選ばれた子、選ばれなかった子22

老黄忠ロウコウチュウ


 という言葉がある。


 老いてますます盛んな人のことを指す褒め言葉だ。


 黄忠コウチュウという劉備に仕えた老将の活躍がこれを生んだ。


 桃花はその黄忠の白髪を見上げ、


「ほぅ」


と息を吐いた。


 感心したのだ。老いてなお、色が抜け落ちてなお、艶めいて見える。


 むしろこの白さが歩んできた人生の輝きなのだと主張するように、陽の光を見事に照り返していた。


「私の頭に蝶でも乗っていますかな?張飛殿の奥方が見惚れるほどの」


 黄忠はそう言って、桃花へと笑いかけてきた。


 老人特有の余裕のある笑みに、桃花は自分の心まで落ち着くのを感じた。


「いえ、立派な御髪おぐしだなと思いまして」


「立派?ハッハッハ!こんな枯れた頭を見るよりも、あちこちに咲いた花を見る方がよいでしょう。そういう会なわけですし」


 桃花と黄忠は今、益州成都えきしゅうせいとの大庭園にいる。


 ここで花見の会が催されているのだ。


 桃花はよく整備された庭を見回し、こちらにもあらためて感心した。


 戦火で一時荒れていたらしいが、今日の会のこともあってしっかり手を入れられたと聞いている。


「お花も好きですけど、やっぱり黄忠様の御髪の方が素敵だと思います。それに、従兄のことを思い出すんです」


 桃花は徐林の頭に一筋だけあった白髪を思い出していた。


 暗がりだったし、あれからもう八年も経っているのだが、その容姿はしっかりと脳内に描くことができる。


 この八年間で桃花の身の周りは随分と様変わりした。思い返しても目まぐるしい日々だったと思う。


 桃花が身を置く劉備陣営は六年前に曹操と全面対決した。


 いわゆる赤壁の戦いだ。


 孫権と劉備の連合軍が中華統一を目前にした曹操を降し、特に劉備は大きく躍進した。


 荊州の一部を獲り、そこを足がかりにここ益州へと侵攻し、三大勢力の一つとなった。


 まだ魏呉蜀の三カ国はできていないものの、実質的な三国時代の始まりだ。


 そして桃花の夫である張飛はその大勢力における重臣中の重臣であり、妻の桃花も結構な身分であると言って差し支えはないだろう。


 八年前までは拾われた流浪軍の将でしかなかった張飛は出世し、巴西はせい郡の太守ということになっている。


 つまり桃花は太守の奥方だ。そういう立場で交友のために設けられた花見の会へ出席していた。


「髪が白くなるほど齢の離れた従兄がおいでか」


 黄忠は笑って自分の白髪を撫でた。やはり見れば見るほど輝いている。


「いえ、私より五つ上なだけです。でもなぜか髪が一筋だけ白くて」


「ははぁ、将兵ですかな?」


 暗殺者は将兵に含まれるのだろうか。


 桃花は少し悩んでから答えた。


「えっと……多分、一応そんな感じです」


「多分、一応?」


「なんていうか……特殊工作員?みたいな?」


「なるほど。確かに将兵と呼ぶべきか微妙なところですな」


「でも将兵だとそういうこともあるんですか?」


「多いことではありませんが、ごくまれに外傷部位が白髪になることがあります。普通は禿げますが、私のように無駄に戦歴が長いとそんな兵にも会ったりしました」


(綝のはもしかしたら、五歳の時の怪我かもしれないな)


