医聖 張仲景3

張機チョウキ、次はこの料理だ!三番、五番、十三番番、十六番、十九番の卓に持っていってくれ!」


「は、はい!」


 厨房に並べられた皿たちを前にして、張機は頬を引きつらせてしまった。


 皿に盛られた肉からは食欲をそそられる湯気と香気が立ち上っている。眺めとしては頬を引きつらせるよりも、むしろ緩ませるべき光景だろう。


 それに張機はもう十二になっており、育ち盛りで食欲も旺盛だ。


 とはいえ今の張機はただの給仕だから料理は食べられないし、しかも物覚えの良い方ではないから数字を羅列されると困ってしまう。


「えっと……三番、五番、十三番、十五番……と……」


「いや、十五じゃなくて十六番だよ」


「あと最後に十九番ね」


 と、男女二人の声が張機の記憶を訂正・補足してくれた。


 振り返ると、張機と同じく年若の少年少女が足早に近づいてくる。


張羨チョウセン玉梅ギョクバイ


 張機は頼れる二人が来てくれたことで一安心し、引きつった頬から力を抜いた。


 そして高性能な幼馴染二人に羨望を覚えつつ、己の低能を嘆いた。


 張羨と玉梅は張機と同年の十二歳な上、同じ塾で学び続けてきた。それなのに二人は張機などよりもずっと頭が良い。


 それに二人とも運動神経抜群だから、五皿のうち四皿は任せられると思った。片手に一皿ずつ持てるだろう。


「助かった。じゃあ僕は三番の卓に持っていくよ」


 別に仕事を押し付けようと思ってそう言ったわけではなく、単純に忙しいのだ。


 三人が給仕をしている宴会場の客は二百人を超えている。最も効率的だと思われる動きをし続けなければ仕事が回らない。


 張羨も玉梅もそれを分かっているからすぐに両手を皿へと伸ばした。


 ただし、張羨の方はこれみよがしにため息をついてくる。


「まったく、やれやれだな」


 半分は張機への嫌味だったが、別に普段からこんな意地悪というわけではない。二百人を相手に働かされて気が立っているのだ。


 張機にもその気持ちは分かるから素直に謝った。


「ごめん。僕も二人みたいに機敏に動けたらいいんだけど」


 そう素直に謝られると、あんな態度を取ってしまった張羨は悪いことをした気持ちになる。が、あれこれ言う暇もないからさっさと皿を手に取った。


 玉梅も片手に一皿持ちながら、こちらは張機に笑いかけてくれた。


「張機は頑張ってるわよ。少なくとも武術の稽古をしてる時よりもずっといい動きだわ」


 その言葉に張機の頬はまた引きつってしまったが、玉梅に悪気はないのだ。


 そういう娘だし、張機はそういうところが好きだった。


「あ、ありがとう」


 それだけ答え、皿を取り上げて宴会場へ向かっていく。


 玉梅はすれ違いざま、張機の肩を軽く殴った。元気づけようとする時にはいつもそうしてくれるのだ。


「そんなに肩肘張ってると焦ってまた失敗しちゃうよ?お客さんのほとんどは親戚なんだから、もっと力を抜いて」


 その言葉通り、二百人超の宴会客はその多くが張機たちの親族だ。


 血には遠い近いがあるものの、基本的には荊州南陽郡けいしゅうなんようぐんの張氏とその関係者が集まっている。年に一度、親族で集まって宴会をするのが慣例なのだ。


 そしてその慣例の一環として、その年の幹事の子供たちが給仕をすることになっている。張機、張羨、玉梅はそれに駆り出されているところだった。


 ほぼ親族の集まりだから本来は気楽な会なのだが、張機はむしろ、だからこそ失敗しないように緊張しているという所がある。情けない姿を見せられない人間がいるからだ。


 張機は皿をひっくり返さないように、つまづかないように注意しつつ、目的地の三番卓へ着いた。


