描けない入部希望者

 あくる日に再会した桜子は葉太に礼儀正しく挨拶をした。特別なことは何もない。

 自分だけ、過去に捕らわれているようだ。葉太は焦燥にかられた。

 あれから一週間が経ったが、葉太と桜子の関係が変わることはない。彼女は美術を選択していなかった。最低限の関係で済む。お稲荷さんの桜のことは恐くて聞けない葉太がいた。

 朝のホームルームを終え、美術準備室で授業の準備をする。授業を終え、昼休憩には前に担当していたクラスの生徒にサッカーに誘われた。午後からは生徒の作品を展示できるようにがくに納め、新入生オリエンテーションの配布資料を修正して製本する。気付けば、六限の終了を知らせるチャイムが鳴っていた。

 授業終了後は、学校全体で分担された場所を掃除をする時間だ。遠くで元気な声が響いている。

 葉太はぐっと背筋を伸ばして立ち上がった。階段を下り一年三組の扉を開けると、黒板を掃除する桜子の姿が目に入った。


「おつかれさん」


 葉太は気さくに声をかけた。

 桜子は律儀に頭を小さく下げる。

 一週間で心のざわつきは少なくなっていた。


「あきせん! 机運ぶの手伝って!」

「秋田先生、手伝ってください、だろう」


 葉太は男子生徒を軽くたしなめたが、効果は見込めそうになかった。

 若い教師は友達感覚で接される機会が多い。上級生があきせん、と親しげに呼んでいることも原因だろう。

 葉太は渋い顔のまま机を運ぶのを手伝った。

 机を運びながら、男子生徒が話しかけてくる。


「センセ、俺たちともサッカーしようよ。バスケでも良いけど」

「バスケは手を怪我することが多いからしないぞ。仕事ができん」


 まっじめー、とからかう生徒を葉太は無視して最後の机を運ぶ。

 男子生徒は教室の端に立て掛けてあった箒を取りに行った。振り返って、葉太に声をかける。


「なんでも良いや。明日、一緒にサッカーしよ」

「気が向いたらな」


 葉太がわざとらしく言うと男子生徒はけらけらと笑った。

 午後のホームルームを終えると、生徒達は思い思いに散っていく。

 葉太は通りすぎる生徒に声をかけながら、三階へと足を運んだ。今日は顧問をしている美術部に顔を出す約束をしている。文武両道を謳う本校は全員が部に所属することが暗黙のルールになっていた。一年三組の八割はどの部にするかを決め、届けを出していた。残りも月末までには提出するだろう。

 葉太は美術準備室に寄った。自身の机に置かれたコンクールの募集要項を手にする。美術準備室から、美術室への続きの扉を開いた。見慣れた部員達と、美術室の扉を開けたばかりの桜子が視界に飛び込んでくる。

 予想していなかった展開に葉太は教室を間違えたかと思った。扉を開けた手はそのままに、思考が止まる。


「先生、遅いよ」


 髪を二つに結んだ部長に現実に戻される。

 葉太は反射で答えていた。


「そこまで遅くないだろう」

「一週間、部活に出なかった顧問はどちら様ですかぁ」


 部長は半眼で葉太を見る。


「事務作業や会議があって来れなかったんだよ。遅くまで残るような活動はまだしてないだろう。サッカー部の顧問もしてるんだ。……まぁ、構ってやらなかったのは悪かったよ」


 葉太は来られなかった理由を並べた後、素直に謝った。

 部長は納得していない様子で肩をすくめる。


「秋田先生はサッカーが大好きですもんねぇ」


 呆れ半分だが、妙に引っ掛かりのある言い方だ。部長以外の部員も小さな声で笑っている。


「あの……」


 桜子の遠慮がちな声に部長達を含めた部員全員が振り替える。


「あ、一年生だよね? ごめんね、気付かなかった。体験入部していく?」


 部長は態度を改めて、桜子を手招きした。基本的には気の良い奴らなのだ。てきぱきと名簿に氏名とクラスを記入させて、活動内容を説明していく。

 葉太は教壇近くの椅子に腰かけて、桜子と部長のやり取りをぼんやりと見つめていた。美術室は校庭から一番離れた場所に位置してるので、運動部の声は聞こえない。


「活動は基本的には自由かな。時間を見つけて美術室や校庭で絵を描く感じ。月の第一水曜日にミーティングもするけど、前もって用事があることを伝えくれたら休めるよ」


 部長の簡単な説明に桜子が頷く。

 部長は昨年の文化祭の様子が撮られた写真を見せながら続けた。


「文化祭にはテーマを決めて、皆で一つの作品を作ってるの。去年のテーマは『いろどり』。窓ガラスをステンドグラスにみたいにしたり、天井からオーナメントを飾ったりしたんだ。どう? 綺麗でしょ」


 部長が自慢げに笑えば、桜子は素敵ですね、と相槌を打った。

 気分を良くした部長はさらに流暢に口を動かす。


「決まりはそんなもんかな。風景画や人物画、好きに描けるんだけど。春川さんは、どんな絵が描きたいとかある?」


 桜子は悩む素振りを見せて、ゆっくりと口を動かす。


「描きたいものっていうのは、特にはないんですけど、水彩画が好きです」


 今の美術部には安価ではっきりとした印象で描けるアクリル画を主流にする者が多い。乾けば、多少の修正がきく。水彩画は一度、色を着けたら手直しが難しいので敬遠されていた。油絵を描くほどの本格的な活動はしていない。

 桜子の言葉にしばしの間が空く。


「水彩画なら、秋田先生に習えば良いよ」


 部員の唐突な声に葉太は天を仰ぎたくなった。勘弁してほしい。


「君たち、先輩でしょう」

「先生は、教師でしょう」


 葉太の言葉に、部員は物怖じせずに返した。口が達者な者が美術部には多い。


「私、入部するって決めたわけでは……」

「ほら、先生が渋るから春川さんが遠慮してるじゃん」


 桜子の言葉に重ねるようにして、葉太は責められた。同時にいくつもの非難の目にさらされる。多勢に無勢。非常に居心地が悪い。


「サッカー部に顔を出してこようかなぁ」

「先生がまたサッカー部に行こうとしてる!」

「どんだけサッカー好きなの!」

「もう、サッカーと結婚しちゃいなよ!」


 パチン、とよく響く音がした。

 皆、一斉に部長を見る。

 両手を合わせた部長は作り物の笑顔を張り付けていた。先生、と前置きをしてさらに笑みを深める。


「ひとまず、手に持ってるコンクールの説明をお願いします」


 誰もその声には逆らえなかった。


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