第36話そうして彼は悠然と微笑んだ①
「……お久しぶりね、相談屋さん」
二階建てアパートの上階。外階段を上がってすぐの扉を開けて、鐘盛が俺達を中に招き入れる。
四角い座卓に正座して、茶を振舞ってくれた鐘盛が腰を落ち着けたのを確信してから、俺は抱えていた、紫の風呂敷に包まれたそれを机上に乗せた。
鐘盛は、数秒の躊躇いを振り切って、俺に微笑んだ。
「……これが、あの子なのね」
「……力及ばず、申し訳ありませんでした」
容態が急変し、栃内さんが死にました。そう伝えた電話口で、俺は鐘盛に彼女の遺体が司法解剖に回されることを説明した。
搬送前に会えるのは、栃内の法的な家族だけだと。
鐘盛は、「そう」と呟いた。「そうでしょうね」と。
あの時もきっと、今のような表情をしていたのだろう。諦めと悲しみと、慈愛をない交ぜにしたような、哀しい笑み。
――会わせてあげたかった。
悔しさに拳を握った俺に、鐘盛は「いいのよ」と首を振った。
「肉親でもない私が、こうしてこの子をまた迎え入れることが出来たのだって、あなた達が警察相手に食い下がってくれたからでしょう? 感謝してるわ」
幼子の頬に触れるような眼差しで、鐘盛が風呂敷の結び目を解く。
現れた白い骨袋に、皺の深い掌が重なった。
「……おかえりなさい。こんなに小さくなっちゃって」
悲哀の滲む目尻から、涙がほろりと零れ落ちた。
ほろほろ、ほろほろ。風に吹かれた桜の花弁のごとく、雫は生まれ、落ちていく。
「っ、ごめんなさい」
止まらぬ涙を何度も指先で拭う鐘盛に、「ああ、ほら。こすっては駄目だよ」と充希がティッシュボックスから一枚を引き抜き、その手に握らせた。
鐘盛の背を撫でながら、充希がちらりと俺に視線を寄こす。
(……わかってますよ)
ここで
この願いはきっと、"置いていかれた"彼女をさらに傷つけると――"呪い"を刻んでしまうのだと。
わかっていても、死者の願いを握りつぶせてしまえるほど、俺は優しくない。
「……鐘盛さん」
涙に溺れた彼女の目が、向く。俺は鞄を開いて、取り出したそれを机上に置いた。
途端、鐘盛の双眸が驚きに見開く。
「それは……!」
「栃内さんのスマートフォンです。栃内さん、自分に万が一のことがあったらと、遺言をしたためていたようで……。その中に、このスマートフォンを鐘盛さんに渡してほしいとの記載があったそうです。……ここには、あなたとの日々が収められているからと」
「――っ!」
「それと、もうひとつ」
俺は桜の絵が印刷された小さなメッセージカードを、スマートフォンの隣に置いた。
そこに文字はなく、代わりに中央には――。
「――さくら」
呟いたのは鐘盛だ。
カードの空白に、テープで張り付けられた桜の花弁が一枚。
俺には、俺たちにはわかってしまった。この花弁はあの時……三人で花見をした時に、充希が栃内に渡したものだと。
彼女の見た、最後の桜。
押し花にしたのだろう。あの日より少し
「電話でね、あの子……アタシに謝ったのよ。今年も一緒に桜を見にいこうって言ってたのに、約束守れなくて、ごめんなさいって。だからね、桜なんて何年先でも咲くのだから、いつかまた行ける時に行けばいいわよって……なんならその時に、旅先で見たいろんな桜を教えてちょうだいって……アタシ、そう言ったの」
涙を再び溢れさせて、鐘盛が桜のカードを
「桜なんて、どうだってよかったのよ。こんな……"約束"を守ってくれたって、アナタがいなければ、意味がないでしょうに――」
しゃくりあげる鐘盛の背を、充希が優しく撫でる。
その光景は
俺は告げる気のない真実を胸中で握りつぶし、自身が刻んだ傷を目に焼き付ける。
――願わくは。どうか彼女に、幸あらんことを。
身勝手に祈るのは、紛れもなく俺ひとり。
白に眠る彼女に、もう、声はない。
***
「――邪魔するぞ」
勢いよく開かれた事務所の扉から、我が物顔で"VC"の青年――もとい、私服姿の清が踏み込んでくる。
シンプルなペールブルーのインナーに襟付きのシャツを羽織り、細身のスラックスを合わせた出で立ちは、国に忠誠を誓う猟犬というより、自由を
(まあ、だからこそ、こうして堂々と"ウチ"に出入り出来るわけだけど)
「おや、キミは……!」
すっかり
「先日は実に世話になったね、アルタイルの
「違います。無理です」
歩を止めることなくスパっと言い切った清は、肩を落とした充希を
椅子を引いて腰を落とす。
「コーヒー」
「はいはい……」
カプセルを引き出しから取り出して、来客用のカップをセットした俺は、少し首を伸ばして、
「充希さんも、そろそろおかわりいります?」
「いや、まだ大丈夫だ」
頷いた俺はコーヒーに満たされたカップをソーサーに置いて、清の眼前に置いた。それからああ、と思い出して、戸棚から取り出した包みを二つほどコロコロとソーサーに乗せる。
「んだコレ?」
「チョコ。清、甘いの好きだろ」
「なんだって?」
途端に充希が声を上げ、
「いやはや、驚いた。何を隠そう、僕も甘い菓子が大の好物でね。僕の母がよく言っていたよ。長い時を共にするには舌の相性も重要だと」
つまり、と。両手を広げた充希は瞳を期待に輝かせ、
「キミと僕の相性は、天のお墨付きだ。なに、今からでも遅くはない。僕の"アモーレ"に――」
「無理です」
ぬう、と自身の胸元をおさえて、弛緩した充希がソファーに倒れこむ。
(……やっと静かになったな)
ひと区切りの気配に、俺はカウンター下から親指の爪先ほどのプラスチックケースを取り出した。
指先で滑らせるようにして、清の眼前に置く。
「遺品の受け渡しも問題なく済んだ。この間の報告書も、全部あがってる」
ケースの中に入ってるのは、栃内が死ぬ前日から鐘盛に遺品を受け渡した日までの、"隊員"としての報告書だ。
「……しょーもねー書き方してやがったら、ぶっ飛ばすかんな」
「ちゃんと真面目に書いてるって」
苦笑交じりに肩を
その
「……首なんてやらせやがって。
「あー、あれは自分でやったやつだし、もう治ったよ」
「んなの見ればわかんだよ。つーか本気であんなヤツに切られたってんなら、俺がその首にトドメをさしてやる」
「ええ……」
無茶苦茶な。だが清らしいというか、なんというか。
ともかく、心配させてしまったようだ。
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