第28話バーベナの告白①

***


 ベッドの淵に腰掛け、窓の外を静かに見上げる。真っ暗な漆黒の空には、少し欠けた月と、細やかな星。


『人は死んだら、星になって見守ってくれている』ってどこかで聞いたことがあるけれど、星の光が地球に届くには途方もない時間がかかるみたいだから、今見えているこの中に、私の会いたい人達はいない。


 証明を落とした、暗がりの部屋でそんな事をぼんやりと考えていると、控えめなノック音が響いた。

 時刻は午前一時二十分。いつもと同じ夜ならば、こんな時間に尋ねてくる人などいない。でもこれは怪異でも、気のせいでもない。


 私はベッドから静かに降りて、扉へと歩を向けた。シャワーを浴びてから再び袖を通したワンピースの裾が、膝に触れては揺れる。

 来訪者の姿を思い浮かべながら、小さな深呼吸をひとつ。扉に手をかけ、いるのかわからない隣部屋の迷惑にならないよう、そっと開いた。


 光源のない、暗がりの廊下に溶けこむ、真っ黒な髪。黒いカーディガンがまた、その存在を闇と調和させている。

 彼はいつもと変わらない様子で、にこりと笑みを浮かべた。


「やあ、待たせたね。素敵な夜にお誘いありがとう」


「こんな時間にお呼びして、ごめんなさい。充希さん」


「キミが必要としてくれるのなら、いつだって飛んでくるさ」


 彼はそう言って、微かな光を孕んだ紫の瞳をとろりと緩めた。


「昼とはまた変わったね。こんなに美しい"夜桜"を独り占めとは、僕はこれからの人生における全ての幸運を使い切ってしまったようだ」


 どうやら時間をかけて丁寧に施したメイクは、充希さんの御眼鏡にかなったみたい。

 良かった。お世辞だったとしても、今の私に充希さんの言葉は心強い。

 礼を告げて、私は彼を招き入れた。警備の人はいつの間にかスーツの人に変わっていたけれど、こちらに背を向け、黙って前を見据えたまま後ろ手に組んで立つだけで、止める気配はない。


 扉を閉めた私は、充希さんにベッド横の椅子に腰掛けるよう勧めて、売店で購入しておいた缶飲料を二つ手に取った。


「お茶とコーヒー、どちらがいいですか?」


「おや、ありがとう。ならばコーヒーを頂けるかな」


 どうぞ、と手渡すと、彼はプルを開けて一口を飲み込む。


「……素敵な夜に素敵な女性と味わうコーヒーは、格別だな」


 充希さんはこんな時でもブレない。それがなんだか、妙に安心する。

 もしもここに座っているのが野際さんだったなら、きっともっと深刻そうな面持ちで、眉間に皺を刻んでいたんだと思う。

 どうしたら私の手を引けるのかって、必死に考えながら。


 それがあの人の優しさで、だからこそ、彼を想うと胸が痛い。その身を投げ出して、"私"の命を繋ぎとめてくれた人。

 ベッドの端に腰掛け、紅茶を飲み込み彼の影を打ち消す。充希さんはそんな私を待つように間を計ってから、「……さて」と切り出した。


「無粋なのは百も承知だが、キミ自身の口から請われる必要があってね。キミは僕に、何を望む?」


 調べのように誘う声も、優しい双眸も、きっと既に私の思惑を見透かしているのだろう。

 それでも私は、話さなければならない。

 私は紅茶をテレビ台に乗せ、「充希さん」と名を呼んだ。彼を見つめてから、頭を下げる。


「充希さんの血を、飲ませてください」


 充希さんは数秒の間を置いてから「……そうか」と呟いた。落ち着いた声だった。


「キミがそう決めたのなら、僕に断る理由はない。だがそうだな……許されるのなら、そう望むに至った経緯を話してくれないか?」


「……長くなりますよ?」


「なあに、夜はまだ始まったばかりだ。それに――きっと巧人は、混乱するだろうから」


 苦笑気味に肩を竦めた充希さんに、私も小さく笑って頷いた。

 想像できる。あの人が全てを知ったとき、深く深く傷つくのも。


「……恨まれちゃいますかね、私」


「とんでもない。悲しむであろうことは明白だが、恨みなどしないさ。僕が保証しよう。ただ……彼は心から、キミが"生きて"他の国に飛ぶものだと信じているからね。出来れば置手紙代わりに、キミの"真実"を彼に残してくれないか」


