第16話バーベナの決意③
「……それで昨日、昼も夜も断ってたんですね」
病院を出てからの道中、納得いったと呟く俺を「うん?」と充希が見上げてくる。
「カツ丼ですよ。あんなに食べたそうにしていたのに、"今日はいい"なんて言うから変だなとは思ってたんです」
「ああ、そのことか」
「言ってくれれば良かったじゃないですか」
「いやあ、すまん」まったく悪びれずに充希が笑む。
「いや、いつにしようかと悩んでいたのは本当だよ。僕にとって、特別に楽しみにしていた料理だからね。"願掛け"の為に断とうと決めたのは、つい先程さ。彼女を誘うこともできたし、我ながらいい提案だったな」
正直、怪しい。確かに充希はどこか抜けている所があるが、基本的に思慮深い。本当に、つい先ほど思いついた案なのか。
だがまあ、彼がこれを"真実"だと語るのなら、これ以上の追求をしようがない。それに正直、どちらでも良いことだ。
だから俺は「……そうですか」と嘆息一つで了承した。そして本題に入る。
「……充希さんは、どう思いますか?」
「どう、とは?」
「栃内さんです。なにか、変わったこととか」
「そうだな。今日は髪を結っていたな。そして表情も随分と明るくなった。キュートだな」
「いえ、そうでしたけど、そういうのじゃなくて……」
平日の駅周辺は人も疎らだ。そしていちいち他人の会話を盗み聞きするほど、暇な人もいない。
俺は双眸だけで周囲をさっと確認してから、戸惑いを口にした。
「……洗面台の鏡に、目隠しがあったんです」
「……それが何か?」
「昨日は、ありませんでした。病院側が自主的にそのような提案をする可能性は極めて低い。おそらく、栃内さんが依頼したのだと思います。……どうしてだと思いますか?」
「鏡に目隠し、ねえ。巧人はどうみる?」
「部屋付きのシャワーを利用した場合、着替えはあの辺りのスペースで行う必要があります。その際、自身の身体が映るのを気にしたのかなと」
「奥ゆかしい女性ならば、確かに抵抗があるだろうな。ましてや自分は警察に"管理"されている。マジックミラーの可能性を疑っても不思議ではない」
(……やっぱり、特別な意味などないのか?)
充希も賛同するのなら、やはり俺の考えすぎなのだろう。上から特に探れとの指示もない。
"VC"となった自身の姿を見たくないから、という線も考えたが、栃内は俺達に「私は私」と宣言している。あれは自身の変化を、受け入れた目だった。
だが、どうにもその言葉に、微かな引っかかりを感じているのも事実だ。
「そんなに気になるのなら、本人に聞いてみたらいいじゃないか。両親の話もした。昨日の"密談"によると、自身の衝撃的な過去を話してくれたというのは、十二分に心を開いてくれた証になるのだろう? 目隠しの有無なんて、取るに足らない質問じゃないか」
「そう、ですけど……」
人の疎らな電車の車内。端の座席に並んで腰かけ、暫く考えてから俺は「いや」と額に手を遣った。
「やっぱりやめておきます。今日気づいた時点でそれとなく尋ねるならまだしも、日を改めて"そう言えば"と切り出すにはあまりに些細すぎて、逆に不審がられる可能性がありますし。……はあ、俺のミスですね」
せめて鏡を使う用事があれば自然と尋ねられたのだろうが、たかが花瓶の水を交換するだけの男が突然「鏡に目隠ししてるんですか?」なんて訊いたら、疑問に思うだろう。
なんならちょっと、怖いくらいだ。
「せっかくいい感じに友好関係を深めているのに、下手な博打はうてません」
電車が止まる。
降りる人と乗る人の喧騒を背景に、充希は「巧人は慎重だな」と肩を竦めた。
「その慎重さは巧人の美徳でもあるし、弱みでもある。実に人間的で愛らしい」
「……遠回しに馬鹿にしてます?」
「とんでもない。羨ましいって意味さ」
「……俺は充希さんの大胆さが、少しだけ羨ましいですよ」
呟くように白状した俺に、充希は驚いたように目を丸めてから、
「そうか。ますます僕と巧人は、出逢うべくして出逢った"運命"のようだな」
極上の笑みを向けてくる充希に、俺は「勘弁してください」と自身の失態を呪った。
***
日中は主に移動と面会、その後は少し相談所に滞在して帰る。
翌日も同じルーティンを繰り返し、四日目の訪問を迎えた俺達は、病院の中庭を三人で歩いていた。
「今日は少し、外を散歩してみませんか? 中庭程度だったら出てもいいと、警察の方に伺ったので……」
誘ったのは俺で、栃内は驚いたような顔をしつつも、すぐに「いいですね」と頷いた。
もちろん、事前に八釼の許可は得ている。清も事前に知らされていたのだろう。部屋から出ていく俺達を、黙って見送っていた。
「寒くないですか?」
暦上はすっかり春とされる四月を過ぎたというのに、まだ日によっては上着が手放せない。