 どこをどう打ったかまではさすがに判然としないものの、派手に飛ばされていたから地面や石に頭を強く打ちつけていてもおかしくはない。


 その時の光景を思い起こしていると、黄忠が桃花の後ろを指さした。


「ちょうどそこの彼なんかも、怪我で白くなったのではないかな?」


 言われて桃花は振り返り、ギョッとした。


 驚いた理由は二つある。


 一つは背後に立っていたその男にまるで気配を感じなかったこと。


 もう一つはその男がくだんの従兄、徐林だったからだ。


「り、綝!?」


 桃花は声を裏返らせて目を剥いた。


 徐林は八年前と同じ、伯父によく似た目でたたずんでいた。


 給仕の服を着込んでおり、この会のために立ち働く人間を装っている。


 黄忠は深い瞳で徐林のことを眺めやり、それから桃花に尋ねた。


「もしかして、彼がその従兄ですか?」


「あの……はい」


「ふむ。ただの給仕にしては変わった雰囲気を持っていると思っていました。しかし特殊工作員ということなら納得だ」


 徐林は気配を消したり、どこにでも溶け込めるよう人心の流れに沿うための訓練を受けている。


 それがむしろ経験豊富な老将の目には違和感だった。しかし特殊工作員ならこういう普通でないのもいるだろう。


「今日も何かの任務ということかな?」


 そう問われた徐林だったが、無視する形で給仕としての言葉を口にした。


「お二人とも、お飲み物はいかがですか?お好きなものを言っていただければ取ってまいります」


 黄忠はそれだけで意図を察し、一つうなずいて踵を返した。


「結構。私は庭園を散策していよう」


 任務については触れてほしくない。桃花と話したい。


 そういうことだろうと思って気を遣ったのだ。


 ただ、徐林はもちろん自陣営の特殊工作員というわけではない。


 むしろ桃花の命を狙う暗殺者なのだが、桃花自身もさしたる警戒心なく徐林のところに残った。


「すっごく久しぶりだけど……あれからどうしてたの?」


 最後に会ってから八年も経っているのだ。


 慌ただしい日々の中、桃花は命の恩人でもある従兄を気にかけていた。


 その従兄は黄忠が去ると、急に肩を落とした。


 そして深いため息を吐き、顔中に『疲れた』という気持ちを表出させて口を開く。


「あれから、か……あれからまずはぎょうに行った」


「あ、それなら私も伯父様からの手紙で聞いたよ。伯母様が会ったって」


 桃花と夏侯淵は今でも文のやり取りを続けている。


 この時代、敵味方に別れてもそのようにして旧交を温めることは多くあった。


「伯母様、ものすごい喜びようだったらしいね」


「ああ、でも別に母さんに会いに行ったんじゃないんだよ。夏侯淵の子供たちを殺してやろうと思ったんだ」


「えー……それってもしかして、私が『実子ですらないのに』とか言っちゃったから?」


「そうだ」


「やっちゃったかな……で、でも結局は誰も殺してないんだよね?伯父様からの手紙にはそんなこと書いてなかったし」


「ああ、どうも殺す気にならなくてな。誰からも大切に思われてない人間なら殺してもいいと思えたかもしれないが……」


 徐林の声は苦渋に満ちていて、桃花にはそのことで従兄が相当悩んだのだろうと察せられた。


(何だか普通の人と考え方がずれてる気がするけど……それでもこんなふうに思える人なら、もう安易に人を殺したりできないよね)


 桃花はそう考え、暗殺者だったという従兄をあらためて危険のない相手と認識した。


「それで暗殺は諦めたんだね」


「ああ、お前の暗殺以外はな」


「え?」


「ん?だから桃花以外は暗殺の対象から外すことにしたんだ」


 桃花の口は開きっぱなしになってしまった。


 安全な人間認定した途端、なぜそんなことになるのか。


「いや……なんでそうなるの?」


「母さんにも会ってしまったし、鄴からは離れるしかないと思って。それで標的をお前に絞ることにしたんだ」


「……いやいやいや、なんか話が無茶苦茶なんですけど。実子じゃない私は一番に対象から外れるんじゃないの?」


「なんか世間の噂を集めたら、むしろお前が一番愛されてるって話だったぞ?夏侯淵は実子を捨ててまで弟の娘を養育してるって大層な評判になってた」


 後漢末期から三国時代はだいたい西暦二百年前後だから、現代から見れば価値観が大きく異なることも多い。


 いまいち理解できない話が美談になっているのもよくあることだ。


「あぁ……自分のものに対する欲が薄い的な評判?それなら私も聞いたことがあるけど……」


 ただ、そうだとしても桃花は徐林の言うことに納得できない。


「でも私だって大切に思ってくれてる人の一人や二人いますけど」


「そうなんだよ。だからいつでも暗殺できる状態を維持しつつ、踏ん切りがつかないまま八年も経ってしまったんだ」


 徐林は再び深いため息を吐いた。


 が、桃花の方も思わずため息を返してしまう。


「……なんかもう……どこから突っ込んでいいのか分かんないんだけど……私って八年間ずっと付きまとわれてたわけ?」


「いや、さすがに四六時中見張ってたわけじゃないぞ。暗殺のための方策を確立しておいて、それを定期的に確認して、場合によっては更新して、っていうのをやりながら過ごしてたんだ。普段は商人やってるからあちこち移動してることも多いし、ずっと付きまとうってほどじゃない」


