冬空の涙雨

 葉太は夕陽に染まる世界を自転車で切り裂くように駆けていた。慣れた道が息苦しい。

 帰宅して、台所を覗いても祖母の姿はなかった。今日から三日間、町内会旅行でいないことを思い出す。

 葉太は仕方なく、仏壇の前に座った。

 仏壇には祖父の写真と桜の絵が飾られていた。『お稲荷さんの桜』だ。台所から差し込む光がわずかに照らす。

 葉太は初めて見た『お稲荷さんの桜』を思い出していた。



 祖父と同じ高校に入学した葉太はそれと同時に祖父の家に世話になることになった。両親の海外赴任が決まり、祖父母は日本に残る葉太を引き受けることにした。両親は顔を忘れない程度には帰ってくるが、今も海外赴任の任期が終わっていない。

 特に不自由もなく、四月が過ぎていく。美術部に入部した葉太は題材を探して歩き回り、あの桜を見つけた。

 ちょうど良いと一つだけあったベンチに座り、黙々と描く。集中していたので、忍び寄る影に気付かなかった。


「綺麗だね」


 ふって沸いた言葉に鉛筆を滑らす手が止まった。葉太がゆっくりと顔を上げれば見慣れない顔。茶色味のある黒髪は肩より少し高い位置で切り添えられている。何処かで見たことがあるような平均的な顔。その中で特筆することはないが、あえて言うのであれば、瞳が澄んできた。濡れた鏡のようにきらりと光る。葉太の通う高校の制服を着ていた。


「一年生?」


 戸惑いながらも葉太は頷いた。

 私も、と彼女が笑う。


夏山なつやま日和ひよりって言うの。君は?」


 耳に心地良い、よく通る声だ。

 葉太と日和が名前で呼び合うのに時間はかからなかった。

 放送部に所属する日和は発声練習の場を探して、この桜にたどり着いたらしい。

 月に一二度会う関係であったが、時にベンチで笑いあい、日差しが強い日は青葉の繁る桜の下で涼んだ。

 いつかの誕生日には、日和に絵をせがまれて、葉太は仕方なく描いた。嫌々ながらも、飛びっきりのものを贈りたくて何度も描き直した。

 夏生まれの日和に合わせた、ひまわり畑からひょっこりと出た笑顔。半月の口には八重歯が覗く、葉太が好きな笑顔だ。まっすぐに顔を上げたひまわりは彼女にぴったりだと思った。

 誕生日を過ぎて渡した贈り物に日和はひどく喜んだ。葉太の好きな笑顔。それを自分の手で作れたことが葉太は嬉しかった。

 学校では顔を合わせても、互いにお辞儀をするだけで、話はしない関係。それが三年の冬まで続いた。

 三年の卒業式に告白したのは日和だ。


「高校を卒業しても会いたいから、付き合ってくれる?」


 照れながら笑う日和を葉太が断る理由はなかった。

 卒業する春。例年にない暖かさで八重桜は毬のような花を揺らしていた。

 そこで、日和の提案で十年後の約束をした。互いに手紙を書いて、社の横に埋める。未来のことなんて想像がつかなかったが、隣に日和がいれば良いと思った。



 違う大学に通いながらも、葉太と日和は関係を深めた。四年の月日は瞬く間に過ぎる。


「はい、就職祝い」


 そう日和に差し出されたのは、葉太が教員採用試験に合格した時だった。


「合格するかわからないのに、準備してたのか?」

「合格するに決まってる。葉太以上に先生になりたい人なんていないよ」

「まぁ、うん。その自覚はあるけど……」

「ほらほら、開けてよ」


 日和に促された葉太は紙袋の中の包みを開ける。

 シルバーのベルトとラグ。晴れた空を映した水溜まりのような文字盤。冷たい印象なのに、何処か優しい腕時計。


「高かっただろ、コレ」

「葉太、何て言えばわかってるでしょ」

「ありがとう。嬉しいよ」


 葉太はくすぐったそうに笑った。

 日和もつられるように笑った。

 次に会う時には葉太は前回の日和と同じ紙袋を提げていた。

 いつもの待ち合わせにしていた駅中の喫茶店。

 葉太は手にした物を日和の目前に押し付ける。

 日和の視界は紙袋でいっぱいになった。


「就職祝いと虫除け」

「――虫除け?」


 地元ラジオ局に就職を決めていた日和は不思議そうに目を瞬く。


「いらないなら、やらん」


 いつも以上にへそを曲げやすい葉太から、日和は奪うように紙袋を取った。


「いらないなんて言ってないでしょ!」

「……言ってないな」

「開けていい?」

「お好きにどうぞ」


 日和は不器用ながらも、丁寧に包みを開けた。紙袋に入っていた二つの包みが箱だけになる。


「……どっちから開けた方が良いと思う?」


 日和は葉太に視線だけ向けて訊ねた。

 

