最高の夏

土屋シン

最高の夏

 中学時代、山咲球悟やまさき きゅうごの名はY県の球児全てを怯えさせた。最速132キロのストレートと打者の手元で曲がるスライダーはどのチームにとっても脅威であった。また、彼の速球がミットを鳴らす音は常に味方を鼓舞し、安心させた。端的に言って彼は


        ◯     


「山咲! ちんたらやったんじゃねぇぞ! やる気あんのか!」

 木南コーチの怒号が鉛色の空高くまで響いた。

「すみません! もう一本お願いします!」 

 球悟がライトから大きな声を上げる。コーチは苦虫を噛み潰したような表情でボールをカゴから取り出すと綺麗な放物線を描くように打ち上げた。球悟は打球音に反応し落下地点を予測して走り出すもボールはグラブを伸ばした一歩先の地面にバウンドして転がっていった。

 コーチの雷が再び落ちる。

「いつも言ってんだろ! 動き出しが遅いんだよ! 集中しろや!

 次、矢中!」

 名前を呼ばれた矢中は球悟の一学年後輩にあたる。体格は部内でも指折りだが、スムーズな足運びでそれを感じさせるプレイが少ないのが特徴的だ。

その矢中の返事を合図にくぐもった金属音が響いた。直径73ミリメートルの白球が曇天に弧を描く。大柄な後輩は先程とほぼ同じ場所に飛んだ打球を難なくキャッチした。


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 県大会優勝の実績を元に球悟はスポーツ推薦で地元から遠く離れた高校へ入学した。そこで待っていたのはありふれた現実だった。あれほど打者を恐れさせた速球も同じくらい投げられる選手が同級生だけで3人いた。変化球にいたっては他の投手候補と比べるとお粗末ともいえる出来に見えた。球悟が投手を諦めるのに時間は掛からなかった。

 外野手に転向してからの彼の努力は凄まじいものだった。毎朝誰よりも早くグラウンドに立ち、限界まで自身を追い込んだ。投手としての挫折をバネにすればどんなに辛い練習だって続けられた。こうした努力によって球悟が着実に力をつけたころ矢中が入部してきた。彼は初めの1、2ヶ月こそ球悟に及ばなかったが夏が終わる頃には実力が逆転していた。

 矢中に対して球悟は鼻を折られた気分であった。彼が来るまで球悟は自分の才能に関して疑ったことがなかった。そのため「努力をすれば必ず叶う」、「沢山練習さえすればレギュラーをつかめる」と本気で考えていた。矢中と出会ったことで初めて彼は自分の才能の無さに気がついた。しかし、その事で球悟にはむしろ火がついた。

 彼は闇雲に努力することをやめた。コーチとよく相談し勉強することでより良く、より正しく努力をしようと心がけるようになった。結果はすぐに現れ、球悟はメキメキと実力を伸ばしていった。ただ、矢中はそれ以上の速度で伸びていった。


 球悟の通う高校では野球部員は原則寮での暮らしをすることとなっている。ある休日、球悟は矢中の部屋を訪れることとなった。後輩の部屋にあったのは堆く積まれたノートたち。それらには日々の練習メニューや反省点などが事細かに記されていた。あまりに詳細に記されているものだからノート一冊で1週間も持たないものもあった。そして、机の前には「2030年までにメジャーリーガーになる‼︎」と大きく書いた紙が張り出されていた。球悟は自身の中で何かが崩れる音を確かに聞いた。


 年が明ける頃には球悟と矢中の差は確定的なものとなっていた。球悟が未だベンチ入りの当落線上にある中、矢中はレギュラーを掴みかけていた。球悟にはもうかつての闘争心はなかった。日々の練習は一生懸命こなし、十分な努力も続けていた。だが、決定的な火は消えてしまった。

 そんな風に漫然と過ごすうちに感染症が世界的に流行する様になった。チームの目標であった春の大会は中止となり、しばらくすると、部活動自体も中止となった。同時に学校も休みとなったため、一部の選手は地元に帰って行った。練習場は閉鎖されなかったので球悟はできる範囲で練習を続けた。まだ、夏の大会が開催されないとは決まっていない。残されたベンチ入りの可能性を諦めるほど球悟もニヒルな性格ではなかった。

 それから1ヶ月もするとアジアでの流行のピークが過ぎたとの報道が流れ出した。学校も再開し、噂では無観客で夏の大会を行うとの事だった。この頃からチーム練習は一部再開した。ただし、レギュラーメンバーとベンチ入り候補までの極少数での練習となった。球悟はなんとかそのメンバーの中に入ることができた。燃え尽きていた心の炉がほんのりと暖かくなるのを感じていた。ただ、そんな日は長く続くことはなかった。隣町で感染者が複数確認されたのだ。幸い校内に接触者はいなかったが練習は中断された。予選3週間前、新たな感染者が出なかったため練習は再開されることとなった。ただし、今度はベンチ入りメンバーのみとメールで発表があった。そこに山咲球悟の名前はなかった。球悟の夏は終わったのである。グラウンドで涙を流すことさえ出来なかった。怒りや悲しみ、悔しささえ無しに、ただ無感情に野球人生が終わってしまった。球悟はただどっと疲れて寝てしまった。


