第32話バーベナの告白⑤

「……いやあ、本当に惜しい」


 緩く首を振った充希さんが、柔い瞳で私を映す。


「キミのように美しい人が"アモーレ"になってくれたなら、僕はこの先死ぬまで、世界一幸福な男だっただろうに」


 いつものごとく、冗談交じりの笑みを浮かべる充希さん。どうやら彼は許してくれたらしい。悟った私は、「ありがとうございます」と口元に手を寄せて笑う。

 と、充希さんがカーディガンの内ポケットに右手を入れ、黒いケースを取り出した。

 一見、リップバームやハンドクリームが入っていそうなそれの蓋を開けると、指先で小さな球体をひとつ摘まみだす。


「これは僕の血清を基にした錠剤だ。"マリア"と呼んでいる。口に入れるとまず表面の睡眠薬が溶け出し、深い眠りにつく。眠っている間に今度は麻酔薬が舌から喉を通って、全身の痛覚を麻痺させる。これで準備完了だ。最後はお待ちかね、僕の血清が溶け、キミは深い眠りに落ちたまま痛みもなく、死出の旅路へ出立。レシピは極秘。運に選ばれ、"N"として再び目覚める可能性もあるが……ほぼほぼゼロに近い確率だ。なんせ、DNAレベルでの改変をまた行うわけだからね。期待はしないよう、お勧めするよ」


 飴玉より小さなそれが、掌にコロンと落とされる。

 綺麗な赤色、なのだろう。おそらく。月明りと夜の色が重なって、充希さんの瞳に似た、深い紫色に見える。

 不安は、ない。むしろ穏やかだ。


 ――この子が私を、連れて行ってくれる。


 私は愛おしさから、それを胸に抱きしめた。薄く息を吐き出して、両足をベッドに上げる。

 充希さんはベッド横に移動して、毛布を持ち上げてくれた。

 私は上半身を捻って、テレビ台に置いていた封筒を手に取り、充希さんに差し出す。


「これ、私の遺言書です。どのくらい効力があるのかわからないですけど、死後にお願いしたいことが書いてあります。警察の方に渡して頂けますか」


「ああ、確かに受け取った。僕からも便宜べんぎを図ってくれるよう、頼んでおこう。どこまで効力があるか、わからないけどね」


「ふふ、お願いしますね」


 スカートの裾を直してから、上体を倒して枕に頭を乗せる。充希さんが腰から下に、そっと毛布を掛けてくれた。


「何から何までお世話になってしまって、ごめんなさい」


「いいや。最期のアバンチュールを楽しませて貰った礼さ。……もう、いいのかい?」


「はい。お時間頂いて、ありがとうございました。私も、凄く楽しかったです」


 掌から"マリア"を摘まみあげて、目の前にかざす。


「……赤い実を食べて死ぬなんて、なんだか白雪姫みたい」


「だが、その実は王子の到着を待ってはくれないよ」


「優秀なリンゴさんですものね。せめて彼女みたいに、綺麗な姿で死ねるといいのだけど」


 さあ、これで本当に、終わり。

 大丈夫、忘れ事はないと頭の中でチェックリストに印をつけて、私は充希さんを見上げた。


「充希さん」


「なんだい?」


「充希さんは、初めから気付いていたんですね。だから、私にバーベナを」


 窓際から静かに見守る、この唇と同じ色をしたバーベナは、日に日に花を散らし、そろそろ寿命を迎えるだろう。


「充希さんの言ったとおり、あの花は私にピッタリの花でした。だってあの花の……ピンクのバーベナの花言葉は――『家族の和合』」


 充希さんは肯定するように、とろりと瞳を和らげて頷いた。

 不思議な人。でも畏怖いふより、安心感の方が強い。黒を背負って死を届けにくるのは死神だけれど、彼は黒に好かれた、救いの天使。

 充希さんが側にいてくれるのなら、きっと野際さんも、大丈夫。どんなに迷っても、最期は必ず、幸せを掴める。


「本当に、本当にありがとうございました。野際さんにも、『せっかく助けて頂いたのに、ごめんなさい。楽しい時間をありがとうございました。どうかいつまでもお元気で』と伝えてもらますか」


「ああ、伝えよう。必ず」


 充希さんが深く頷いてくれたのを確認して、私は聖母の名が付けられた"毒りんご"を口にした。

 甘い。反射的に感じながら、目を閉じて両手を胸の前で静かに組む。

 ごめんなさい、鐘盛さん。ごめんなさい、野際さん。

 でもお二人のおかげで、私は幸せだったんです。幸せなまま、死ねるんです。

 私にとってこの『死』は、幸せそのものなんです。


(……鐘盛さんも、充希さんも、野際さんも。これから絶対に幸せであれますように)


 思考がまどろんでくる。干したての布団にくるまった時の、誘わるような穏やかな眠気に似ている。

 心地いい。私は導かれるまま力を抜いて、眠気に身を任せた。

 瞼裏に巡る、懐かしい、父と母の姿。

 帰りたくてたまらなかった、あの、"特別"になってしまった、何気ない毎日。


(……父さん、母さん、いま、いく……ね――)


 落ち行く思考が白に包まれる刹那、焦がれ続けた懐かしい声が聞こえた気がした。


***

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