第3話望まぬ会遇③
だがまだ。まだ、だ。ギリギリ、ギリギリまで――。
神経を研ぎ澄まし、彼の挙動、纏う空気の僅かな変化も逃さず睨む。
急く本能を押し留め、彼の唇が触れる直前まで待って、待って――。
――っ、今!
止血の手を、ベルトの内側に隠した小型銃へと滑らせようとした刹那。
「ご機嫌よう、お二人さん。見たまえ。この美しい大空を! まるで空がエーゲ海を抱きしめて連れ去ってきたようじゃないか」
「…………は?」
重なった声はふたつ。
今まさに命の駆け引きをしていた俺達は、揃って間抜け面で声の主を捉えた。
野次馬の一人もいなくなった路上で、両手を広げ大空を仰ぐ細身の男がひとり。旅行者なのか、傍らには腰丈よりも大きな革製のキャリーケースが佇んでいる。
ゆったりとした無地のカットソーに、くたびれたジーンズ。羽織った薄手のロングカーディガンが、下ろされた彼の腕に合わせて波を描いた。
視線に気づいた彼が、顔を戻して、にこりと笑む。
若い。十代後半……か、いって二十を少し超えた程度だろう。
日本人のそれとも異なる漆黒の髪は柔らかな癖があり、瞳はこれまで出会ったことのない、宝石のような透ける紫色をしている。
なんというか、中性的で美しい面持ちをしている。身なりを少し変えれば、少女でも通ってしまいそうな。
彼は面食らっている俺達などお構いなしに、ガラガラとキャリーのタイヤを鳴らして近寄ってきた。
「なにやらお取込み中のところ邪魔してしまって、すまないね。キミを見たらつい居ても立ってもいられず……。そう、キミだよキミ。"VC"の青年。いやなに、すぐにすむ」
彼は俺達まであと数メートルという所で歩を止め、
「僕の"アモーレ"になる気はないかい?」
「……………………は?」
たっぷりと間を置いて、再び重なった声。
いやだって、仕方ないだろう。俺の足下には血を流し、意識のないまま倒れる女性。おまけに未だ牙を剥き出しにした"VC"を前にして、こともあろうか、"アモーレ"になれ?
呆気の表情で硬直している俺達をどう捉えたのか、彼は「おや?」と不思議そうに小首を傾げ、
「ああ、そうか。"アモーレ"というのはイタリア語で"愛する人"という意味でね。なあに、今時性別の壁など取るに足らない話だろう。その長い命が尽きるその時まで共にあると約束してくれるなら、望むモノを望むだけ、欲するままに与える生活を保障しよう。金は腐る程あるんでね。どうだい? 悪い話じゃないだろう?」
「…………なあ、コイツ頭イっちゃってんじゃないの?」
無遠慮に指さしながら、須崎が俺に同意を求めてくる。
「……ええと、キミ。ここは危ないから、直ぐに離れて――」
「おっと、キミ。空気を読みたまえ。人の"プロポーズ"を邪魔するのは野暮ってものだろう?」
「いや、だからその、状況を…………」
「そうだ! すまないが、一つだけ条件があってね。それが――」
「…………うっさいなあ」
「!」
まずい、と過ったのと、視界に影が落ちたのは同時。
しなやかな首筋に埋まった牙。ジワリと滲んだ血液が、球をつくって零れ落ち、歪な線を描いた。
ごくりと響いた嚥下音。
白の青年が"獲物"を放すと、黒の青年が崩れ落ちて膝をつく。
"吸血痕"を確認するように伸ばされた掌から、鮮血が溢れ、アスファルトを染めた。
(――しまった)
「キミ! 立てるか!? 止血をするから早くこっちに……っ!」
叫ぶ俺への退路を断つように、須崎が遮り立つ。
「あーあ、興ざめだよ。せーっかく楽しいゲームの最中だったのにさ。あのねえ、ボク。別に人の性癖に口出しする気ないけど、自分で言ったようにせめて空気は読まなきゃ。自分勝手が過ぎると、痛いめ見るよ? 今みたいにさ。ね、だから次からは気を付けてね。おにーさんと約束。……まあ、次があればだけど」
キミはどっちかな。そう言って赤い瞳が愉悦に細む。
(っ、俺のせいだ)
危険人物だと、分かっていたのに、新たな犠牲者を出してしまった。
彼の命を奪ったのは、俺も同然だ。
(っ、皆はまだか。早く、早く来てくれ…………っ!)
自責の念に奥歯を噛み締め、そして叫ぶ。
「キミっ! こっちへ! 止血を!」
今、出来ることをしなくては。
そして願わくば、彼の命だけはどうか――。
「…………あーあ、噛んでしまったね」
俯いていた彼が、零すように呟いた。
顔を上げる。酷く悲しそうな面持ちで、緩く首を振った。
「今度こそ、運命の相手と出逢えたかと思ったんだがね。仕方ない」
「……あれ? なんでお前、そんな平然と――」
(そうだ。ウイルス感染者は数秒後には、身体の"変異"に苦しむ筈で――)
動揺を見せ、眉根を寄せた須崎と俺の眼前。
"犠牲者"の彼は静かに立ち上がり、おどけた様子で肩を竦めた。
「どうやらキミではなかったようだ。話せて楽しかったよ、青年。そして、幸運を」
「な、どういう意味……! ガッ!?」
途端、体液を吐き出して、須崎が地に倒れた。
見えない縄を解こうとするかのごとく、喉を掻きむしる。限界まで開かれた
「どうした!? おい! 蓮くん!」
なんだ。一体、何が起こっているんだ。
ただただ苦痛から逃れようと、のたうち回り全身を跳ねさせる須崎。その姿を憐みの表情で見守る、黒の青年。
「蓮くん! れんくん!!」
刹那、須崎が静止した。
空を見つめる、瞳孔が開ききった双眸。半開きの口からは、血液と混じり合った体液が泡をつくって滴る。
――駄目だ。
経験が、彼の命の消失を瞬時に悟らせた。
衝撃に理解が追い付かず、瞬きも忘れた俺の眼前。
「……どうやら幸運の女神は、キミを嫌ってしまったらしい。どうか安らかに」
胸の前で十字を切った青年が、俺へと視線を向けた。
「わからない、って顔だね」
「!」
「まあ、仕方ないさ。なんせ僕がこの国に来たのは初めてだからね。驚くのも無理はない」
言いながら、彼はトランクを開けて小さな小瓶を取り出した。
彼が開いた掌の上で傾けると、真っ赤な錠剤が数粒転がり出る。
見たことのある形状。そうだ。いや、だが、何故彼が。
「っ、それは」
まるで、"VC"に配布される"血性サプリメント"みたいじゃないか――。
俺の意図を汲み取ったように彼は笑顔で首肯して、一粒を指先で摘まんでみせた。
「ご名答。だがこれはただの"血性サプリメント"ではない。僕の血で作った、特別製でね。先程は止血の心配をありがとう。だがこの程度なら……ひとつで充分だな」
掌を口に当て、青年が空を仰ぐ。だが登場時のように鑑賞する間もなく、すぐに俺を捉えた。
迷いのない口元が、ガリガリと音を立てる。
ごくり、と飲み込んだ彼は、「……ほら、見たまえ」と自身の"吸血痕"を指さした。
それはまるで、誰もが望んだ魔法のように。
「…………そんな」
跡形もなく消え去った、二つの穴。
絶句する俺を実に楽し気に見遣りながら、青年は歌うような調子で華麗にお辞儀をしてみせた。
「僕の名前は
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