通りすぎる夏休み

 太陽が恋しい梅雨が来た。雨が心底嫌いな葉太は寝不足だ。

 サッカー部の練習は無くなり、希望者のみがトレーニングに励んでいる状態。

 葉太は久しぶりに美術部に顔を出した。誰かいるだろうと思っていたが、薄暗い教室が出迎えてくれるだけだ。

 雨音が記憶の扉を叩く。

 あの日も土砂降りの雨だった。彼女は濡れなかっただろうか。その答えはわからない。

 カラカラと控えめに開けられた扉に葉太は振り返った。

 窓から覗く灰色の雨雲を背景に桜子が立っている。


「どうした? 今日は皆、来てないみたいだぞ」

「電車の時間まで暇を潰そうと思って。邪魔だったら帰ります」

「いや、構わないよ」


 自然に出た言葉に葉太は笑いたくなった。車で送るという浅はかな申し出はする気はない。

 結局、桜子は美術部に入部した。入部したのに、絵を描かずにいるらしい。

 そういえば、彼女も絵を描くのが苦手だった。急に桜子と彼女の境界線が歪む。

 葉太は帰る時は、声をかけてくれと申し出て踵を返した。

 準備室に引っ込もうとした葉太を止めたのは桜子だ。


「先生、一つ聞いてもいいですか」


 真剣な声音に葉太の心はざわつく。

 葉太は答えずに振り返える。真剣な眼差しにぶつかった。


「先生って同性愛者なんですか?」


 どうせいあいしゃ。上手く意味が受け取れなくて、葉太は固まった。

 桜子の眉間に時間が立つごとに皺が刻まれていく。

 同性愛者。

 意味することを理解して、葉太は慌てた。


「なんで?」


 焦る葉太に桜子は鋭い瞳を向ける。


「秋田先生は男の子が好き、って噂が広まってますよ」


 狼狽える葉太に桜子はため息をついた。男子とばっかりサッカーしてるから、と丁寧に説明を付け加える。

 葉太の誤解を生まないようにした行動が余計な誤解を生んでいた。


「ない、それはない」


 葉太は青ざめた。思い起こせば、女子生徒からの当たりが変だった気がする。


「誓って言う。俺が好きなのは女だ」


 葉太は、安い芝居の台詞みたいなことを言ってしまう自分が情けない。


「本当ですか?」

「彼女だっていたよ!」


 ふーん、と桜子は冷めた返事をした。


「今はいないんですよね?」

「いい加減にしろよ」


 恨めしそうに見る葉太に桜子はすみません、と詫びる。


「からかい過ぎました」


 僅かに口元をゆるめる桜子は窓の外を眺めた。

 ガラスを濡らす雨が重力に逆らえずに流れていく。いくつものすじが風景を分断していた。


「先生の彼女ってどんな人でした?」

「教えるつもりはないよ」


 強く拒否した葉太とは逆に桜子は少し考える素振りを見せ、いたずらっぽく笑う。


「皆が噂をしてる時、否定してあげませんよ」

「……意地が悪いな」

「今さら気付いたんですか」


 生徒にかける言葉ではないが、桜子は少しも気分を害さなかった。

 葉太は諦めて、机に腰かける。盛大にため息をついて、口を歪めた。何をどこから説明すれば良いのか検討がつかない。こういう話には慣れていなかった。飽きずに雨を見る背中に声をかける。


「春川さんとは正反対な人だったよ」

「意地が悪いことは言わないってことですか」


 葉太がやっと言い終えるとすぐに嫌みを返された。葉太は吐きそうになった息を我慢して、言い直す。


「……違う。自分の思ったことをはっきりと言う人だった」

「先生、尻に敷かれてそうですね」

「君は大人しいわりに、俺には手厳しいな」

「……失礼ですね」


 顔だけ向けてじとりと睨む桜子は年相応に見えて可愛らしかった。

 やっと大人の威厳を示せた気になった葉太は笑った。さぁ、帰れと促す。いつの間にか、雨が勢いを弱めていた。

 桜子は灰色がにじむ窓を背にして振り返える。まっすぐな瞳が葉太を捕らえた。

 葉太は桜子を見返す。ひねくれているのに、どうしてこんなに澄んだ瞳をしているのだろうと考えた。静かな瞬間は意外に短く終わりを告げる。


「まだ、好きですか」


 主語も相手も示さない。しかし、正しく葉太に伝わった。


「どうだろうな」


 それは正直な言葉だった。

 桜子が彼女と重なる。

 葉太が冷静でいられたのは、桜子が泣きそうな顔で唇を噛み締めていたからかもしれない。

 何に泣きそうなのかわからないが、桜子の感情に流されるわけにはいかない。葉太はこれで終いだ、というように背を向けて準備室に消えた。

 雨の音は葉太の耳には届かない。葉太は椅子に座り、スリープモードのノートパソコンを叩き起こした。雨の重たい空気も葉太は嫌いだ。息がしづらい。

 集中力が続かないので、葉太は早々に仕事を切り上げることを決めた。USBにデータを保存して鞄に詰め込む。事務所に帰る趣旨を伝え、雨の中を駆けた葉太は車に滑り込んだ。フロントガラスを叩く雨をひとにらみして、車のハンドルを握る。

