お稲荷さんの桜

 葉太は自転車を押して坂道を上っていた。

 学校から駅へと向かう反対の道に曲がっただけで急になる坂道。閑静な住宅街に人通りはない。

 高校三年の終わりに彼女と約束をした場所を葉太は目指す。住宅街の一番てっぺんにある『お稲荷さんの桜』に向けて義務的に足を動かした。彼女に似た桜子に会って、どうしようもなく、その場所に行きたかった。

 坂が緩やかになる。

 息を整えるように葉太はゆっくりと歩いた。

 遠目でも分かる薄桃色は見えない。葉太は空に溶かしたような淡い色が上手く思い出せなかった。まだ咲いていないと分かったが、お稲荷さんに挨拶をしていこうと思い直す。

 公園には大きな桜とその傍らに小さなやしろがひっそりとたたずんでいた。他には、二つの繋がった鉄棒と申し訳程度に置かれたベンチがあるだけだ。お稲荷さんのために公園が作られたのか、公園にお稲荷さんが移動してきたのかわからない。公園の名前もわからないので、彼女と勝手に『お稲荷さんの公園』と呼んでいた。

 お稲荷さんの影に隠れて気付かなかったのだろう。葉太は公園の入口に立ち、そこで先客がいることに気がついた。

 春風に揺れる紺色のブレザーは型崩れをしていない。少し大きめのサイズが初々しさに拍車をかけていた。

 葉太は特徴のない少女の髪型にひっかかるものを覚えて、社に向かう足を止める。教室の前と後ろの距離。話しかけるには遠く、何事もなく通りすぎるには近すぎる。

 少女も葉太の存在に気づいたようで顔を向けた。丸く見開かれた目があどけない。桜の下には、二時間前に教室を後にした桜子が立っていた。


「先生もお花見ですか」


 葉太が言葉に迷っていると桜子は自分から話題を振った。


「いや、お稲荷さんに、お参りに……」


 歯切れの悪い言葉に葉太はこの場から消えたくなった。どっちが教師でどっちが生徒かわかったものじゃない。

 入学初日、互いに話のネタがない。

 葉太は居心地の悪さを感じた。さっさとお参りを済ませようと、足を踏み出す。お稲荷さんの横に立つ彼女との距離が自然と縮まった。


「この桜、まだ咲かないんですね」


 桜子は蕾のふくらんだ枝を見上げて言った。

 呟くような言葉に釣られて葉太も枝ばかりの桜を仰ぎ見て答える。


「八重桜だからだよ」

「そうなんですか?」

「咲くまでわかりづらいけど、学校にあるようなソメイヨシノより一二週間、遅れて咲くんだ。葉も一緒に生えてくるから、桜餅みたいだよ」


 桜餅、と桜子は少しだけ口許を緩める。思うことがあるのか、もう一度空を透かす桜を見て、まだなんですね、と残念そうに呟いた。

 ずっと真剣に見つめる横顔に葉太は不思議に思っていたことを口から溢す。


「どうして、ここに?」

「……『お稲荷さんの桜』が見てみたくて」


 葉太はひゅっと息を吸い込んだ。どうしてそれを知っているのか訊ねたくても言葉が出てこない。

 桜子は葉太に目を向けた。澄んだ瞳に体を固くした葉太が映る。

 葉太は桜子と彼女を錯覚しそうになった。


「どうして、『お稲荷さんの桜』を知ってるんだ?」


 やっとそれだけ絞り出して、桜子を見つめ返す。桜の根の上に立つ桜子を葉太が見上げる形になった。


「私、先生のがわかるんです」


 葉太は胸を鷲掴みされたような息苦しさを感じた。自分の考えていることとは、つまり学生時代の彼女だと言うのだろうか。

 桜子は表情を変えずに葉太を見つめている。

 身動きすら取れない葉太は、何も言えなかった。


「あれ、知りませんか? 映画のCMですよ」


 ちょっとやってみたかったんです、と桜子は小首を傾げた。

 印象ががらりと変わった桜子に葉太は戸惑う。


「映画?」

「はい。来週、公開だったかな」

「……大人をからかうのはやめなさい」

「先生、時代遅れですね」


 肩を落とす葉太に桜子はあけすけに言った。

 では、失礼します、と桜子は坂道をかけ降りる。

 葉太は桜子の背中を見送りながら、『お稲荷さんの桜』を知っていた理由を聞けていないことに気付いた。

 声をかけようにも、小さな背中は振り返らない。

 何だか、聞いてはいけないような気がした。


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