八月三十一日

後悔と清算

 蚊取り線香の匂いがした、ような気がする。目覚める時は、いつから意識が覚醒しているのか、未だによく分からない。開きっぱなしの窓から射し込む陽光がやけに白くて、これはもう朝じゃないな、と、回らない頭で思った。少しだけ風が入ってきて、暑苦しくはない。


「……あれ?」


 布団が広いなと思ったら、あやめがいない。壁掛け時計を見ると、十時はとっくに過ぎていた。それなら彼女も既に起きたのだろう。どこで何をしてるかは、分からないけど。


 階段を降りて居間に向かう。叔父も叔母も、この時間は仕事だ。しかし祖父母の姿もなくて、ただ一人、部屋着姿の小夜がうつ伏せでテレビを見ている。僕に気づくと、軽く手を上げた。


「おじいちゃんとおばあちゃんは?」


「街のほうに買いもん行った。どうせ午後も遊んでくるやろ」


「へー……珍しい。じゃあ誰もいないんだ」


「彩織ちゃんは、あやめちゃんがおるからええやん」


「……なんか、小夜だけ一人ぼっちとか可哀想だなぁ」


 照れ隠しの僕とは違って、彼女は少しだけ困ったように笑う。


「……あやめちゃん、ちゃんとおるんやね。誰もいないんに、いきなり外のほうから蚊取り線香の匂いがし始めたんさ。やっぱり、見えなかったけど……。怖いとかは、なくてね」


「あぁ、あれ、あやめちゃんがやったんだ……。縁側のほうにでもいるのかな」


「ちょっと見てくるね」と言った僕を、起き上がった小夜が引き止める。


「あっ、あの……! 彩織ちゃんにちょっと、お願いがあってさ」


「なに?」


「……あの、あやめちゃんが良ければ、なんだけど。一回だけ、話したいんよ。ウチの我儘かもしんないけど、ずっと後悔してて、謝りたかったけど、できないままやった。今更もう遅いっていうんは分かってる。でも、直接あやめちゃんに謝らしてほしい。……お願い」


「──もちろん。行こう」


「……うん。ありがと」


 笑う彼女の表情はやはり硬くて、飄々としたいつもの態度からはかけ離れている。一昨日も、そうだった。小夜がこの四年間に、何があったかを説明した時も──こんな表情で。あの告白を一回は聞いたから、どれだけ後悔しているかというのも、分かっている。僕が最初、死んだはずのあやめに会ったと話した時から、小夜は明らかに動揺していて……なかなか、あやめのことは話してくれなかった。いま思えばそれは、彼女なりの心の準備だったのだろう。


 トイレと脱衣所のある突き当りを、横一本に廊下が伸びている。そこを左に折れると、祖父母や叔父叔母の部屋があった。途中の窓硝子が開いていて、縁側にあやめが腰掛けている。いつもの麦わら帽子をかぶっているから、すぐ分かった。


「あやめちゃん、おはよう。ここにいたんだ」


「あっ、彩織ちゃんやっと起きた……。私は九時くらいに起きたのに」


「蚊取り線香の匂いで起きたんだよ。結構ゆっくり寝てた」


「おー……目覚まし線香だね。それはそれと、小夜ちゃんもいるんだ」


「小夜もいるよ。ちょっとだけ話してみる?」


「うん、話すっ。……あ、ノートとペン持ってこなきゃ」


 あやめは身軽な動作で立ち上がると、そのまま障子を開けて祖父母の部屋に入る。


 いきなり障子が空いて驚いたのか、小夜は分かりやすく目を丸くしていた。


「あやめちゃん、嬉しそうだよ。小夜と話したいって、いまノートとペン探してる」


「あっ、そーなん……? 逃げられたんかと思ってびっくりした……」


 僕と小夜はそのまま縁側に腰掛けながら、一人ぶんだけスペースを開けて待つ。やがてあやめが帰ってくると、昔のように無邪気に笑いながら、そこにすっぽりと収まった。


「……ノートとペンが浮いとるんやけど」


「私が持ってるから当たり前だよねっ」


 僕に向かってそう笑いながら、彼女は少しだけ崩れた字をノートに書いていく。それはまるで、あやめに色を分けようとした僕の姿にも似ているようで、なんとなく、嬉しくなった。


