人間らしい

踏切を越えて、路傍の曼殊沙華が陽光に霞む。三日前に歩いたとおりの道を、僕らは辿っていた。水路の生ぬるい匂いもいつしか、薄墨色をしたアスファルトの埃臭さに、段々と搔き消されてしまっている。何処からか降り注ぐ蝉時雨がうるさいはずなのに、二人ぶんの靴音と吐息だけは、何故かよく聞こえていた。地面を伝う熱気が足裏に沁みて、けれど歩調は五十ほどのBPMを刻んでいる。この数日間で身体が覚えてしまったらしい。握るあやめの左手は、汗ばんでいた。



「三日前も、こんな感じだったよね」



炎陽の射す眩しさに目を細めるみたく、彼女は麦わら帽子に陰る目元を綻ばせて、その精巧な硝子玉にも似た瞳を、目蓋の裏に隠している。



「あの時は何も見えなかったけど、彩織ちゃんが色を分けてくれたから、今の私は目が見えるようになったんだよ。本当に分けるのは、ここから。モノクロの世界なんて、一人だったらきっと、味気なくてつまらないんだよ。それが楽しくいられるのは、彩織ちゃんのおかげ。私の夏は、君に懸かってるんだからね」



それは少しの羞恥心も、悪戯心すらもなく、ただひたすらに綺麗な、少女の衷心ちゅうしんなのだろう。嫣然えんぜんとした微笑が、今ではどこか、哀愁を秘めていた。



「──お願い。一生のお願いだから。最後まで、一緒にいてね」



「もちろん」と答えようとしたのに、何故か咽喉のどが締まって、それきりだった。僕はもう、覚悟を決めている。だからこれくらい、今更、なんでもない。なんでもないはずなのに、締まった咽喉だけは、どうしても緩まなかった。それが堪らないほどに悔しくて、せめてもと握った右手を、優しく、固く、握りなおした。


日和見ひよりみだと思われても、仕方がないのだろう。僕は結局、その一言でさえ、満足に伝えられない人間なのだ。それを分かりきっていながら、言葉で返すことのできない、否、返すことのしない自分に心底、辟易へきえきしている。だから、どうしても悔しかった。左手に思わず力が籠もる。握る右手は、普段通りを気取っていた。


──胸億きょうおくにあるもやを、いよいよ言葉にする方法を、探していた。





「わーっ、懐かしい」



遠目にひなびた駅舎が見えるや否や、あやめは嬉しそうに声を上げて、そのまま駆け出してしまった。真白いワンピースが、風をはらんで小刻みになびく。傍目にも分かる水飛沫の跡が、彼女の背を追いかける刹那に、視界の端へと染みていた。誰のものか区別のつかない汗が、生ぬるく手のひらに滲んでいる。それを作務衣の布で拭いながら、僕はいま抱えている、三日前の手記を思い返していた。


駅前から真っ直ぐ進むアスファルトの向こうは、壁のように木々が密集していて、青青とした枝葉の眩しさが、蝉時雨の音色を運んでくるようだった。白光りするガードレールの熱気も相まって、遠くには靄のような夏陽炎が立ち込めている。昔から見ていた田舎道のはずが、どうしてだか今は、とても懐かしい。


僕を呼ぶ声に、駅舎の方へと向き直った。少女は手扇で顔を扇ぎながら、暑熱に当てられたように、だらしなく笑っている。それに頷き返してから、子供らしい彼女の愛嬌に引き付けられるように、歩を進めていた。敷石に寝転がる線路も目立ちたがりのスレート屋根も、汗を鈍く反射させて、炎陽の眼差しを一身に浴びている。雨よけの下になんとか逃げ込みながら、また、あやめの手を取った。

 

待合室の見える窓硝子を通り過ぎて、僕たちはその中へと入る。立地のせいか大して陽が射しこんでいないから、日中とはいっても、仄かに薄暗かった。八畳ほどの一部屋に、プラスチック製の青椅子が幾つも連なって鎮座している。あやめはそこに腰掛けると、矢庭に大きな溜息をして、分かりやすく不平を洩らした。



「……あんまり涼しくない」

「そう? 日陰だから少し涼しいよ」

「こんなの誤差の範囲だし」

「まぁ、そうかもだけど……」



天井で明滅していた蛍光灯は、もう二本とも消えていた。部屋に居座る季節外れの石油ストーブも、古めかしい平成初期の扇風機も、もはやただの置物になっている。ダイヤル式の風力スイッチをいくらひねっても、風を吐き出すことはなかった。壁にかけてあるエアコンも試してみたけれど、そもそも電源が入っていない。乗客も無人なら駅員も無人なのだろうか。手入れくらいはしてほしい。