 急ぐ旅ではないだろう、と重ねる声は柔らく、まるで子供に言い聞かせているかのよう。実際、その通りなのかもしれない。


 その血で"VC"の命を絶つ、"ヴァンパイアキラー"。


 正直、未だに私には、その肩書と彼自身がうまく結びつかない。だけれど、彼は私が想像するよりもずっと沢山の"死"を見てきたのだと思う。

 置いていかれる人と、置いていく人。どちらも知っている彼だからこその、提案。


「……それじゃあ、昔話に、お付き合い頂いてもいいですか?」


「もちろん。あの空が色を変えるまで、ゆっくり楽しもうじゃないか」



 全てが変わってしまったのは、両親が"VC"に噛まれて死んでからだった。

 五年前、何てことないショッピングモールで起きた通り魔事件。たまには少し足を延ばして、と父の運転で出かけ、少し遅い昼食を三人でとった後だった。

 目当ての店舗を目指し、同じような買い物客でにぎわう通路を歩いていた刹那。平和な喧騒を、女の子の悲鳴が引き裂いた。


 反射的に振り返る。が、血相を変えた父が私と母の背を押して「走れ!」と叫んだ。

 あまりに全てが唐突すぎて、走るにも上手く足が動かなくて、それでも父に押されるまま足を動かした。


「お父さん、なに――」


「"吸血"だ!」


 父が叫ぶ。吸血? ……"吸血"!

 やっとのことで理解が追い付いた私は、真っ青な顔で恐怖に足を止めた母の手をとった。


「おかあさん!」


 逃げなきゃ……っ!

 前を向いて強く引く。駆けるために足を出す。瞬間、


「――紗雪!」


 怒鳴り声に近い叫びと共に、前方を捉えていたはずの視界が、父の肩に埋められた。

 悲痛交じりのうめき声。重なるようにして、「……あれ?」と若い男の声がした。


「んだよオッサン、邪魔なんだけど」


 興ざめだと告げる声と、徐々に荒くなる父の息。母の悲鳴。

 最悪の事態がよぎって、私は父を見上げようと身体をよじろうとした。が、父の大きな掌が、私の後頭部を抑え込んだ。

 噛み殺し切れない苦悶くもんを喉奥から漏らしながら、父が私を抱きしめて膝を折る。


「っ、おとうさん……!」


 やっとのことで発した声。が、


「――紗雪っ」


 母が呼ぶ。途端、背にもう一つの重みを感じた。

 悲痛に引きつる声。よく知った母の腕が、がくがくと震えだした父の腕を抑えつける。


「……チッ、今度はババアかよ最悪。もういいや」


 そんな声がして、一人の気配が去った。


「っ、おとうさん! おかあさん!」


 なにが、どうして、助けなきゃ。

 混乱に叫びながら父の腕から抜けだそうとするも、力は緩まず、なかなか抜け出せない。

 父の腕はもはや狂ったように上下していて、上部からは言葉にならない呻き声が降ってくる。


「さゆっ、さゆき」


 母だ。私は必死に首をひねって、母の姿を捉えようとした。が、


「――にげて」


 瞬間、私を覆っていた温もりが、弾き飛んだ。

 視界に飛び込んできたのは、血の流れる首を掻きむしり、のたうち回る父の姿。焦点の合わない瞳。限界まで開かれた口から飛びる血や体液が、白い床に狂乱の跡を刻んでく。

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