第26話最後の逢瀬

 栃内に鐘盛との対面を提案すべきか、それともこのまま黙って見送るべきか。

 思考から切り捨てるには踏ん切りつかないまま、俺はその後も充希と共に栃内の病室へ通っては、事務所に戻る日々を続けていた。


 彼女は驚くほど穏やかだった。退院の日が近づくにつれ、緊張や不安を高めていくのではと推測してのだが……取り越し苦労だったらしい。


「いよいよ明日、退院ですね。二週間、本当にお疲れ様でした」


「やっと自由になれるな。僕としては、寂しくもあるが」


 栃内が白い病院着以外の服を身にまとっているのは、この院に入ってから今日が初めてだ。

 "吸血"された時とも違う、淡い桜色のワンピースを着た栃内が「ありがとうございます」と笑む。


 訊けば院内にあるショップで購入したらしい。窓際に咲く、もう間もなく枯れてしまうであろうバーベナによく似た色のリップも、初めてみる。

 確かにこのまま出立するというのだから、必要なモノもあるだろう。退院後に向けた準備も、着々と進んでいるようだ。

 それに。


(……首、完全に治ったのか)


 栃内の首筋にいつものガーゼはなく、心配していた跡なども見当たらない。

 よかった。これなら彼女も、安心して外に出られるだろう。

 俺は心からの安堵を祝福の笑みに乗せ、


「許可をもらったので、退院祝いのケーキを持ってきました。一日早いですけど、明日はゆっくりお祝いできるような時間はないと思うので」


「わあ、嬉しいです!」


 充希に小箱を任せ、蓋を開いて栃内にケーキを選ばせる。好みがわからないからと、カットケーキを数種類買ってきたのだ。

 二人が声を弾ませながら選んでいる間に、窓際に置かれていた小型の長机と丸椅子を移動する。それから百円ショップで購入してきた紙皿と使い捨てフォークをそれぞれ三つずつ並べて、透明な使い捨てコップをその傍らへ。