「駅長さんにはこないだ会ったのになぁ……」



そう呟き、あやめを目で追う。膝立ちをして壁の方を向きながら、何かを凝然ぎょうぜんと見据えていた。ローカル線の広告ポスターだった。新緑の稲田が目に鮮やかで、生まれかけの入道雲が、山の稜線に霞むようにして立ち昇っている。その麓を線路が走っていて──ここら一帯の、さしずめ町おこしの宣伝といった感じだろうか。とはいえ紙面はセピア色に褪せていて、今からそこそこ昔のものらしい。



「これね、私が小さい頃にやってたよ。たぶん」



振り返って、彼女はポスターの一部を人差し指の先でつつく。



「『夏休みの過ごし方。』だって」



白の文字で、それだけ書かれていた。それ以外には、何も書かれていなかった。



「今の私たちにさ、お似合いだねっ」



しばらく僕は、あやめの楽しそうな笑顔と、その広告ポスターとに、訳も分からず見惚れていた。夏休みの過ごし方、それをもう、僕たちは──いや、違う。まだ、僕たちは知っている。少しだけ遠くにある過去を懐かしむことができるから、まだ、覚えていられるのだ。この刹那でさえも、一秒後には過去になる。少しだけ離れても、覚えていられるだけの過去になるのだ。そこまで思い至って、僕はふと訂正する。この夏は、忘れてはいけない夏だ。何があっても、絶対に。



「──あっ、飛行機雲」



独り言にも似たあやめの声に、僕はつられて、ひさしの向こうへと微かに見える夏空を仰いだ。待合室の出口は、そこだけが白んで霞むほどに眩い。その向こうに見える景色も、紺青の昊天こうてんも、すべてが夏の眩しさに掻き消されている。コンクリートの床に反響する足音と、半透明のワンピースの裾が、逆光の向こうに融けていった。


その背中を、当たり前のように僕も追う。途端に炎陽の眼差しが、閉じかけた目蓋の裏に焼き付いて、ほんの一瞬だけ恨んだ眩しさは、次の瞬間にはほとんど消え失せていた。楽しそうに彼女が指さす方を、そのまま見上げる。


飛行機雲の名残が、引き潮のように、夏空を泳いでいた。僕たちは何がなしに、そうして何も言わないまま、その飛行機雲を見つめ続ける。昊天に融けかける間際まで、不可視の魔力に魅入ってしまったように、夏空を仰いでいた。この行動にきっと、意味はない。ふと我に返ったのは、額を伝った汗が眦に沁みた時で、思わず痛みに目を瞬かせてしまう。ただ暑いだけなのに、どうしてここまで没頭できたのだろう。そう思いながら、人差し指の第二関節で、滲む涙を拭った。



「目に沁みた?」



特に心配はしていなさそうな、それでも優しい彼女の声が聞こえる。僕は無言で俯きながら、苦笑しいしい、雨よけの下に逃げ込んだ。朽ちかけたトタンの隙間を、木漏れ日のように陽光が射して、それが薄灰色をしたプラットホームの床に、僅かな彩りを与えている。心做しか肌の感じも、心地よさを取り戻しているらしい。こんな暑い日だから、また無性に、ラムネが飲みたくなった。けれど、帰りがけに駄菓子屋へと寄るのは面倒くさい。夏なんて、そんなものだろう。



「ねぇ、あれって──」



あやめはホームの向こうを指さして、それだけ告げた。一歩、二歩と踏み出した僕の足が、掠れた黄色の停止線を踏む。庇の影から覗く炎陽の眼差しも、頬を熱く照らしていた。とうに見慣れた、けれど息を呑むような情景に、思わず魅入ってしまう。これは、そうだ。僕が三日前に、彼女に分けてやった色そのものだ。まだ盲目だったあやめに伝えた時の手記が、この日記帳にも残されている。


──鈍色に煌々こうこうとした線路のレールが、遠くに陽炎を抱きながら、地面を掻き分けてすべっていく。瞳に焼き付くような眩しさが、やはり鬱陶しかった。視界にかかる少女の影法師が、軽風に悠然と靡いている。それがどこか、目に涼しくて、僕は知らず知らず、あやめの足元を一瞥していたらしい。半透明の色をした彼女のサンダルも、掠れた黄色の停止線を踏んでいた。指先は夏を示していた。