 その卓では張機と張羨、そして玉梅の父親たちが酒を酌み交わしていた。この三人は相変わらず仲が良い。


「おお、頑張っているな張機。ご苦労さん」


 そう労ってくれたのは張羨の父親だ。酒がほど良く入った赤ら顔で、上機嫌に料理の皿を受け取ってくれた。


 それを見た張機の父は眉をしかめ、息子に向かって不満げな声を出した。


「おい、さっきから見ていたらお前は一度に一皿しか運んでいないが、張羨も玉梅も二皿ずつ運んでいるじゃないか。もっと頑張りなさい」


「ご、ごめんなさい……」


 父に叱られた張機は肩をすぼめて小さくなった。


 とはいえ、自分が二人と同じことをしても皿をひっくり返して大惨事になるだけだろう。


 引き続き一皿ずつ運ぶしかないので、説教を食らい続ける覚悟をした。


「まったく……お前は何をやっても鈍臭い。張羨の足元にも及ばないじゃないか。同じようにやらせていて、どうしてこんなに差が出るのか……」


 長くなりそうな小言だったが玉梅の父、蔡幹サイカンがすかさず助け舟を出してくれた。


「いや、張機はいつも頑張っているよ。彼は頑張りがよく伝わってくる生徒だ」


 蔡幹はもう何年も張機の師をやっていて、そういうことはよく分かっている。張機は確かに頑張る生徒だった。


 ただ張羨や玉梅に比べると、張機はお世辞にも優秀な生徒とは言い難かった。


 前述の通り物覚えが良くないし、兵法の一環として習っている武術も女の玉梅より弱いのだ。


 張機の父はずっとそれを気にしており、眉をいっそうしかめて蔡幹の方を向いた。


「息子のことを褒めてくれるのは嬉しいんだが、一生懸命やったところで実力が伴わなければ意味がない。血反吐を吐くほど厳しくしてもらって構わないから、しっかり教えてやってくれ」


 血反吐とは結構な言いようだが、張機の父がそこまで言うのにはわけがある。


 そしてそれは張機にとっても重大なことだから、父の言を過激とは思わなかった。


「もしこの子がものにならないようなら、玉梅との婚約は破棄してもらって構わないからな」


 それこそが張機最大の恐怖であり、低能ながらも頑張っている理由なのだった。


 まだ幼い日、張機と玉梅は許婚いいなずけになった。それからもう何年も経っている。


 玉梅が一人娘であり、蔡幹の私塾を継ぐ婿として張機が選ばれているというわけだ。


 だから張機の父としては息子の学業が成ってくれないことには申し訳が立たず、ここまでキツイことを言うのだった。


 息子がまだ小さい頃は塾へ行くのが好きそうだったから、なんとかなるだろうという程度に考えていた。


 しかし成長し、結果というものを求められるようになってしまうと好きだけではどうしようもない。


 張機もそれは分かっている。だから学問も兵法も努力した。


 玉梅と結ばれない未来など考えられないからだ。


(玉梅は世界で一番可愛い女の子だ)


 人に言わせるとそうでもないという意見が多いのだが、少なくとも張機にとってはそうだった。


 玉梅のちょっと抜けたところも、勝ち気な性格も、可愛らしいそばかすも大好きだ。雨の日にクルンと巻いた髪など愛おしさの塊だった。


 だから父の言うことは恐怖だったし、婚約解消などということにならないように今一つな能力を振るって努力し続ける日々を送っている。


 蔡幹は張機の心配を吹き飛ばすような笑い声を上げてくれた。


「ハッハッハ!確かに今現在の出来はさほどでもないかもしれないが、どんな学問もその道は長いものだ。一番大切なのは努力する習慣を身につけることで、その点張機は将来有望だと思っているよ」