「はいっ」


「『私が持ってるから当たり前』……。ふふっ、そやね。あやめちゃんの字、昔と変わらんなぁ」


「『もともとバカだから、字もヘタだし漢字も覚えてないよ』」


「まぁ、あやめちゃん、国語の点数とかめっちゃ低かったもんな……」


「……試しに本人の口から聞きたいんだけど、いちばん低くて何点?」


「『四点』かなぁ……。うー、彩織ちゃんに聞かれるの屈辱だ……」


「四点は流石に低すぎるやろ……」


 三人で顔を見合わせながら苦笑する。なんだか、とても懐かしい感覚だった。


 昔も、よくこうやって話してて、くだらないことで笑って、遊んで──。


「……なんか、この感覚、懐かしいんね」


「うん、僕もいま思った」


「『なかなか三人そろわなかったもんね』」


「そやね。なかなか……っていうか、ウチがあんまり……」


「……まぁ、僕がもっと早く来てれば良かったんだけどね」


「『彩織ちゃんも小夜ちゃんも気にする必要ないよ!』」


 慌てたような顔で必死にノートを見せつけてくるのが面白くて、少しだけ笑ってしまう。


「本当に気にしてないからね! ね!」


「ありがとう。あやめちゃんは優しいね」


「気にしたってしょうがないよっ。それよりも今を楽しもっか」


 磊落に笑う彼女に頷きながら、僕も笑みを洩らす。それから自然にあやめの頭を撫でてしまったことに気が付いて──恍惚としている本人は抜きにしても、なんだか居心地が悪そうな顔をしている小夜に、「ごめんね」とだけ、一言、付け加えておく。ちょっと軽率だった。


「いや、彩織ちゃんがあやめちゃんの頭を撫でとんのは別にええんやけどさ……。たぶん、なんかその、そういうことなんかなー、とは、思っとったんやけど……。あの、そうやなくてね?」


「ウチ、あやめちゃんに言いたいことが、あってさ」。歯切れ悪く告げながら、それでも、いつもの芯の通った声で。僕のほうを見ていた彼女も、ふと小夜の顔に視線を移した。


「『どうしたの?』」


「あの……話、っていうか。ウチ的には、ずっと謝りたかったこと、なんよ。何日か前に、彩織ちゃんから、『あやめちゃんと話した』って聞いて──ずっと、気が気じゃなかった」


 小夜から、あやめのことは見えていない。見えるはずがない。それなのに、それはまるで──彼女のことをしっかりと捉えているような、そんな眼差しと目線だった。寸分の狂いもなく、ただひたすらに、透き通って綺麗な瞳の色を見つめていた。あやめもしっかりと頷いている。


「あやめちゃんが自殺したのは、ウチらのせいだって、ずっとそう思ってるから。本当ならウチが、みんなのやってることを、もっと早く止めるべきだった。……今更、言い訳はしたくないから、正直に言うね。正直、あやめちゃんのことは心配だったけど、でも、下手に口出しして、自分がみんなからいじめられるんが怖かった。だから、強気に出れんくて……」


 でも、と、喉の奥から絞り出したような声で、小夜は告げる。


「中学ん時……あやめちゃんに、『心配しないでいいよ』って言われた時、真っ先に、強がりやなって分かった。本当はここで、もう一歩、何か言うべきやった。だけど、踏み込んで、あやめちゃんに何を言われるんかが分からなくて、怖くなって……結局、何も言えなくて。あの時、何か言えてたらなって、もう少し、自分が強ければ、何か違ったのかもなって、そう思っとる」


 目尻を拭う小夜の姿が、痛々しかった。どうにもしようがない後悔。その後悔を少しでも紛らわせるような懺悔だけが、滔々と吐き出されていく。頬を伝う紅涙をあやめは親指の腹で受け止めると、「大丈夫だよ」と笑いながら、その頭を優しく撫でる。けれど、伝わらない。


「本当に、ごめん。今更、謝って……許されることやないと思うけど」


「小夜ちゃんは悪くないよっ! 悪いって言うなら──あっ……」


 叫んでも届かないことに気が付いて、あやめはノートにペンを走らせる。


 その横顔が、今まで見た何よりも必死で、揺れる黒髪を眺めながら、僕は見守っていた。


 これは、あやめと小夜の問題だから。僕が口を挟むのはお門違いだ。


「『小夜ちゃんは悪くないよ! 昔のことだし、もう気にしてない。だから、謝らなくていいんだよ。これから先の楽しいことだけ考えようよ。いつまでも辛いままじゃ、いやでしょ?』」


