夕陽ににじむ色

 暑さが鳴りを潜め、秋が深まる季節に文化祭はやってくる。

 葉太は大量のビニール傘を右肩に担いでいた。空いた手には様々な画材の入った袋を持たされている。これも二往復目。腰に来る。


「この傘、何に使うんだ」

「美術部に顔を出さない顧問には教えませーん」


 頑なに教えない部長はとても楽しそうだ。

 噂の件もあり、葉太はサッカー部に顔を出す頻度は減らした。昼休憩のサッカーも週に一二回は断っている。正直な所、書類仕事が増えたことが大きな原因だ。それ故に美術部にも葉太の足は延びない。

 この学校に赴任して二年目。若くてパソコンが使えるから、と言われて葉太が頼まれた資料作成は数知れず。つまり、仕事を押し付けられていた。

 これに葉太は嫌な気はしない。簡単なグラフや表をつけてやると、必ず喜ばれた。信用と信頼がなければ任されない仕事だ。葉太は身を持って知っていた。

 葉太の先を行く部長は歌うよう話し出す。


「ヒント、文化祭のテーマ」

「個性が輝く、だろ」

「ヒント、美術部のテーマ」

「……『無限色むげんいろ』だったよな」


 忘れかけていた葉太に部長は笑顔で頷く。

 どこがヒントなのか全くわからない。葉太は仕方なく、何も言わずに荷物を運んだ。

 お待たせーと部長は美術室の扉を勢いよく開ける。美術部の面々は私物のティーシャツとジャージに着替え、使い込まれたブルーシートを広げていた。口々に労いの言葉が飛んでくる。

 葉太は教室の端に荷物を置いて、椅子に腰を落とした。

 桜子が床に置かれた荷物を取りに来たついでに、余計な一言を投げる。


「若くないのに頑張りましたね」

「若くないから労れ」


 葉太は頬杖をつきながら返した。

 入学した頃の長さに切られた桜子の髪は屈むとカーテンのように顔を隠す。


「何を作るんだ?」

「無限色です」


 部長と同じような答えを返された葉太は面白くない。


「好きにしてくれ」

「職務怠慢ですね」

「聞いているのに教えないのは君達だろう」


 それもそうですね、と桜子は認めた。持てるだけ傘を抱えて、桜子は少し胸を張って言う。


「期待しててください。皆さんが頑張りますから」

「春川さんも頑張りなよ」

「私は考案者兼お片付け係です」

「……本当に何で美術部に入ったんだ」

「本人の強い希望です」


 本音をこぼす葉太に対して、桜子は小首を傾げた。最近、気付いたことだが、桜子は何か誤魔化す時に首を傾げる癖があるようだ。

 葉太は重い腰をあげる。


「じゃあ、邪魔者は立ち去りますか」

「ご協力、感謝します」


 否定しないのかと葉太は文句を言ったが桜子は首を傾げるだけだ。

 廊下に出れば、各クラスから作業をする声が聞こえてくる。立ち尽くした葉太は少しだけ考えて一年三組に足を向けた。予定通りに進まない作業が心配になったからだ。

 二階の一年生の教室が並ぶ廊下は様々な物でごった返していた。

 葉太はどうやって片付けるんだと思いながら、器用に避けて歩く。一年三組を覗けば、数人の生徒が作業をしていた。


「どうだ、順調か?」


 扉の一番近くにいた生徒に声をかけると、男子が買い出しに言って帰ってこないと口を尖らせた。

 毎年、似たようなものだと思って葉太は苦笑する。

 一年三組では、ミラーハウスをすることになっていた。ただの鏡の世界ではない。所々に貼り付けられた飾りに鏡に映る体や顔をはめ込めば、金髪になったり、花畑に囲まれている姿になる仕掛けだ。

 予算は限られている。代わりに自由に使える黒幕で教室内を一周りほど小さくして、展示するスペースを減らす予定だ。文化祭前日はきっと大掛かりな作業になるだろう。怪我をさせないように気を付けようと葉太は決心する。


