ったら? 今ここで、ちょっとスイッチ入っちゃって、とかになっても、彩織ちゃんは私のこと、ほっといたままにしておくの?」
「言い方に難があるよね……。いやまぁ、あやめちゃんがしたいなら、いいけどさ」
「ふふっ、ごめん。でも、私も、彩織ちゃんと一緒かな。小さい頃から仲良くしてて、お互いに好きで、それで、今日やっと、告白してもらって……。私も今のままで、充分、幸せだよ」
眦の下がった顔で、小さく笑う。それでいいし、それだけで満足なんだ。
ふと、腰のあたりに手を回されたことに気づく。あやめがまた、笑みを零す。
「あっちいけど、我慢しようね。このまま朝までガチ寝だよ」
「蒸し暑そうだけどなぁ……。いいよ、我慢する」
「うんっ。じゃあ私は、お先に寝ます」
「ん、おやすみ。暑くなったら扇風機とかつけてね」
「おーけい。それじゃ、おやすみっ」
──彼女が目蓋を閉じる瞬間に、「ありがとう」と小声で聞こえた。
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