「……でも、あやめちゃんが死んじゃったのは、変わらないやん。ウチらのせいやん」


「『違うよ。あれはもう、しょうがなかったの。私だって諦めてたから。最終的に悪いのは、ガマンできなかった私のほう。みんなはまったく悪くないから。これだけは信じてほしい』」


 走り書きのそれを読んで、小夜が僕のほうに目配せをする。きっとまだ、あやめのことを信じられないのだろう。或いは、自分自身の負い目に、必要以上に執着しているか。……ぶっちゃけ、僕だって、完全に許されたなんて思っていない。彼女が自殺した原因は、紛れもない自分自身なのだから。目を向けていないだけで、やはり、負い目というものはある。


「……小夜の気持ちも分かるよ。でも、それが今のあやめちゃんの答えだから、しっかり受け取ってもらいたいんだ。僕も同じこと言われたよ。でも、もう、過去には執着しない」


「なんで──なんで彩織ちゃんがそんなに楽観的で、あやめちゃんが優しいん?」


「……それは、あやめちゃんから説明してもらったほうが、いいのかな」


 隣に座るあやめに視線を移す。彼女は控えめに笑うと、またペンを走らせていった。


「『あと少ししか一緒にいられないのに、ケンカ別れなんてしたくないじゃん?』」


「あと少し……って? 成仏ってこと?」


「『そうだよ。いつかは成仏しなきゃならないもん。私の未練は、彩織ちゃんと一緒にいられなかったことだから。今はそれが叶ってるけど、でも、あまり時間はなさそうかなぁ?』」


「そっか……そうだよね。だったら、スパッと仲直りしたほうがええもんね」


「『私的には仲直りの感覚なんてまったくないよ! 小夜ちゃん気にしすぎー!』」


「ふふっ、ごめんて……。そういうことなら、まぁ、うん。分かった」


「えへへっ、良かった……! やっぱり笑ってるほうが楽しいよ」


 穏やかな軽風が、蚊取り線香の煙を運ぶ。その懐かしい匂いに髪を揺らしながら、あやめも小夜も、さながら昔のような、あの無邪気な笑みを洩らす。これでいいんだと、確かに思えた。


「あの……彩織ちゃんには、あやめちゃんのこと、任すわ。二人のこと邪魔しちゃ悪いし」


「えぇー!? 小夜ちゃんが気にすることないのに……。『三人のほうが楽しいよ?』」


「いや、でもやっぱり家族の目とかあるからさ。ボロが出ても困るやん? だから、たまにちょこっとお話させて? 本当なら死んどる人と一緒にいるの、良くなさそうやし」


「小夜が言うなら、まぁ……分かった。最後まで面倒見るね」


「……なんか、私が子供みたいな気がしてくる」


「頼んだでっ。あやめちゃん、彩織ちゃんの前じゃどうせ子供っぽいんやろ?」


「ちょっ、小夜ちゃん……! 『そんなことないし……!』」


「まぁ、あやめちゃんは可愛いよ。小夜に見せられないのが残念だけど」


「えぇよ別に。めちゃくちゃ予想つくから」


「拗ねとんやろー?」と意地悪げに笑いながら、小夜はあやめがいるあたりを人差し指で突く。そこが首筋だったから、当の本人はくすぐったくて笑っていた。こんなくだらないことを、この歳になってもやってるんだな……なんて思いつつ、楽しいからいいか、と一蹴する。


 過去の負い目もなくなって、ただひたすらに、昔のような懐かしさ。僕も小夜も、抱えていたものがストンと落ちたような、そんな晴れ晴れとした気分だった。あやめの優しさに許されているという感じは否めないけれど、それでも、今を楽しまなければいけないのだ。


「『彩織ちゃんも小夜ちゃんも好きだから、こうやって笑えるの、すごく嬉しい!』」


そう言って屈託なく笑う姿が、日射しに透けて、とても可愛らしかった。





「彩織ちゃん、なに書いてるの?」


「ん……? 日記帳」


乾きかけの髪に、晩夏の小夜風がぬるく吹き込む。座卓を覗き込んでくるあやめに軽く答えながら、シャンプーのいい匂いがするな、なんて、そんなくだらないことを思った。


「じゃあ、ここ数日のこととか、色を分けてくれた時のこととか、しっかり書いてあるんだよね。……読んでいい? あっ、恥ずかしいから嫌だって言うなら無理に見ないよ」


「……まぁ、あやめちゃんにならいいかな」


今日のぶんをササッと書き上げて、肩を寄せてきた彼女に見せる。あやめは珍しそうなものを見るように目を瞬かせると、開きっぱなしのそのページ、つまり昨日からの文を眺めていた。


