葉桜の君に

かこ

入学式

 あの桜の下に彼女は立っていた。

 思い出の姿で、桜を見上げている。優しい風が彼女の髪をさらっていた。


「ねぇ、葉太ようた


 よく通る声が鼓膜を震わした。

 膝丈のスカートを揺らして振り返った彼女が笑っている。八重歯が覗く、俺が好きな笑顔だ。

 夢だとわかっていたのに、手を伸ばしていた。彼女との距離はそれほどないはずだが、かすりもしない。


「私、良いこと思い付いちゃった」


 彼女に俺は見えていないのか、俺の必死さが伝わっていないのか、無邪気に笑っている。

 俺は一歩踏み出した。靴底に触れる砂利が妙にリアルだ。

 夢なら届いてくれたって良いのに、手が届かない。

 そして、いつものように目を覚ました。



***



 葉太は急な下り坂をブレーキもかけずに自転車で駆けおりた。自転車で十五分の道を難なく進む。地方都市といえど、朝の通勤ラッシュを舐めてはいけない。春の風を感じられる、こっちの方が断然気持ちが良かった。

 学校近くになると、制服姿の生徒がちらほらと登校している。制服でどこの高校だと分かるのが誇らしくも損した気分になったことを懐かしく感じた。

 校門前は、自転車がすり抜けるには難しいぐらいには混み合っている。予礼十分前。新年度初日といえど、呑気な奴は多い。

 葉太が自転車を押していると、見知ったスポーツ刈りが見えた。教師生活も三年目。照れもなく生徒の背中に挨拶をする。


「おはようさん」

「あきせん、おはよー。今日は遅いね」

秋田あきた先生、おはようございます、だろう。敬意を払え、敬意を」


 へーい、と男子生徒は適当に答えて、自分の口元に片手を添えた。内緒話をするように控えた声量で訊ねる。


「あきせんって、俺の担任?」

「ないな」

「うっわ、ヒドッ!」

「ひどくないひどくない」


 葉太の棒読みの台詞に男子生徒は不貞腐れた。

 葉太は面白がるようにそれを見て、男子生徒の背中を叩く。


「サッカーぐらい、何時でもできるだろう」

「他のクラスになったら、そいつらとするだろー」

「どうだろうなぁ」


 葉太は軽くあしらいながら、校門を抜ける。

 今年の入学式は桜がちょうどよく咲いた。一枚、男子生徒の上に桜が舞い落ちる。

 新入生はどんな奴らかな、と想像を膨らませる葉太はそれに気がつかなかった。自転車置き場に向かうために、じゃあな、と言おうとして、固まる。

 男子生徒の後ろに夢で見たばかりの彼女がいたからだ。


冬谷ふゆたにくん、髪に桜が付いてる」

「え、マジで?!」


 慌てて、頭をかきむしる冬谷に彼女は痛くないの、と呆れ顔だ。


「……日和ひより?」


 葉太が久しぶりに呟いた名前は彼女に届いたらしい。

 彼女が目を丸くしている。


「あきせんって桜子さくらこと知り合い?」

「苗字で呼んでって言った」


 桜子が間髪入れずに指摘した。


「あ、わり。お前、あきせんと知り合いなの?」


 悪びれた様子もない冬谷が振り返り、桜子に訊いた。桜子はどうだろ?と言葉を濁している。

 葉太はまじまじと桜子を見つめた。染められていない、茶色味のある黒髪は肩より少し高い位置で切り添えられている。何処かで見たことがあるような平均的な顔。その中で特筆することはないが、あえて言うのであれば、瞳が澄んできた。濡れた鏡のようにきらりと光る。真新しい制服を着ていた。

 少しの沈黙。初対面で無遠慮に見すぎたことに気づいた葉太はごまかすように頭をかいた。サイズの合っていない時計が無機質に音を立てる。

 話題に困る面々の耳に保護者を案内する校内放送が届いた。

 教師が新年度初日から遅刻では面目が立たない。またな、と二人に手を振った葉太は自転車置き場に急ぐ。準備は昨日の内に全て終わらせてある。職員室での朝礼に滑り込み、教頭に半ば呆れられた。葉太は笑顔でやり過ごす。

 教頭は簡単に連絡を済ませると、すぐに解散となった。

 葉太は美術準備室に寄り、荷物を置いて名簿を手に取る。中身をざっと確認して、ある一列に注目した。

春川はるかわ桜子さくらこ

 やけに春爛漫な名前だな、と思ったわりに本人を目の前にして思い出さなかった。意識が飛んでいたとはいえ、自分の間抜けさに溜め息が出る。

 今朝、夢で見たばかりだから彼女に似ていると錯覚したのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、美術準備室を後にした。

 葉太は三階から二階へと降り、自分が受け持つクラスに向かう。一年三組のパネルの下の扉を開けた。

 一斉に集まる視線。

 葉太は意識して、どの視線にも合わせずに教壇に立った。名簿を教壇に置き、全体を見渡す。緊張しているからか、桜子の姿が他の生徒と見分けがつかない。やはり、勘違いだったのだろう。

 葉太は自分に注意が向けられているのを確認してから力を抜くように笑った。


「皆さん、初めまして。一年三組の担任をさせてもらう秋田葉太です。担当は美術。選択科目になるので、全員に授業をすることはありませんが、毎日、顔を合わせることになります。よろしくお願いします」


 頭を下げる葉太につられて何人かが頭を下げる。それを微笑ましく見た葉太は黒板に書いてあるスケジュールの説明した。簡単に済ませるとクラスが緊張に包まれる。


「先生達は一人一人の名前を呼ぶのに必死です。頑張るので、よく聞いていてください」


 笑みを深くして締めくくった葉太は新入生を講堂へ案内した。

 前方後方の二群に別れた一階席と二階席のある背の高い講堂は卒業生の寄金で建てられた物だ。飴色の跳ね上がりの椅子。飾られた壇上花や来賓者が座る席。天井近くにかけられた校旗と日の丸。特別に調えられた壇上に身が引き締まる。

 葉太は自然と背筋を伸ばして先導した。自分のクラスを席に着かせると、自身の席に腰を落ち着かせる。

 新入生が全員揃ったようだ。さまざまな表情を見せる横顔の群衆の中に彼女を見つけた。瞬きした瞬間に、桜子だと気付く。

 桜子は静かな眼差しで壇上を見上げていた。息をするように視線を周囲に配り、ゆっくりと葉太に視線を合わせる。

 視線が絡み合った葉太は動揺した。感情の読めない瞳で彼女に見つめられる。逃げるように視線を壇上に反らした。

 マイクの電源を入れる電子音を聞いて、葉太は顔を上げる。


「皆様、ご起立ください」


 放送部のよく通る声が響いた。

 葉太は遅れをとらないように起立する。

 式は問題なく進む。入学生の名前が呼ばれ、ついに一年三組の番となった。

『丁寧に、はっきりと、聞き取りやすい速さで』

 彼女の言葉を自分に言い聞かせて、マイクを握る手に力を込めた。唇を湿らせて、口を開く。


「一年三組――」


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