 信号で止まった車内には雨音だけが響いた。アイドリングストップが搭載された車はラジオも音楽もかけられていない。

 車で十分の通勤路。信号のない細い道を通れる自転車との差はほとんどなかった。

 葉太は帰宅すると台所に顔を出す。

 居間のテレビで流れるCMは、以前桜子が真似た場面が流れていた。『私、あなたの考えていることがわかるんです』

 流行りの女優の台詞が葉太の耳を通りすぎる。


「ただいま。ばあちゃん」


 しわくちゃの笑顔でおかえり、と返されて、葉太はやっと呼吸することができた気がした。


「もうすぐご飯できるから、じいちゃんにご飯あげてきて」


 台所で手を洗う葉太に祖母は優しく言った。

 葉太は頷いて、仏飯器に炊きたてのご飯で小さな山を作る。居間の続きの襖を開けて、仏壇に供えた。蝋燭に灯をともし、線香も供える。軽く手を合わせて、ついでに帰宅の挨拶もしておいた。


「俺、じいちゃんみたいな先生になれるかな」


 ぽつりと呟いた言葉は空気にとける。

 答えてくれる優しい声も、頭を不器用に撫でる分厚い掌もない。


「葉太は葉太らしい先生になれば良いよ」


 祖母が祖父の代わりに、いつも言っていた言葉をかけてくれる。

 葉太は込み上げてくるものを飲み込んで食卓に足を運んだ。



***



 桜子という生徒は、器用な生徒だった。三百人以上いる一学年の中で五十位以内の成績を残し、得意科目の国語は古文と共にいつも上位をキープしている。不得意と思われる化学も平均点以上。極端な成績の偏りがない。友人関係も良好。グループの中に入れば、存在が埋もれるが人間関係に波風を立たせることもない。昼食を一緒に食べる友達もいるようだ。

 三者面談に来た母親に掻い摘んでそう説明すると、安心したように息をついていた。

 母親の横に行儀よく座る桜子は机に置かれた成績表を見つめている。

 冷房はかけていたが、電源を入れたばかりのせいか、じわりと汗をかく暑さだ。運動部の声に負けじと蝉が鳴いている。


「実は、急に志望校を変えたものですから、心配していたんです。オープンスクールにも行ってない高校にお世話になるなんて思ってもいなかったので」


 母親は困ったように笑った。


「家は河野町でしたね。通学、大変でしょう?」


 葉太が気遣わしげに訊くと母親の顔は苦笑に変わる。


「本人が行きたいところに行くのが一番ですから。そういえば、文系か理系か選ばないといけないんですよね?」


 言葉で濁して、話を変える。

 葉太は一回りも上の保護者達に感心もするが呆れることもあった。それをおくびにも出さずにどの保護者にもした説明を伝える。


「二学期の始めに一度、希望をとりますが、最終的には学年末までに決めていただけたら大丈夫です。春川さんの成績を見れば文系に見えますね。まぁ、一番は本人の希望なのでそれが優先されますよ」


 葉太は安心させるように少しだけ笑みを深くした。

 雑談を挟み、三者面談を終える。親子は丁寧にお辞儀をして教室を後にした。

 次の面談まで、三十分。あまりの暑さに職員室で扇風機を借りようと葉太は腰をあげた。冷気のない廊下は恐ろしく暑い。夏休みということもあって窓は締め切られていた。命の危険を感じつつ、一階の職員室にむかう葉太の足が止まった。

 水色のジャンパースカートを着た桜子が玄関の段差に座っている。第一ボタンを外す者が多い中、律儀に一番上までとめていた。伸びた髪を一つに束ねている。

 桜子は視界に葉太を入れると相変わらずの憎まれ口を叩いた。


「先生もちゃんと先生してるんですね」

「そりゃ、先生ですから」


 葉太は桜子の言葉を軽くかわした。続けて親は、と訊く。

 桜子はトイレです、と答えた。

 美術部は夏休み期間中に部活動をしていない。

 桜子とはこの面談を終えたら来月の始業式まで会う予定はない。葉太はそれに安心している自分に内心で苦笑した。


「先生は絵を描かないんですか」


 暑さに頭をやられたのかもしれない。まっすぐに言葉をぶつけてくる桜子に彼女の姿が被る。

 彼女の姿を見ないように葉太は下駄箱に体を預けた。日影のそこは火照った体を冷ます。


「絵を描かなくても美術の先生はできるぞ」

「給料泥棒」

「失礼な奴だな」

「知ってます」


 桜子との時間はいつも静かに過ぎる。

 スリッパで歩く音が聞こえてきた。

 葉太は下駄箱から体を離して、また、二学期にな、と言葉をかける。桜子の温度のない返事を聞いて、葉太は再び職員室に足を向けた。

 廊下に静かな足音が響く。


「また、描いてください」


 すがるような言葉は葉太には届かなかった。


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