長袖の入院着にカーディガンを羽織り、薄手のストールを肩にかけた栃内を気遣うと、彼女は「平気です」と首を振った。
その首筋にはまだ、白いガーゼ。傷はとっくに治っているだろう。もしかしたら、傷とは違う跡が残ってしまったのかもしれない。
そんな俺の心配など気づかずに、栃内は日向ぼっこを楽しむ猫のように双眸を細めて桜を見上げた。
「日差しが温かくて、気持ちいいです。……なんだか久しぶりに、血が通った気がします」
栃内が視線を下げる。見つめているのは、自身の指先。と、白い掌に、桜の花びらがひらりと舞い乗った。
「桜、ちょうど綺麗な時に見れて良かったです」
「僕もだ。日本の桜は初めて見るが、特別な人と共有できるとは、実についている。なんとも美しいな」
「本当に。これでちょっとしたお菓子でもあれば、もっと楽しめたんでしょうけど」
「ああ、それは知っているぞ。たしか、『花より団子』というやつだろう? 僕から言わせて貰えば、花もスイーツも両方楽しめるのだから、『花も団子も』でいいと思うのだがね」
「ふふっ、そうですよね。どっちか一方じゃなくて、両方あったほうがより楽しいですもんね」
……これは、売店で何か袋菓子でも買ってきたほうがいいのだろうが。
いやだが、敷地内とはいえこんなフリースペースで、充希から目を離すなんて出来ない。
(なんといっても、あの手紙の件があるしなあ)
店先の防犯カメラに記録されていたのは、白いパーカーのフードを深く被った、やせ型の人物だった。
投函時、微かに映った骨格からして、おそらく男。事前にカメラを破壊するでも隠すでもなく、むしろ気付いてさえいないような素振りからして、おそらく知能犯ではない。
証拠に、手紙の用紙は綺麗なものだったが、封筒からは数人の指紋が検出された。投函時も、薄いビニール手袋でもしていなければ、素手のように見て取れるとのことだったし……。
隠れたいのか、知って欲しいのか、ちぐはぐだ。
だがこの矛盾はそれだけ、犯人の感情が暴走しているということを示す。
指紋照合の結果、犯罪歴はなし。初犯ならば尚更、根強い感情が渦巻いているに違いない。
詳しい検査結果が出るまでには、まだ数日かかる。
犯人がそれまで大人しくしているという保証もないのだから、俺はやっぱり、充希の側を離れるわけにはいかない。
「明日も天気がいいとの予報でしたし、差し入れを持ってくるので、あそこのベンチでお茶でもしませんか? そろそろ、警察の方も了承してくれるでしょうし。栃内さん、食べたいお菓子とかありますか?」
「……そのことなんですが」
栃内が、不意に表情を曇らせた。
「とても残念なお話なのですが、明日は一日がかりの検査を行うので、面会は難しいと言われてしまって……」
「おや、そうなのかい?」
踊る花弁を追いかけていた手を止めて、充希が疑問の目を向けてくる。
「日本では、"VC"化から一週間を節目として、精密検査を行っています。もう、そんなに経ったんですね」
「ええ、本当に……早いものですね」
呟きながら、栃内が桜を見上げる。
「この桜は、いつまで生き続けるんでしょうね」
「どうだろうか。百よりももっと長いかもしれないし、あっさり明日にはその命を終えてしまうかもしれない」
「さすがに明日ってことは……」
指摘した俺に、充希は「そんなことはないさ」とおどけたように肩を竦めて、
「例えばそうだな、雷にでも好かれてしまえば、この木は明日にでも命を終えるだろう。僕らだって同じさ。いつどこで、不慮の事故に巻き込まれるともわからない。誰もが等しく、定量的に数字を重ねていけるだなんて、雲を掴めると信じている子供のような虚構だよ」
ただ、一つだけ。充希はそう言って、桜を見上げた。
「僕らは静に縛られた彼らと違って、己で決断し、実行するだけの機能を持つ。それはとても幸せなことで、とても残酷なことだ」
柔らかな風が枝を揺らして、薄色の花弁を吹き上げた。
今まさに生を終えた命が、暖かな陽射しを喜ぶように舞って、地に落ちていく。
その姿に重なるのは、俺に「生きてね」と遺し空に跳んだ、姉さんを彩る写真たち。
アスファルトに打ち付けられた姉さんは、自身から流れた血液と、その手で収めた愛おしき日々の記録に飾られて、白を手放した。
「……栃内さん」
言いようのない喪失感にかられた俺は、目の前の存在を繋ぎとめるようにして、彼女の名前を呼んだ。
「明後日に、必ず来ます。今度は団子でも手にしながら、お花見をしましょう」
誘いかけるというより、宣言に近い。
告げた俺に、栃内はどこか嬉しそうに、微笑んで頷いた。
「明後日、晴れるといいですね」
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