桜を背負った少女

 大成功で終わった文化祭は半年も前のことになる。

 葉太は一年三組の担任を終え、受験生の副担任を勤めることになった。今は副担任として、先日の小テストで追試となった冬谷を見張っている。

 外からは部活動に励む掛け声が聞こえた。

 冬谷はテストとにらめっこしながら、葉太に話しかける。


「あきせん、サッカーしよう」

「あきたせんせい、な。今度の小テストで追試をまぬがれたら良いよ」

「受験の鬼めぇ」


 スポーツ刈りが少し延びた冬谷は唸った。

 心地よい風が窓から吹き込む。


「しないとは言ってないだろう。息抜きは付き合うが、努力もせずに息抜きしようとするな」


 葉太が笑いながら説教をすれば、冬谷は首の後ろで手を組んで天井を仰いだ。一旦、休憩とばかりに椅子に座ったまま仰け反っている。


「そういえば、桜子、明日来るって」

「一週間、寝込んだって?」


 冬谷からの話題が気になったということもあり、葉太は乗った。新しく桜子のクラス担任になった先生からも話は聞いている。

 春から長期間休む生徒は珍しいからだ。


「それぐらいかな? プリント届けたら、ケーキを強請るぐらいには元気だったよ」


 冬谷に心配する素振りはない。腕のストレッチまでしている。


「……本当に、寝込んでたのか」

「なんか、外で座り込みしてたら風邪ひいたらしいよ」

「どんな状況だ、それ」


 葉太は心配して損をした気分になってきた。

 冬谷はおばさんに聞いただけだから、よくわかんないけど、と続ける。


「桜子、こうと決めたら頑固だからなぁ」

「冬谷くん、追試は終わったの?」


 寒気がするほどの低い声に葉太と冬谷は肩をはね上がらせた。

 桜子が教室の開けっ放しの入口に立っている。何時からいたのかわからない。


「うわ、出た」


 桜子は冬谷を無視して、葉太に向き直る。


「先生、追試が終わったら私に時間をください」

「……嫌だと言ったら?」

「先生は一生、後悔するはめになります」


 そう重ねられても、葉太は頷けない。女子生徒と二人きりになる状況は避けたかった。


「タイムカプセル、覚えていますか?」


 桜子は澄んだ瞳で葉太を射ぬく。葉太の答えは聞かずに待ってますね、と残して立ち去った。



***



 葉太は自転車を押して坂道を上っていた。住宅街の一番てっぺんにある『お稲荷さんの桜』を目指す。行こうか迷ったが、桜子の言葉が気になって自然と足が向いていた。

 坂道が緩やかになる。

 それに合わせるように葉太の足取りも重くなった。

 去年は見られなかった空に溶かしたような薄桃色が視界に入る。

 葉太は公園の入口に立ち、予想通りの先客に気がついた。

 風に揺れる制服。紺色のブレザーは桜子に馴染んでいた。

 葉太は入口に自転車を置いて、八重桜に近づく。自然と止まる足。教室の前と後ろの距離。話しかけるには遠く、何事もなく通りすぎるには近すぎる。

 桜子も葉太の存在に気づいたようで顔を向けた。


「来ましたね、先生」

「病み上がりの生徒を放っておくのもどうかと思ってな」

「意外と優しかったんですね」


 葉太の嫌みは桜子には通用しない。桜子はくすくすと小さな声で笑った。機嫌が良さそうだ。

 葉太はゆっくりと八重桜に近づいた。


「桜、咲きましたね」

「やっとな」


 二人で八重桜を見上げる。空に溶け出すように広がる薄桃色。合間に見える新緑。社の上まで伸びた枝は花の重みに負けて、たゆんでいる。毬のような薄桃色の塊に、包むように葉がのびていた。

 葉太は細かい花びらを見ているとだんだんと粒の粗い餅を思い出してくる。花びらの影から覗く茶色のがくが透けてみえた餡を彷彿とさせた。そう思い出したら、風情は何処かに飛んでいく。