『八月三十日。あやめちゃんの目が見えるようになった。ただ、身体が透けている。彼女が自殺したのは僕のせいだ。許してもらえるとは思ってないけど、でも、もう過去は振り返らない。やっと告白できた。もう少し早ければ、なんて思ってしまう。』


『八月三十一日。小夜があやめちゃんに昔のことを謝りたいと言ってきた。その覚悟も後悔もよく分かる。ただ、それ以上にあやめちゃんの気持ちも分かっていたから、話をさせることにした。あやめちゃんの優しさに救われました。ありがとう。』


「そっかー……。八月三十一日かぁ」


紙面に目を落としながら、彼女はふと呟く。


「もう、夏休み、終わっちゃうんだね」


「あぁ……そっか。そうだよね」


「彩織ちゃんは? 学校、あるんでしょ」


「うん。でも、まだいい。最後まで一緒にいたいから」


「ズル休みだぁ」なんて、からかうように笑われるけど、別にそれでもいい。あやめと一緒にいられる時間が少しでも伸びれば、僕にとっても、彼女にとっても、それだけで満足だった。


「明日はどこに行こっかなぁ」


「駄菓子屋さんで、また何か買う?」


「ラムネっ。これに尽きる!」


すぐ隣で、あやめの笑い顔を見れる。笑い声が聞こえる。その尊さが不意に心に滲みて、なぜだか、晩夏に吹く涼風に、物寂しい何かを見せつけられたような気がした。それを少しでも温めようと、半透明の彼女の手を覆う。やはり、熱い。


「あやめちゃん、あったかいね」


「心がポカポカすることしか起こらないもんねぇ」


口元を緩めながら、彼女はそう言って笑みを零す。開きっぱなしの窓からいつものように風が吹き込んで、それが髪を揺らしていた。いつもいつも、似たような光景ばかりだ。ばかり、だけれど、すべて同じではない。だから、逐一、書き留めたくなる。


「彩織ちゃんは、どう? ずっと楽しい?」


「楽しいよ。あやめちゃんがいれば、なんでもね」


「んー……なんか浅く聞こえるなぁー?」


「いや、君も同じこと言ってたからね……?」


知りませんとでも言うようにあやめは首を傾げると、掴んだままの半透明の手で、カチンと蛍光灯の紐を引く。昨日よりは薄い月明かりのなかを歩きながら、揃って布団に潜り込んだ。


至近距離。足の指が触れる。空気が籠もって暑苦しい。


それに気がついたのか、あやめは勢いのままに掛け布団を蹴っ飛ばした。


「彩織ちゃん、ゲームしよう」


「なんの」


「私と一緒にいて楽しいか、にらめっこでチェックするゲーム」


一人分の枕を二人で使う。投げ出した指先が、ときおり触れる。変なことを考えるなぁと苦笑しいしい、「いいよ」と頷いた。にらめっこなんか、誰とやっても面白いと思うんだけどさ。


「先に、自然に笑ったほうが勝ち。じゃあ今から始めねっ」


薄明かりのなかで、じっと彼女の姿を見つめる。黒髪が額にかかって、けれど滲んだ汗に貼り付いて、それを指先で直す。微かな月光を洩らしていく肌と瞳の透明感が、よく分かった。


可愛い、というのは失礼な気がする。綺麗、というのも陳腐な気がする。婉美──婉美ならまだ、ニュアンス的にも当てはまるかもしれない。そうだな、と、一人で納得した。


「彩織ちゃん、今なに考えてる?」


「あやめちゃん、綺麗だなぁって」


「えへへ、いきなりそういうこと言うの、反則だって」


 素直に恥ずかしかったのか、にやけながら足で僕のことを叩いてくる。


「告白する前からずっと、あやめちゃんのことは好きだったけどさ。でも、こういうことは言えなかったし、できなかった。告白してからは、なぜか自然にできるんだ。正直になったから」


「じゃあ、私も……一緒にお風呂とか入れてるのは、そういうこと、なのかな。こうやって一緒に寝てるの、少し恥ずかしいけど、でも、落ち着くよ。暑くなかったら抱きしめたいくらい」