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 3限目開始のチャイムが鳴っても教師が来なかったため、球悟はスマホ片手に最近よく見る胸の大きな女優を話題に談笑していた。先日のバラエティ番組で着ていた衣装が良かったと聞いて検索サイトを開くと赤地の白抜きで書かれた速報の見出しが目に入る。続く文字は「2020年夏大会の中止、正式決定」。ガラガラと音がして教室に馬面の教師が息を切らして入ってきた。足には包帯をしていて、肉離れだとか言っていた。球悟は誰にも聞こえないように「ざまぁみろ」と呟くとスマホを鞄に突っ込んだ。


 その日の昼休み、球悟は教室移動の途中でトイレに立ち寄った。小便器を前にチャックを下ろしたところで矢中が入ってきた。彼は一瞬ばつの悪そうな顔をした後、それをかき消すかのように大きな声で挨拶をしてきた。

矢中は「先輩、隣よろしいですか?」と聞くと返事も待たずに用を足し始めた。

「おいおい、まだ先輩が良いって言ってないぞ」

 球悟が冗談めかす。

「すみません。漏れそうだったもので」

 後輩はどうやら本当に緊急事態だったようだ。

 こんな時に限って小便が長い。微妙な沈黙を破り話し出したのは矢中だった。

「先輩。夏、残念でしたね」

 球悟はギョッとした。

「残念だったのは、お前の方だろ。同じポジションで争ってきて片やレギュラー、片やベンチ外だぜ」

「それでも、先輩たちにとっては今年が最後の夏で……俺、先輩の分まで背負って頑張るつもりだったんですよ」

 球悟は、いらっとして半ば無理矢理小便を打ち切ってチャックをあげた。

「俺だって昔は天才だったんだぜ。後輩に背負って貰う必要なんかねぇよ。自分のために頑張れ」

 球悟はそう言うとさっと手を洗いトイレから出ていく。

「先輩はもう野球しないんですか」

 矢中がチャックを上げながらした質問に答えは返らなかった。


 結局のところ球悟は才能も努力も運でさえ矢中に叶わなかった。中学時代、チームを安心させたあの大きな背中はどこにもない。周りから羨望の眼差しを受けた天才はもうどこにもいない。高校生活を通じて、才能もプライドもぼろぼろに砕かれてしまい、挙げ句の果てに天さえ味方しなかった。そうして残ったのは丸裸にされてうずくまる、ただの少年だった。

 もし、野球をしていなかったなら。もし、ピッチャーを続けていたなら。もし、あと一年遅く生まれていたなら。もし、何事もなく平和な世の中だったなら。あらゆる後悔は重油の様にへばりつき彼を溺れさせる。

 少年は青春の後悔という毒物に触れてしまった。弱毒ながら確実に魂を蝕む依存性の高い毒物だ。特効薬はない。

 いくら季節が巡っても同じ夏は二度と来ない。


        ◯


 2030年。矢中はプロ野球選手を引退した。あの翌年、キャプテンとして夏の大会をベスト16まで牽引するもプロからの誘いはなかった。その後の大学リーグでは優秀な成績をおさめ、なんとか育成契約を勝ち取った。しかし、その後は支配下登録されるも怪我の影響で期待された活躍は出来ず、一軍での出場もわずか数試合に留まった。

 一方の球悟は大学卒業後、体育教師となっていた。もともと体を動かすことは好きであったし、人に教えることも楽しかった。

 球悟はそこで野球部の顧問となった。前任者が既に高齢だったこともあったが何よりも高校時代の実績を高く評価されたからだ。勤務先の高校は公立であったこともあり、選手権への出場は春夏通じて無かったが昔はそれなりに強かったらしい。

 球悟は初めて練習に参加したとき教え子たちを全国大会まで連れていくことはできないと確信した。部員の中に才能を感じさせるものが一人もいなかったからだ。だが、球悟が部活動の指導において、手を抜くことはなかった。「精一杯努力した先には必ず何かがある」と「望んだ成果ではなくとも努力自体が無駄になることは無い」と、そう思いたかったからだ。最早これは祈りや願いの類である。無邪気な生徒たちに無事、終わりを迎えさせることが球悟の唯一の目標であった。


 球悟は未だに夢に見る。2020年の夏どこまでも青い空の下、打席に立つ後輩をバックネットから応援している。1点ビハインドの9回裏2アウト2、3塁。投手が投げた渾身のストレートがミットにおさまり、パンッといい音が鳴る。ゲームセットだ。大歓声に包まれる会場で球悟は嗚咽と共に涙を流し立ち上がることさえ出来ない。

 せめて、球場で泣くことだけでも許されたならこんな気持ちで取り残されることはなかったのに。

 この夢を見て目を覚ましたとき、球悟は決まってこう思う。

「いい夢を見た」。



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最高の夏 土屋シン @Kappa801

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