「だとしても……気持ち悪っ」


 桃花は心底嫌な顔をして吐き捨ててやった。


 こんなことをされれば誰だってそういう感情を抱くだろう。


 しかし徐林としては暗殺者としての日常を答えただけで、このような反応は予想してなかった。


 半歩後ずさってから、あらためて考えてみる。そして確かに悪いことをしたと思った。


「わ、悪かったよ……でもまぁ、あれからどうしてたかって聞かれたら、そうやって暮らしてた」


 桃花はまだ嫌そうな顔をしながらも、一応は話を続けてやることにした。


「それで、こうやって私の前に出てきたのはどういう理由なの?殺す決心がついた?」


 徐林はまた疲れた顔になり、何度も首を横に振った。


「逆だよ。結局は殺せないって思ったから出てきたんだ。残される人間のことを考えたら体が動かなくなって……」


「綝……」


 八年前に殺されそうになった時にも徐林は似たようなことを言っていた。


 桃花はそれをよく覚えているから、暗殺者だったという従兄を嫌う気持ちにはなれなかった。


「でもそれなのに八年間も付きまとって、しまいには益州までついて来て?」


「そう!そうなんだよ!ふと馬鹿馬鹿しいって思ったら、急にどっと疲れてさ……」


 顔を見れば、桃花にはそれが本音なのだと分かった。


 実行しない暗殺計画に八年も費やした上に、徒労だったと理解してしまったのだ。心が疲れもするだろう。


 ただ、それで出てきたというのがいまいち分からない。


「要は諦めてくれたんだよね?でも、なんで諦めたからって出てきたの?私から離れて普通に暮せばいいのに」


 徐林はポリポリと頭をかきながら答えた。


「八年前に別れた時、俺はお前を殺すって宣言してただろ?一応撤回しとかないと、お前も安心できないかと思って」


 桃花は正直なところ、八年前から徐林は自分を殺さないと思っている。


 だからその気遣いは無用なのだが、気持ちには礼を述べておいた。


「ありがとね。わざわざ気持ち悪いことを教えてもらった気はするけど」


 言われた徐林はまた半歩後ずさった。


「……いや、ホント悪かったって。でも悪かったついでに一つ相談に乗ってほしいことがあってさ」


「え?どういう相談?」


「これから俺、どうしたらいいと思う?」


「…………」


 桃花は思わず沈黙を返してしまった。


 自分たちは従兄妹同士とはいえ、ほとんど面識がない上に殺されそうだったのだ。


 その相手から唐突な人生相談を受けている。


「あのさ……それって私に聞いた方がいいことかな?」


 それは至極真っ当な質問だったのだが、徐林は徐林で真面目に相談している。


「いや、むしろお前以外に聞けそうな人間がいないんだよ。俺はやっぱり夏侯淵を許せなくて、あいつのことをよく知ってるお前の話なら参考になるかと思って……」


「ああ、伯父様……」


 桃花はようやくこの相談に納得できた。


「つまり、暗殺で復讐することは諦めたけど他の方法を探してるってこと?」


「そういうことだ。あいつを苦しめるには肉体的に痛めつけても駄目で、殺しても駄目なんだ。だから大切な人間を殺してやろうと思ったけど、出来そうもない。調べても大切な物とかも見つからないし……」