「……同時に開けるか?」

「さすが。わかってる」


 日和は満面の笑みで葉太に小さい方の箱を押し付けた。

 葉太は一瞬渋ったが、それを受け取る。


「じゃあ、せーの、ね?」


 葉太は首肯く。

 日和の小さな掛け声に合わせて、二つの箱は開けられた。

 日和は二つの贈り物を見て、相貌を崩す。

 日和の手にした箱には先日、葉太に渡した腕時計の揃いが入っていた。女性用にあしらわれた冷たい印象なのに、何処か優しい腕時計。


「ねぇ、知ってる? 葉太」


 葉太は視線だけで、何だと答えた。


「時計ってね、一緒に時を刻みましょう、って意味があるんだって」

「……そこまで考えてない」


 だろうね、と日和は笑った。

 葉太の腕に光る時計と揃いの時計を日和は眩しそうに見つめる。


「仕事中も一緒だね」

「……そうだな」

「ね、葉太。コレ、つけて?」


 日和は葉太が開けた箱を両手で包み込むように持った。何の飾りもない、シンプルなシルバーリング。これは未来への約束だ。


「二人の時にな」


 恥ずかしくてたまらん、と葉太はそっぽを向いた。

 じゃあ、後でね、と日和は腕時計をつけて、小さな箱は紙袋にしまう。

 窓に映る小さくこぼれた笑みを葉太は見逃さない。喫茶店の磨かれた窓に感謝した。



 社会人になれば、さらに結婚を意識する。仕事に慣れるまで、と葉太は自分に言い聞かせて邁進まいしんした。

 教師一年目。任される仕事が少ないわりに失敗も多く、なおかつ遅い。救いようがないぐらい仕事ができない葉太を周囲は笑って許した。

 情けない自分に弱音を吐きたかったが、自分がなりたくてなった仕事だ。誰にも弱音を溢せなかった。

 冬休みが明けてすぐの頃、一人の女子生徒が学校に来なくなった。葉太が副担任として、何度か相談を受けたことがある生徒だ。

 母親と担任、副担任の葉太で面談することになった。

 担任が女子生徒の様子を問う。母親は葉太に一瞬目を向け、言いづらそうに口を開いた。


「娘は気不味いから、登校したくないって言うんです」

「具体的に伺ってもよろしいでしょうか?」


 担任がやわらかく促した。

 母親は視線をさ迷わせた後、娘が言うには、と話し始める。


「秋田先生に好意を伝えようとしたら、断れたって」


 寝耳に水だった。葉太は担任と顔を見合わせる。担任に心当たりはと短く訊かれて首を振った。

 母親は少しだけ机に身を乗り出して葉太に詰め寄る。


「娘は大人しい性格なんです。お言葉ですが、先生が勘違いさせるような行動をしたんじゃないですか」

「――考えが及ばず、申し訳ありません」


 葉太は込み上げてきた言葉を飲み込んで、頭を下げる。

 葉太の対応に満足したのか、母親は姿勢を戻した。


「いえ、娘の勘違いだとも思うんですけどね」


 母親の取り繕った笑顔を葉太は直視できなかった。

 そこからは呆気ないほど葉太の居場所は無くなった。教師生活一年目。失敗も多く、信用も信頼もなかった。笑って話しかけてくれていた周りもよそよそしい。葉太の陰鬱な表情も起因していた。

 葉太は何度か連絡を取ってくれた日和にも笑えない有り様だった。形容しがたい後ろめたさが拭えない。彼女には絶対に理由を言えなかった。

 久しぶりのデートも上の空の葉太を気遣って早く切り上げることになる。日和の自宅の一番近くのコンビニに駐車した。

 外は白く見えるほどに激しい雨が降っている。


「仕事、どう?」


 雨の中でも日和の声は葉太に届いた。


「……まだまだ未熟者だなぁって思うよ」


 会話は続かない。沈黙が車内を満たす。

 暦の上ではもうすぐ春だというのに、冬が再来したように寒い日だった。フロントガラスが曇る。

 葉太はどれぐらい時間がたったのか分からなかった。彼女との時間がここまで苦痛なことは今までに一度もない。


「葉太。そんなに辛いなら、辞めても良いよ」


 体が震えた。葉太は彼女の言葉が信じられなかった。

 何よりそれに甘えたくなった自分を一番信じたくなかった。


「日和には関係ないだろ」


 呻くように出た言葉は今思えば、完璧な八つ当たりだった。

 彼女は追及してこなかったが、何かしら感づいていたのかもしれない。

 雨がフロントガラスを叩く。

 葉太は日和の呟いた声が聞き取れなかった。


「バイバイ」


 努めて明るく言われた言葉だけを残して、彼女は雨の中、駆けていった。



 葉太はどうやって、家に帰ったか分からなかった。玄関に佇んでいた時間もわからない。


「葉太」


 祖父の声にも顔を上げられない。教師を辞めようとした自分を見られたくなかった。


「じいちゃんの学校にな、臨時の募集があるんだ」


 祖父は自分が教頭まで勤めた母校を『じいちゃんの学校』と揶揄することがあった。


「そこで葉太らしい先生になりなさい」


 葉太の頭に分厚い掌が乗る。冷えた体に祖父の暖かさが染み渡るようだ。十年以上されてなかった行為に思わず目頭が熱くなる。

 葉太は眉に力を込めて、小さく頷いた。


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