「……桜餅みたいだよなぁ」


 葉太の言葉が落ちて、あたりは静けさを増した。

 葉太の耳に笑い声が届く。その声は徐々に大きくなっていき、よく響いた。

 葉太は呆気に取られて桜子を見つめる。声を出して笑う桜子を見るのは初めてかもしれない。


「そんなに面白かったか?」

「だって、日和ちゃんと同じことを言うから」


 日和、という言葉に思ったより反応しない自分に安心した。

 二年間、彼女とは会うことはおろか、連絡も取っていない。そのはずなのに、彼女は葉太の記憶に住み着いて立ち去る気配がなかった。それに嫌な気がしない葉太も大概だ。

 苦笑する葉太とは逆に桜子は満面の笑みだ。


「私が悩んでたのって、馬鹿みたい」


 桜子は一呼吸おく。桜子の手が落ちてきた花びらをすくおうとするが、ひらりとかわされた。


「ずっと、日和ちゃんと私の関係を先生に言うか悩んでました。先生に言ったら、困らせるんじゃないかって思ってた」


 桜に話しかけるように吐露した。花びらをつかみ損ねた手はそのまま天を向いていたが、するりと花びらは避けていく。


「でも、知ってたんですね?」

「なんとなく、な。だから距離を置きたかったんだ」


 桜子の試すような問いに葉太は肩をすくめる。桜子のやわらかい雰囲気のおかげか、素直に言えた。


「日和ちゃんはね、私の従姉なんです。おしゃべりで、まっすぐで、先生のこと大好きな自慢のお姉ちゃんです」


 自分のことでは胸を張らないのに、ここまで人のことを自信を持って言える者もいないだろう。


「やっと、連れてこれたんです。ほら、日和ちゃん、仲直りして?」


 桜子の言葉に葉太は度肝を抜かれる。まさか日和を連れてくるとは思っていなかったからだ。

 桜子は社の後ろの方へ顔を向けている。

 日和は社の裏に隠れているのか、姿が見えない。

 桜子は叱るように言う。


「また、日和ちゃんの部屋の前に居座るよ?」

「それは困るっ」


 思わずといった拍子で、日和は姿を現した。

 記憶にはない、背中の中程まで伸びた髪。パステルイエローの袖がふわりと揺れ、白いスキニーが彼女の可憐さを引き立てる。細い腕に光る華奢な腕時計。

 日和は葉太の姿を見て、再び社の裏へ身を隠そうとした。

 無意識に葉太は日和の腕を捕まえる。夢の中よりも距離があるのに、あっさりと手が届いた。葉太のサイズの合わない腕時計が無機質に音をたてる。手に触れる温かさに、後から驚いた。

 日和は捕まれた腕を見て、やっと葉太と視線を合わせる。


「腕時計、まだしてくれてるの?」


 葉太は泣き出しそうな日和の声を聞いて、理性が保てなかった。日和の腕を引いて、自分のそれに閉じ込める。


「先生、また絵を描いてください」


 桜子は葉太の背に笑いかけて、坂道をかけ降りた。



***



 お稲荷さんの桜はとうに散っていた。葉に雨があたる音を聞きながら、葉太は待つ。

 住宅街の一番てっぺんにある公園からは葉太の母校が見下ろせた。住宅街の中腹に位置する校舎と校庭。桜ばかりを見ていてその存在を忘れていた。

 ぼんやりと風景を眺めていた葉太の視界に現れたビニール傘。葉太は手に持つ茶封筒が濡れていないことを確かめた。

 五月雨さみだれの中、桜子は薄桃から新緑に衣替えした桜を見上げながら歩いてくる。桜の下まで来て、傘をたたんだ。一人分の間を空けて、幹に背中を預ける葉太に習う。


「先生がさきに来てるなんて、なんか変ですね」


 『お稲荷さんの桜』の下で桜子は開口一番にそう言った。

 呼び出したのは葉太だったが、後から来れば良かったという気さえなる。


「相変わらずだな」

「そうですね」


 桜子は葉太の言葉に臆しない。傘で地面をいじりながら、単刀直入に訊く。


「で、用件は?」

「……用事が無ければ来ないのか」

「そんなこと、ないですよ?」


 桜子が小首を傾げる。

 葉太は深いため息をついて、一枚の茶封筒を桜子に差し出した。

 桜子は目を見開いて、茶封筒を見つめる。中身は言われなくとも、茶封筒の大きさから想像がついた。


「手間賃ですか?」

「いるなら早く受けとれ」


 おどける桜子に葉太は不機嫌そうに答えた。

 桜子は丁寧に茶封筒を受け取り、大切そうに抱き締める。


「知ってました? 私、先生の絵、好きなんですよ」

「知らん」

「照れてる照れてる」

「大人をからかうのは辞めなさい」


 先生、からかうと面白いんですよ、と桜子は反省しない。

 雨雲の隙間から僅かに太陽が覗く。それは一瞬だった。

 

「ありがとう」

「え?」


 それ以上の言葉は無かった。

 小さな呟きに、桜子は問い返す。

 葉太は目をすがめて、聞こえていただろうと問い詰めた。


「もちろん、聞こえてましたよ」


 春のように笑う桜子が抱えた茶封筒には、一枚の絵が入っていた。淡い水彩で描かれた、傘を持つ少女。桜を背負しょって振り替える口元に八重歯は見えない。どこにでも居そうな平均的な顔。澄んだ瞳は目の前で笑う桜子と一緒のものだ。


「じゃあ、また学校で」

「はい、また学校で」


 桜の下で二つの影が重なることはない。

 穏やかな雨が降る中、二人は別れた。



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