短編 段煨6

「……ふっざけんな!まだ段煨の野郎を打ち負かしてないだろうが!」


 楊定は帝からの帰陣命令を握り、手を戦慄わななかせていた。


 怒りに任せて蹴り上げた床几しょうぎが木にぶつかり、大きな音を立てて壊れる。


(どうしてこうなった?段煨の防塁を舐めてたわけじゃないが、ここまて固いとは……いや、攻める将兵たちの士気にも問題があった。攻める理由が分からんとか言うやつもいたな……)


 それは楊定が無理やりに攻めたから起こった結果なのだが、本人には納得できない。


(それに、帝とその周りの連中……あいつらが華陰の奪取をもっと肯定してくれれば状況も変わっただろうに……)


 それもやはり楊定自身のせいだったが、まともな精神状態でないので理解しようとしない。


 ただ一つ理解できるのは、この官軍の中で自分という存在が随分と浮いてしまったことだけだ。


 帝は勅命というものの重さを知っている人だから乱発しないし、傀儡という自覚もあるから軍の意向に反する命令など普通ならまず出さない。


 それが明確な帰陣命令を出したということは、楊定に対して相当な含みを持っていると思っていい。


(これじゃ洛陽に着いても、場合によっちゃ罰せられる可能性もあるな……)


 もしかしたら今日まで築いた地位を失うかもしれない。


 その恐怖に心を黒く染めていると、一人の兵が駆けてきた。


 ひどく焦ったその様子から、何かしらの緊急事態が起こったということが推察された。


(なんだ?ついに段煨が攻勢に出たか?)


 もしそうならば、帝に自分の正しさを主張できるはずだ。


「楊定様、急ぎの伝令です!敵が攻めてきます!」


「何!?本当か!?」


(ツキが回ってきた!!)


 思わず拳を握りしめる。


「よし、帝の帰陣命令はいったん保留になるな。攻めてきた段煨の首根っこを掴んで……」


「いえ、攻めてくるのは李傕リカク様の軍です!!」


 楊定は耳を疑った。


 李傕はこの行列には随行していないものの、帝が洛陽に帰還することには同意していたはずだ。


 それが今さら攻めてくるとは。


「な、なんであの野郎が今頃出張って来るんだよ!?」


「どうも郭汜カクシ様と合流されたらしく、お二人で帝を長安に戻そうとされているとのことです」


「……っ!!」


 事がここに至るまでの経緯は多少複雑なのだが、ざっくり書くとまず前述の通り、長安で李傕と郭汜の大喧嘩があった。


 その喧嘩は最終的に和解へと至ったのだが、その過程で長安は荒れ、宮殿も焼かれた。そして帝は洛陽に帰還することになる。


 李傕は帝を止めなかったし、ついても行かなかった。李傕自身、帝を巡る争いに疲れていたのかもしれない。


 一方の郭汜は帝に随行し、楊定たちと共に長安を出た。


 が、途中で郭汜は心変わりした。


 帝の独占を目論見、行き先を自分に都合の良い街へと変えようとしたのだ。


 楊定たち他の諸将は反対した。そして争いになり、負けた郭汜は帝の行列から逃げ出した。


 その後、楊定たちは華陰に至って段煨を攻めているわけだが、その間に郭汜はつい先日まで喧嘩していた李傕の元に走っていた。


 この二人は周囲の思惑にも踊らされて殺し合ったとはいえ、もともとは幼馴染の間柄だ。心の底では頼りになる相手なのだろう。


 郭汜は帝を手に入れられなかったことを悔やみ、そして李傕もまた帝を手放してしまったことを後悔していた。


 それで再び意気投合した二人は力づくで帝を長安に戻すべく、出陣してきたのだった。


「くっそ……段煨との挟み撃ちになるな……」


 段煨はそんな事しないのだが、楊定からするとそれはもう確定事項だった。


 暗い目を険しくして歯ぎしりする。


 そんな楊定に伝令の兵が伝えた。


「李傕様の軍とはまだ距離があります。すぐには交戦にならないかと……」


「そ、そうか。なら華陰はいったん諦めるしかねぇな……急いでここを離れるぞ!帝にもすぐに動いてもらえ!」


 楊定はそのための伝令を全軍に走らせた。


 正直なところ、段煨との決着がついていないことに強く後ろ髪を引かれる思いがある。


 だが事態はそれどころではないほど切迫しているのだ。


 楊定は振り返りざま段煨の防塁を睨み、それから馬に飛び乗った。


(軍さえ維持していれば、段煨とはまたいつでも戦える。帝を洛陽に移して朝廷が落ち着いたら再戦だからな!!)