「選べました?」


「えと、じゃあ、このイチゴとベリーのタルトを頂いてもいいですか?」


「これですね。えーと……ちょっと待ってください」


 残ったフォークを二つ使い、慎重に紙皿へと移動する。続いて充希がガトーショコラと決めたので、俺はモンブランを選んだ。

 充希が栃内に着席を促す。それから俺の隣で、長方形の小箱の蓋を開けた。


「僕からはシャンパンを贈ろう。お堅い警察もにっこりの、安心安全ノンアルコール。まあつまりは気分だけだが、パーティーにはシャンパンがつきものだろう?」


「わあ、私アルコール苦手なので、助かります」


「おや、なら僕は思いがけず素晴らしい選択をしたな。主役が楽しんでこそのパーティーだからね」


 言いながら手で栓を開けた充希が、栃内のコップにシャンパンを注ぐ。

 しゅわしゅわと音を立て、桜色よりも少し濃い、ラズベリーよりは柔らかな桃色の液体が気泡を躍らせた。


「わあ、綺麗な色…………」


「だろう? 今日のキミの唇と同じ色だ。美しい」


「ふふっ、初めて挑戦した色なんです。この服も、いつもは選ばない色だったんですど、ちょっと思い切って。変じゃないですか?」


「まさか! もちろん、キミの好みは一番に尊重されるべきだが、じつによく似合っているよ。なあ、巧人?」


「はい。いつもより元気そうに見えますし……すみません、充希さんみたいに女性を誉めるのに適した言葉をあまり知らないくて。でも本当に、素敵です」


「だろう? 僕らが言うのだから、間違いないさ」


 充希がパチリとウインクを飛ばすと、栃内はくすぐったそうに「よかった。お二人にそう言ってもらえて、安心しました」と笑う。

 なんというか、やっぱり今日はいつもより明るい。いい傾向だ。これならきっと、明日も大丈夫だろう。

 微かな安堵を胸に着席した俺は、充希が注いだシャンパンジュース入りのコップを掲げる。


「では、栃内さんの退院祝いと旅の成功を祈って。以前お約束したカツ丼の件は、この近くで寄れる店を探しておきますね」


 同じくコップを軽く掲げた栃内が、ふと表情を変えた。口角を上げ微笑むのに、その目はまるで、泣き出しそうな。


「はい……。お二人とも、本当に……本当に、ありがとうございました」


 窓際のバーベナと、揺れるシャンパンに、彼女の唇。

 やけに鮮やかな薄紅色が、妙にあとを引いて鼓膜に焼き付いた。



 自室の扉が音を立てたのは、風呂も済ませ寝る前にと明日の段取りを考えている時だった。

 叩く人物は一人だけだ。案の定、「はい」と返事をすると、「すまない、今いいだろうか」と充希の声がした。


「コーヒーですか?」


 すっかり染みついてしまった習慣を問いかけながら立ち上がり、扉を開く。

 途端、虚を突かれ静止した。

 そこにいたのは確かに充希なのだが、つい先程まで着ていた黒地の寝間着ではない。濃紺のスラックスを履き、柔らかな黒いカットソーに同色のカーディガンを羽織っている。


「……外出ですか?」


 部屋の時計を振り返ると、既に二十三時を過ぎている。

 コンビニ……にしては、めかしこんでいるような。


「ちょっと待っててください。俺もいま着替えを――」


「これはあくまで相談なんだが」


 部屋に戻ろうとした俺を、充希が呼び止める。


のお誘いを受けてね。帰りはきっと遅くなるだろう。だが明日は忙しくなるというのに、これから巧人を連れ出すのも忍びない。そこでだ、キミのボスにお伺いを立ててみるのはどうだろう? 警察お抱えのタクシーに乗れば、巧人の護衛も監視も不要になる」


(つまり、"逢引"に出たいけれど、俺がついてくるのは嫌だってことか)


「……お相手のことは詮索しませんが、もしもその方が充希さんを狙っていたら」


「なあに、彼女は至って善良な一般人さ。間違いない。僕についた二つ名に賭けて、心配ないと誓おう」


 ……これでは相談ではなく、強迫だな。


 どうやら充希は、どうしても俺の目を剥がしたいらしい。まあ、深夜の"逢瀬"だし、意図はわかる。

 悟った俺は「……わかりました」と頭を掻いて、"VIP"の要望通り八釼へと電話をかけた。

 単独行動が許可されるとは思えないが……まあ、充希は"お伺いを立てた"という事実があれば納得するだろうし、判断は上に任せよう。


 充希はドア枠に肩を預け、腕を組みながら大人しく見守っている。

 耳元で響いた二度目の呼び出し音の途中で、八釼が出た。経緯を説明すると、予想通り、沈黙が耳に届く。


(……まあ、だろうな)


 最優先されるべきは、"VIP"の安全と存命。

 "寝ずの番"なら、言葉通り朝飯前だ。


「すみません、八釼さん」


 俺は用意していた言葉で、終いだと漂わせる。


「明日は退院の付き添いと出立の見送りだけなので、俺は夜通しでも支障は――」


『いや、ちょっと待ってくれ』


 深く明瞭な声で、八釼が遮る。

 向こう側で微かに、カチカチとキーボードを叩くような音がした。


(何をチェックしてるんだ?)


 八釼の邪魔にならないよう、息を殺して次の指示を待つ。

 と、数十秒後に『……待たせた』と声がした。


『こちらから夜勤の者を飛行警備車両で向かわせる。三十分後に、屋上で待機していてくれ』


「っ、いいんですか? 充希さんはああ言ってますけど、密会相手が本当に無害なのか――」


『麻野』


「!」


 名を呼ぶ重い声に、思わず息を詰める。


『……お前には、こくな役目を背負わせてしまって、本当にすまない』


「っ、だから、これは俺が決めた事だって」


『ほんの数時間だが、ゆっくり休んでくれ。彼への伝達と、屋上への誘導を頼んだぞ』


 通話が切れる。八釼のことだ、俺の反論を見込んでワザと強制的に切り上げたのだろう。

 上司からの"命令"は、即ち国の意志。いくら納得出来なかろうが、ただの"駒"である俺は従うほか道はない。


「……ウチから飛行警備車両を出すそうです。三十分後に、屋上に向かいます」


「そうか、それは助かる。アレは何処へ行くにも早いからな、彼女を待たせずにすみそうだ。巧人の護衛はどうなった?」


「……俺は家で待機です」


「そう不満がらないでくれ。巧人は働き過ぎなくらいだ。当然の判断だろう。夜明けに備えて眠るといい。では、迎えの馬車がくるまで、暫く時間を潰すとするか」


 ご機嫌な背中が、リビングへと消えていく。

 本当に大丈夫なんだろうか。八釼のことは信用している。だがどことなく、彼にしては少々不用意な判断に思える。


(まさか、俺への罪悪感が、あの人の警戒心を曇らせた?)


 いや、確かに八釼は人情味のある上司だが、だからといって感情を優先させるなんて愚かな指揮は――。


(……最後の謝罪といい、わっかんねーよ、八釼さん)


 大きく息を吐いて、頭を抱えうずくまる。

 約束の時間。迎えに来た飛行警備車両で飛び立った充希を見送った後も、俺はずっと抱いた疑念を晴らせずにいた。


「栃内が死亡した」と連絡が入ったのは、まだ陽の見えない明け方だった。

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