医聖 張仲景2
「それでね!
塾から帰ってくるなり、そんなことをまくし立てる息子に
息子は去年から通い始めた塾がとても好きだ。いつも楽しそうに塾でのことを話してくれる。
(いや、好きなのは塾ではなく玉梅かもしれんな)
話の大半には玉梅のことが入っているのだ。
塾に入って早一年、他の子供たちも続々と入塾してきており、生徒は玉梅以外にもたくさんいる。
なのに息子ときたら一に玉梅、二に張羨の話で、三がないから他の子たちのことが分からない。
(まぁ、絆の深い人間がいるということは良いことだ)
そう思いながら、友人の娘である少女の顔を思い浮かべた。そこに息子を並ばせてみる。
悪くない組み合わせな気がした。
「……お前、玉梅のことは好きか?」
喋り続ける息子を遮る形で、父はそう尋ねた。
張機にとってそれは突拍子もない質問だったのだが、子供らしい素直さで自分の気持ちをはっきり口にした。
「好き!!」
父はその素直さを眩しく感じながら、居住まいを正した。今から自分はこの子の将来に関わる大切な話をしようとしている。
息子にもきちんと座るように命じてから話し始めた。
「この間、蔡幹のところの奥方が流産したことは知ってるな?」
張機は流産という言葉はよく分からなかったものの、意味は分かったのでうなずいた。
二十日ほど前、玉梅がひどく泣いていたのだ。
理由を聞くと、母親のお腹の中にいた赤子が死んだのだという。
「赤ちゃんがかわいそう……お姉ちゃんになれなくなっちゃった……」
泣きながら、途切れ途切れにそう教えてくれた。
張機に死んだ赤子を生き返らせることなどできない。
だから玉梅の頭や背を撫でてあげて、できるだけ優しい言葉をかけ続けた。
「悲しいね。僕も悲しい。でも赤ちゃんはきっと死んだ後の世界で幸せに暮らしてるよ」
子供なりに必死に考え、好きな女の子を慰めようとした。
塾が終わってからもメソメソしていたからずっとそばにいて、話を聞いてあげた。
張機が帰らないので張羨も帰らず、三人が一緒に残った。
張羨は張機ほど優しい声はかけなかった。
「おい、そんなに泣くなよ。泣いたって赤ちゃんは生き返らないぜ」
張羨のその言葉に、張機は腹が立った。ひどい言い草だと思った。
ただ、張羨は張羨で別にいじめたくてそう言ったわけでないことも知っている。玉梅の顔を上げさせたくて言ったことだ。
張羨は優秀な玉梅に対抗心を抱いてはいるが、だから嫌いというわけではない。
競いながら伸びることを楽しんでいる。それは玉梅の方も同じだった。
とはいえ、今の玉梅は張羨の言葉に顔を突っ伏した。より激しく泣き始めてしまう。
「張羨……」
張機から責める目で見られた張羨は一瞬うろたえたが、それを弾き飛ばすような大声を出した。
「こ、こんなところでずっと泣いてるから嫌な気持ちが続くんだよ!ほら、行くぞ!」
そう言って玉梅の手を掴み、強引に外へ連れ出した。
張機はあきれてそれを追った。
「どこへ行くの?」
「そこの川だよ!この間でっかい鯉を見つけただろう?あれを取ってやる!」
(そんなことをしたって玉梅の涙は止まらないよ)
張機はそう思ったが、こうなった張羨は止められない。仕方なくついて行った。
川に着くと、張羨は服を着たまま川に入った。水しぶきを上げながら鯉を探す。
張機と玉梅は川岸に座ってそれを見ていたが、張羨は一人で鯉を探し続けた。
初めは馬鹿馬鹿しい気がしていた張機だったが、親友の必死さに今度は張羨の方が憐れに思えてきた。
「しょうがないな……僕も手伝うよ」
張機も川に入ってしばらく探していると、岩陰に大きな魚影が見えた気がした。
「……あっ!あれ!」
「なに!?いたか!?」