 「ふぅん」と返事しながら、手を伸ばして扇風機のスイッチを入れる。首の位置を固定して、強だ。前髪が勢いよくなびいて、人工的な風が、汗に冷たく吹き付ける。少し寒いくらいだ。


「涼しくなったから、抱きしめていいでしょ」


「えー……しょうがないなぁ、彩織ちゃんは」


「ふふっ。にやけてるから、嫌がっても説得力ないよ」


「別に嫌がってないもんね。はいっ、ほらっ、ぎゅー」


 胸元にくすぐる甘ったるい匂い。頬を掠める横髪の黒。天然の照明に降られながら、少しだけ早まる脈拍を気取られないように、小さく深呼吸する。僕の心音を聞くように顔を埋めたあやめは、そのまま笑みとともに、ぬるい吐息を洩らした。表情は、よく見えないけれど。


「……ねぇ、彩織ちゃん。聞いて聞いて」


「んー?」


「私ね、昨夜はずっと、この体勢のまま寝てたよ」


「それはつまり、僕のことが大好きだっていう告白?」


「おー、彩織ちゃん自信過剰……。合ってるけどねぇ」


 顔だけを動かして僕を見ながら、あやめは締まりのない顔で笑う。それが可愛らしくて、反応も気にせずに手を伸ばした。髪の手触りがいいなぁとか、肌が柔らかいなとか、そんな感想しか出てこない。あやめは僕をどう思っているのか、ふと気になって聞いてみる。


「あやめちゃんは、僕のことを……その、かっこいいとか、思ってないの?」


「んー? 彩織ちゃんはねぇ……ぶっちゃけ、顔はあんまり気にしたことないんだ。ただ、一緒にいて落ち着くし、楽しい。初恋って相手の見かけで決まるなら、そんなの運だよ」


「あー……かっこいいと好きは別物ってことね。小さい時は分かんないか」


「そう。私が生まれつき盲目だったら、見た目なんかも分からないもん。分かることなんて、どれだけ一緒にいられて楽しいか、っていうところだけだよ。ちょっと前の私みたいにね」


 半透明の指先が、壁の透ける彼女の胸を指す。でも、その思いは簡単には分からない。


「……あやめちゃんは、ずっと僕のこと、好きだったんでしょ? 死ぬ時も」


「うん」


「僕が来るまでも、それって覚えてた? 僕が来てから、また好きになったとか?」


「それはね、死ぬ時も、死んでからも、ずっと覚えてたよ」


 間髪入れず、屈託のない笑みであやめは告げる。


「目が見えない理由も、なんとなく分かってた。『恋は盲目』って言うじゃん? あれはきっと、自分勝手に自殺しちゃった私への罰なんだよ。でも、彩織ちゃんともう一度会えたら、成仏できるなって思った。あわよくば、好きだってことが言えるなら、それでいいやって。だから今、目が見えて、身体がどんどん透明になってるんだと思う。やりたいことは、やれたから」


「あとはもう、残りを全力で楽しむだけだよ」と、そう、彼女は笑う。


 『恋は盲目』なんて──そんなこと、あるのだろうか。でも、そうとしか思えなかった。僕が一生あやめに会えなかったら、彼女はきっと、あの盲目のなかで、成仏もできずに、わずかな希望だけを頼りにして、ずっと生き地獄を過ごし続けなければならなかったのだろうか。


「好きになればなるだけ、辛いと思うけど……大丈夫?」


「もー、彩織ちゃんは心配性だなぁ。二人で四年分の夏休みを取り返すんじゃなかったの? 今更そんなの気にしないっ。こういうのはね、気にしたら負けなんだよ、負け」


「……そういう楽観的なところ、嫌いじゃないよ」


  そう呟いて、あやめも一緒に目を細める。吹き込む夜風の涼しさが、睡魔の勢いを強めていくようだった。気の抜けた欠伸を漏らしながら、眦に乗る涙を、親指の腹で拭い取る。


「彩織ちゃん、おねむだねぇ」


「ちょっとね。……抱き枕にしていい?」


「いいよ。お互い様だしさ」


  重い目蓋には抗えなくて、意識を投げ出すように、あやめの首元へ手を回した。少しだけ熱くて、でも、離れるのは少し寂しい。薄く聞こえる心音を感じながら、完全に目を閉じた。


「……彩織ちゃん、甘えんぼだね。おやすみ」


「……ん、ありがとう。また明日ね」


 外からどこか、微かに、蚊取り線香の匂いがするような気がした。


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