「先生、そっち押さえてくれる?」


 葉太は女子生徒の願いに快く応じた。



***



 葉太は首を解すように揉んだ。文化祭前日、クラスの出し物の準備を終えて生徒たちを見送る。

 桜子が葉太の横に立つ。桜子も文化祭実行委員に付き合って最後まで残っていた。帰り支度はしているが、帰る気はないらしい。


「先生、このあと時間がありますか」

「ないな」

「……美術部の最終確認をお願いします」


 まぁ、そういうことならと葉太は承諾した。

 桜子と葉太は美術室に向かう。三階の窓からは市街地に沈む赤く染まった太陽が見えた。薄暗いがわざわざ電気をつけるほどはない。

 美術室の前に来れば、『秋田先生は入室禁止』と書かれた貼り紙が堂々と入室を拒んでいた。教室と廊下を区切る窓ガラスには黒幕がはられ、中が見えないようになっている。

 葉太は紙を睨んで苦情を申し立てる。


「顧問を入室禁止する奴がいるかよ。よく他の人にとやかく言われなかったな」

「先生にサプライズするんです、って言えば気にしませんでしたよ」

「嘘をつくな、嘘を」

「まぁ、あながち? 嘘でもないです」


 小首を傾げた桜子の口元は笑っている。

 律儀に守る葉太も大概だが、貼り紙をする部員達も強情だ。

 桜子は貼り紙をはがして、招き入れるように扉を開けた。

 葉太が良いのか、と確認をすれば、部長には言ってますと返される。

 葉太は小さく息を吸い込んで、美術室に足を踏み入れた。

 左手には空を模した綿の貼られたブルーシート。右手にはチョークで虹が描かれた黒板。正面の窓には鳥が飛んでいる。色とりどりのマスキングテープで窓ガラスに描かれているようだ。

 教室の端には長い机が二組置かれ、『受付』『ワークショップ会場』『ミュージアムショップ』と案内の札がつけられている。

 窓の枠には二十本ほどの傘がかけられていた。遠目では判断しにくいが、それぞれに工夫が施されているようだ。窓の下の床には五つのビニール傘が開かれた状態で置かれている。幾何学模様であったり、カラフルな水玉であったりと意匠が凝らしてあった。

 教室の中央床には、三メートル四方の画用紙が用意されている。ブルーシートの上にまっさらな白が映えた。


「素敵でしょう」


 いたずらが成功した子供のように桜子は笑った。桜子が背伸びをしながら、教室と廊下を区切る黒幕を外す。ガムテープで張り付けただけのようで、葉太も手伝ってやった。

 葉太は作業する手を止めずに話しかける。


「頑張ったな、お片付け係」

「素直に誉められないんですか」

「春川さんを誉めるのは何か違う気がするんだよ」


 私以外の皆はちゃんと誉めてくださいね、と忠告した桜子はおもむろに何かの準備を始めた。桜子の制服が夕陽色に染まる。

 桜子は教室の後ろに位置する水場で幾つかの筆洗バケツに水を溜め、中央の画用紙の横に置いた。作業は終わらず、教室の端に置かれていた傘立てから新品の傘を取り出す。そして、躊躇なく筆洗バケツに傘の先を浸けた。

 葉太は一連の動きを見ていたが見当がつかず、桜子に訊ねる。


「何かするのか?」

「子供の頃、傘で地面に絵を描いたことありますか」


 葉太の質問には答えずに、桜子は傘を突き出すように葉太に渡す。

 ない、と言えば嘘になる。

 傘を受け取った葉太は眉間に皺を寄せた。


「先生って、『にじみ』できますよね」


 葉太は知らず知らずの内に傘を握る手に力を込めた。


「別に何かを描けって言ってるわけじゃないんです。色だけでもつけてもらえませんか」


 桜子が優しい声で願う。

 その声に背中を押されて、色だけなら、と葉太は画用紙に傘の先を滑らした。小さな水溜まりを作るように水を染み込ませる。今度は桜子が作った色水に傘の先をつけた後、水が染み込んだ画用紙に色を落とした。

 放射線状にのびる青。次に黄緑色の滴を幾つも落とす。金平糖がこぼれたように白い用紙ににじみ、幾つかは青に溶けた。

 色がにじむ世界に葉太の心は満たされていく。

 もともと祖父から習った水彩は、淡く溶け合う色が好きだった。油絵の重ねて、削る必然のような色よりも、淡白なのに水の具合で変わる世界に魅了された。澄んだ色が混じりあい、くすむ色さえ愛しい。

 傘を握ったせいか、幼い頃を思い出す。幼い頃から雨は嫌いだったが、母が迎えに来てくれることは嬉しかった。淡い記憶が葉太の脳裏を通りすぎていく。


「綺麗ですね」


 葉太は顔を上げた。

 桜子が画用紙ににじむ世界を見ている。

 彼女と同じように眩しそうに目を細めて、絵を見ている。

 記憶が葉太の手を止めた。

 葉太の様子がおかしいことに気付いた桜子が顔を上げる。不思議そうに瞬いた。

 桜子と彼女は違う。全然違う。葉太はわかっているのに、彼女を探す自分を止めることはできない。


「後は片付けるから帰りなさい」


 長い影を見下ろして、葉太は静かに言った。


「だめ、ですか?」


 桜子の言葉に主語も目的語もない。しかし、葉太は何となく言いたいことが汲み取れた。力なく首を振りながら詫びるように言う。


彼女思い出を忘れない限り無理だと思う」


 澄んだ瞳に自分の情けない顔が映る。葉太は笑おうと努めた。

 夕陽が目にしみる。


「……先生、私を見るとき、違う人を思い出しているでしょう」


 桜子は葉太の心を見透かすように断言する。


「――どうだろうな」


 答えが見つからなくて、葉太は誤魔化した。


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