「多分……でもあんなに大きかったっけ?」
張機の見つけた影は魚にしては大きすぎる気がした。が、確かに動いている。
そろりと近づくと、影は張機に向かって突進してきた。
「え、えぇえ!?」
張機が思わずそう叫ぶほど巨大な鯉だった。
子供が潜水しているのではないかと錯覚するような大きさだ。
張機は驚いて尻餅をつきそうになったが、そこへ鯉が突っ込んできたため反射的に抱き上げた。
「……でっか!!」
一抱えもある鯉に張羨も驚き、急いで友人の応援に向かった。
「張機!離すなよ!」
「う、うん!……いや、でも……無理!」
この大きさで暴れられては捕らえていることなどできない。鯉は張機の腕からこぼれて水に落ちた。
が、駆けつけた張羨がまた抱き上げた。
「よっしゃあ!!……うぉっ、こいつ!大人しくしろ!」
あまりに激しく暴れられるので、器用な張羨でも捕え続けられはしなかった。また水に落ちてしまう。
それを張機がまた捕まえた。
「張羨!二人で押さえて!」
「よしきた!……あああっ!!」
二人で押さえてなお、巨大魚は少年たちを弾き飛ばして宙へと舞った。
(もう無理だ)
男二人は同時にそう思ったのだが、ここでさらなる助っ人が来た。
いつの間にか川に飛び込んでいた玉梅が水に落ちる前に上手く抱きとめた。
「三人!三人でやるよ!」
「うん!」
「絶対に上げるぞ!」
三人は必死になって抱きつき、鯉の尾にしこたま叩かれながら、なんとか川岸へと近づいていく。
そして土に足がついたところで思いっきり投げ上げてやった。
一瞬の静寂の後、草むらの上で怪物のような鯉がビチビチと跳ねた。
「はぁ、はぁ、はぁ……よっしゃああああ!!」
張羨が吠え、張機と玉梅も顔を見合わせてから同じように吠えた。
「よっしゃああああ!」
「よっしゃああああ!」
それから三人は草の上に大の字になって転がり、大声で笑った。
その後の玉梅はもう泣くことはなくなった。張機には嬉しいことだった。
(張羨と遊んでた時も楽しかったけど、玉梅が来てからもっともっと楽しくなった。やっぱり好きだ)
張機はその時のことを思い出し、少し微笑んだ。
流産の話をしていた父はそれをいぶかしく思ったものの、あまり気にせず話を続けた。
「それでな、蔡幹の奥方はもう子供を産めないかもしれないと言われたんだ」
流産後、産婆からそう告げられたのだという。
「じゃあ……玉梅はもうお姉さんになれないの?」
張機は玉梅のことを思い、それが可哀想だと思った。あの娘は姉になることを楽しみにしていたのに。
しかし大人としては別のことを考えてしまう。
父系社会であるこの時代において娘一人しかいないということは、祖先の祭祀と家職に関わるのだ。
「玉梅のお姉さんうんぬんも可哀想ではあるが、それより蔡幹の家のことだ。断絶は気の毒だし、あいつは私塾を子に継がせたいと思っている」
「……え?玉梅が継げばいいんじゃない?」
玉梅の優秀さを知っている張機は自然とそう考えたが、残念ながらそういう時代ではない。
だから父は当たり前に首を横に振った。
「いや、蔡幹は玉梅の結婚相手に継がせるつもりだ。しかし、それには蔡幹の学を受け継いでいなくてはならないだろう?」
ならなおのこと玉梅が先生になればいいと張機は思うのだが、それを口にする前に父が言葉を重ねた。
「それでな、
まだ幼い張機には許嫁という単語が分からない。しかし何やら玉梅と繋がれる話のようだ。
不思議な顔をして首を傾げながらも、
「うん、いいよ」
と、気軽な返事をした。
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