「伯父様は執着しない人だからねぇ」


「ああ、将のくせに自分から最前線に出る馬鹿みたいだしな。そういう命にすら執着がないやつだと復讐はやりづらいんだよ」


「でもさ……八年前にも言ったと思うけど、伯父様にとって一番辛いのはあなたが不幸になることだと思うよ?あなたのこと、ずっと気に病んでたから」


「俺にとって一番の不幸は、このまま復讐が叶わないことだ」


 夏侯淵のことを思うと黒い洪水のような感情があふれ出し、自分でも制御できなくなる。


 しかし明るい桃花には復讐という暗い価値自体が理解できないのだ。それこそ馬鹿馬鹿しいとすら思える。


「……じゃあいっそのこと、伯父様の前で自殺でもしてみたら?」


 投げやりな気持ちでそう言ってやった。


 しかし、さすがの徐林もそれがいかにひどい手段であるかは理解できる。陰湿で、卑屈で、趣味が悪いことこの上ない。


「俺だってそういう復讐が下劣だって感覚くらいあるさ」


「そうなんだ。まぁ実際、相手を傷つける方法として最悪だよね」


「ああ、そこまで堕ちたくない。だから俺自身も含めて、人間を殺す以外であいつを苦しめる方法があれば教えてほしいんだ。それが分かれば俺の人生の方向性が決まる」


 暗殺者である徐林は八年がかりでそんな結論を得て、相談に来ているのだった。


 とはいえ、桃花としては困ってしまう人生相談だ。


 大切な伯父を苦しめる方法を考えろと言われているわけだし、そもそもその方法も思いつかない。


「うーん……そう言われても……」


 桃花が頭を悩ませていると、庭園の向こうから大柄な男が駆けてきた。


 張飛だ。


 妻が暗殺者と一緒にいるのを見て表情を険しくしている。


「桃花!大丈夫か!?」


 桃花は心配する夫を安心させるため、わざと冗談めかしく袖を振った。


「あ、張飛さん。久しぶりの暗殺者だよ〜」


 その様子に張飛はいったん安堵したものの、警戒は解かない。


 厳しい顔で桃花と徐林の間に入った。


「黄忠殿から桃花の従兄がいたって聞いてまさかと思ったが、本当にお前だったとはな。よく顔を出せたもんだぜ」


 張飛はとりあえず徐林を動けなくしようと思ったが、その前に妻に腕を掴まれた。


「まぁまぁ、落ち着いてよ。綝はもう私を殺す気はないから」


「でもお前……」


「今日は人生相談に来てるんだよ」


「……はぁ?人生相談?」


 意味が分からず大口を開けた夫に、桃花は説明してやった。


 従兄がこの八年間にしていたこと、暗殺という手段を諦めたこと、そして今後について悩んでいること。


 それらを聞いた張飛は、まず桃花が先ほどしていたのとよく似た嫌な顔をした。


「お前……すっげぇ気持ち悪いやつだな」


 張飛の吐き捨てるような言葉に、徐林はまた半歩後ずさってしまう。


 考えてみれば、確かに暗殺者のしていることはひどく気持ち悪い。


 桃花はそんな従兄に助け舟を出してやった。


「いや、その下りはもう私がやったから。気持ち悪いのはとりあえず置いておこうよ」


「ああ、気持ち悪いのは疑いようもねぇが、気持ち悪い気持ち悪い言ってても話が進まねぇ。この気持ち悪いやつのこれからを考えねぇといけねぇわけだな」


「そうそう。できるだけ気持ち悪くないような人生を考えてあげないと」


 気持ち悪いを連発された徐林の顔は引きつってしまっている。


 しかし張飛はそれを無視して話を続けた。


「俺としては気持ち悪さをなくすためにスッパリ殺しちまうのがいいと思うんだが、桃花は嫌なんだよな?」


「気持ち悪くても従兄だからねぇ。赤ちゃんの時とはいえ、この気持ち悪いのの犠牲で生き残れたんだし」


「あの……ホント謝るから……気持ち悪いっていうのはちょっと避けてもらってもいいかな?」


 徐林は小さな声で控えめな抗議、というかお願いをした。自分でも堂々と抗議できることではないと理解できた。


 張飛はそんな徐林の顔をジロリと見下ろし、なんだか面倒になったのでこれくらいで勘弁してやることにした。


「話はだいたい分かったけどよ、桃花もいい復讐方法を思いつかないんだよな?」


「うん」


「ならうちは夏侯淵とは敵対関係だし、うちで働くってんなら口を利いてやらんこともないぞ」


 張飛は徐林の身ごなしから、暗殺者としてはかなり有能だと認識している。働けるなら妻の暗殺未遂には目をつぶってやろうと思った。


 しかし、徐林の方が首を横に振ってくる。


「話はありがたいが、俺はもう人を殺す気になれない。暗殺者としては無能だ。誰からも大切に思われてない人間なら殺せるかもしれないが、そういう人間は少ないだろう」


 その言葉で張飛の徐林に対する認識はだいぶ変わったのだが、こうなるとできる仕事は限られる。


「戦にも出られないってことだな?じゃあ事務仕事とかの裏方でもやるか」


「いや、夏侯淵が父さんを殺したことを後悔するような復讐でないと意味がない」


「……わがままなやつだな」


 張飛は苦笑したが、それはそうだろうとは思う。


 劉備陣営でこっそり裏方をやって復讐というのもどこか違うだろう。


(こうなると、復讐とは別方向からこいつの人生を考えないとどうしようもねぇよな)


 そう思った張飛は、その道の玄人に頼ることを思いついた。


 この会にちょうど適任が来ているのだ。


「蛇の道は蛇だ。ちょいと待ってろ」


 そう言ってキョロキョロと辺りを見回し始めた。何かを探している。


 その様子に妻が尋ねた。


「何?何を探してるの?」


「許靖殿だよ」

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