 多くの子弟を導く師として、蔡幹は『努力する習慣』ということをよく口にした。


 結局のところ、それさえ身につけさせれば教育は半ば以上成功したと言っても過言ではないだろう。


 よく偉人などで言われる『幼い頃からこんなふうに天才だった』という逸話はただの特殊事例であり、参考にする価値などない。


 そして努力を褒めてくれる先生を持ったことは張機にとって幸運であり、さらにそれを義父に出来ることは幸福だった。


「僕、頑張ります!!」


 その姿勢だけは強調した上で、張機は卓から下がっていった。


 厨房へ戻ると張羨と玉梅が一足先に帰ってきていて、料理人と何か話をしている。


 その料理人は果物が山のように盛られた大皿から桃を摘み、玉梅に手渡した。


 玉梅は張機の大好きな笑顔でそれを頬張る。細められた目の下でそばかすが揺れ、張機の心は暖かくなった。


 張羨はその様子を横目に、料理人へと手を伸ばした。


「いいな、俺にもくださいよ」


 どうやら玉梅だけつまみ食いをさせてもらったらしい。


 玉梅にはこういう人から愛される才能がある。媚びることもなくそれをやってのけるのだから、張機はそれが玉梅の心の美しさなのだと思っていた。


 この娘は今のように人から何かをしてもらった時、素直に、卑屈にもならず、心から感謝するのだ。


「とっても美味しい。ありがとうございます」


 そう言う笑顔に料理人はほだされ、もう一切れ手渡した。


 それを見た張羨はさらにピンと腕を伸ばす。


「俺にも」


 しかし不公平な料理人はニヤリと笑って背を向けただけだった。


「お前にもその娘くらい愛嬌があればやるんだけどな。ほら、その皿は中央の卓に据えてくれ」


「ちぇっ」


 不満を漏らした張羨は帰ってきた張機に気づくと、果物の大皿を指さした。


「張機、この皿デカいから二人で運ぶぞ。そっちを持ってくれ」


「うん、分かった」


 二人は慎重な足取りで皿を運んでいく。山盛りの果物は見栄えするものの、下手に傾ければ崩れそうで恐ろしい。


 張羨はまだ未練があるのか、果物の匂いだけ思いっきり嗅いでからため息を漏らした。


「腹減ったなぁ。俺らも仕事終わったら食べられるんだよな?」


「そういう話だけど、残り物だからこの果物は食べられないかもね。本当に美味しそうだし、皆すぐ取りに来るんじゃない?」


「マジかよ……勝手につまみ食いしちまうか」


「やめときなよ。張羨はうちの一族の中でもずば抜けて優秀だって評判なんだよ?つまんないことして評価を落とす必要はないだろ」


 張機は張羨が喜ぶだろうと思ってそう言ったのだが、当の張羨は嬉しそうな顔は一切しなかった。


 むしろ、先ほどつまみ食いを断られた時よりも大きな舌打ちをした。


「チッ……俺はどんだけ評価されたって仕方ないだろ」


「え?なんで?」


「いくら出来たところで、蔡幹先生の私塾を継ぐのはお前じゃないか」


 張機は友人の言うことがよく理解できず、すぐに返事できなかった


「……いや、別に張羨が先生の跡を継ぐ必要なんてないだろ?張羨くらい実力があったらいくらでも仕官先はあるだろうし、孝廉こうれん(高級官吏の推薦制度)に挙げられたっておかしくない。地方の私塾の先生よりもずっとすごい存在になれるよ」


 張機は心から親友を褒めたつもりだったが、張羨はただムスッと押し黙るだけで何も答えてはくれなかった。


 その不機嫌な様子が理解できない張機はさらに尋ねてみる。


「何か、先生の塾を継ぎたい理由でもあるのか?」


 しかし張羨は答えないまま、無言で皿を中央の卓へと置いた。


 それから不機嫌な顔のまま、桃へと手を伸ばす。


「やめとけって」


 張機はその手を掴み、厨房へと引っ張って行った。


 張羨は別に抵抗するでもなく引かれるままに歩いたが、相変わらずなぜか不機嫌な様子だった。


「……張羨?どうしたんだよ?」


「いや、お前のせいで桃を食いそこねたからさ」


 そうは言ったが、張機にはこれが張羨の本心とは思えない。


 しかし相変わらず忙しいので問いを重ねる暇もなく、


「それに関しては感謝してもらいたいけどね」


とだけ言って、新たな皿を手に取った。


 この台詞はなんとなく口から出ただけの、適当な相槌のようなものだった。


 しかし張機にとっても意外なことに、実際に張羨は感謝することになる。


 宴会からおよそ十日後、この皿の桃を食べた人間はその多くが倒れることになったからだ。

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