ここに来た時と何も変わっていない稲田が、黄金色をした穂を揺らしている。その芳しい匂いが、熱気とともに辺りを立ち込めていた。青青とした草のような、秋めいた香ばしさのような、或いは、雨上がりのペトリコールにも似ている、少し埃臭いのが、綯い交ぜになったような匂い──それが肺いっぱいに漂流してきて、まるでどこか、今朝の驟雨しゅううみたような、そんな空気の一欠片だった。


あやめが示す人差し指の先が、紺青の夏空に触れている。それが炎陽の日射しを一身に浴びているようで、とても眩しく感じた。あそこに立ち昇っている入道雲も、眼下にいる彼女を見下ろすように、ただそのまま、そこに鎮座している。少し離れたところには、やや薄ぼけた飛行機雲の名残が、白く線を引いていた。遥か山あいに見える鉄塔が、的皪てきれきたる様で、端白星のように明滅している。



「──夏だね」



僕とあやめの声が、不意に重なった。それがなんだか面白くて、二人で顔を見合わせてから、静かに笑う。四年前に比べたら、彼女のそんな面持ちも、やはり大人びて見えた。麦わら帽子のつばを摘まむ仕草とか、指先に遊んでいるワンピースの裾とか、上目に見つめる瞳の色は、昔から何も、変わっていない。けれどいちばん変わらないのは、片恋の相手が見せる、屈託のない笑みだった。昔から何も変わらない、そういうところが僕は、これ以上ないほどに好きなのだろう。


──だからいい加減に、胸臆に抱いたこの感情を、発露しなければならないのかもしれない。この初恋にひとつの結末を与えるべく、残り僅かなこの夏を、あやめと一緒に楽しむためにも。その結末を僕は、薄々ながら勘づいていた。つまるところ、結局は僕自身の問題に他ならないのだ。タイミングはいくらでもあった。ここまで引き伸ばしてしまったのは、自分が弱いからだ。けれど、それも今日でお終いにしよう。この夏を懸命に生きるのも、最初で最後なのだから。                                      


「……ねぇ、あやめちゃん」



ひとしきり笑った後の、あの沈黙が怖くて、僕はすかさず言葉を繋いだ。或いは、刻々と迫る晩夏の終焉に、どこか急いていたのかもしれない。不思議なことに、それほど緊張感はなかった。咽喉を締め付ける心地の悪さも、早鐘を打つ心臓の音も、何も感じていない。ただ自制していなければ、軽率な想いの吐露をしてしまいそうで、それだけは避けたかったから、僕は密かに下唇の裏を噛んだ。


玲瓏たる少女の瞳が、背後の昊天を透かしている。ホームの端にある金属製の柵とか、トタンの庇から降り零れる陽光とかが、半透明の漆黒に重なって、そこに融けかけていた。やや上目がちに向けた視線はそのままで、口元にたたえた微笑が、続きの言葉を催促しているように思える。ただ、急かすことはないまま、後ろに組んだ手の人差し指を、ときおり遊ばせていた。心地の良い沈黙だった。



「──好きだよ。昔から、ずっと」



告白の言葉はそれきりで、他には何も考えつかなかった。下手に装飾されたものよりも、自分の胸の内だけを、素直に伝えるほうが良いと思った。無闇に気取った言葉なんて、今の僕たちには必要ない。衷心から出た最高純度だけが、この二人にはきっと、お似合いなのだろう。それを僕は、十二分に確信していた。


──ほんの一瞬だけ、あやめは呼吸を止める。刹那に吐き出した息は、嘆息のように間延びして、安堵のように穏やかだった。初夏の薫風さながらに澄み渡るそれは、僕の告白そのものを、いつからか予期していたようにも思える。ふいと紺青を仰いだ瞳の色は、炎陽の日射しに煌々たり、微かに揺れた黒髪は、合間を吹く軽風に靡いている。そうして後ろに組んだ手を、彼女は柔らかに解いた。その半透明の肌色を、どこからか照る陽光が、僕の足元へと突き抜けていた。


少女は何も言わないまま、ただ、いつも通りの、あの屈託のない笑みをして、ひとつ頷く。そうして少し呆れたように、わざとらしく声を作った。



「言うのが遅いよ、彩織ちゃんっ」



この夏でいちばんの、可愛らしい笑顔だった。



「ずーっと、待ってたんだよ」

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