 馬上そんなことを考えて、好戦的に笑った。


 が、この後の楊定はすぐにその軍を失うことになる。


 李傕と郭汜の軍に手ひどく敗れ、軍を捨てて独り逃げなければならないほどに追い詰められるのだった。



***************



「全軍、小休止!」


 段煨はそう命じてから自身の馬足を落とした。


 騎馬隊が街道沿いの草原に入って行く。少し先には沢もあり、馬に水を飲ませて休ませられそうな場所だった。


 馬を降りて手綱を引く兵たちへ向けて、段煨は再び声を発した。


「休んでる間も気を抜くなよ!どこに敗残兵が潜んでいるか分からんからな!」


 段煨たちはそれを警戒して華陰を回っているのだった。


 先日、楊定たちの官軍は李傕と郭汜に大敗した。


 帝は捕らえられなかったものの、多くの廷臣が殺され、楊定も戦場から単騎で逃げねばならないほどの負け方をした。


 帝や宮女たちを連れている官軍の方が圧倒的に不利なので、この結果自体は仕方のないことかもしれない。


 その後の李傕、郭汜と官軍たちはいったん和睦を結んだり、そうと見せかけて別勢力を抱き込んだりと、また泥沼のような戦いを繰り広げている。


 段煨はやはりそこに首を突っ込むような愚を犯さない。


(もし私が首を突っ込んだとしても、泥沼を深めることにしかならないだろう)


 そう思い、とにかく華陰の民のことだけを考えることにした。


(大きな戦があったのだから、たくさんの敗残兵が出てくるはずだ)


 それらは場合によっては民を傷つける存在になりうるだろう。


 だから段煨は軍をいくつかに分け、領内を手分けして回らせて治安を保とうとしているのだった。


 段煨は馬に水を飲ませながら周囲に目を配り、警戒した。


 今いる所は開けており、草丈も低いので人が隠れられるような箇所はあまりない。


 しかし沢の向こうや街道の反対側はすぐに山になっているから、近くに誰か潜んでいてもおかしくはなかった。


 そしてその山に走る獣道に視線が流れた時、手の甲がチクリと痛んだ気がした。


「……すまんが少しの間、私の馬を頼む」


 段煨は副官にそう言って手綱を渡した。


「どうかされました?」


「なに、少し山に入ってくるだけだ。山芋のよく育ちそうな土に見えたんでな」


 副官は相変わらずの段煨の苦笑した。


 作物が絡むとこういうこともよくある。


「分かりましたが、危険があるかもしれません。誰かついて行かせましょう」


「いや、一人でいい。そんなに深くは入らん」


「しかし……」


「土と会話しながら歩きたいんだ。一人の方がいい」


 妙なことを言われた副官は、また苦笑した。


 やはり段煨にはこういうこともよくあるのだ。


「了解いたしましたが、お気をつけて」


「ああ」


 段煨は軽く返事をしてから街道へ戻り、その先の山へと入って行った。


 獣道がしばらく続く。


 文字通り、猪などの獣が通るのだろうと思えるような道だった。


 それをしばらく登っていくと、開けた場所に一人の男が立っていた。


 楊定だ。


「おう」


 と、段煨は片手を上げて軽い挨拶を口にした。


 道端で友達にでも会ったような態度だ。


 今日までの経緯を考えると軽すぎる態度ではあったが、段煨はそれでいいと思っている。


 自分と楊定とは元々そういう仲のはずだ。そして段煨は、ずっとそうであることを望んでいる。


 しかし、楊定の方は憎しみすら込められた瞳で段煨のことを睨んできた。


「……俺を笑いに来たのか」


 その言葉に、段煨の手の甲はまたチクリと痛んだ。


 なぜこうなった。


 何が自分とこいつとのことを変えてしまったのだ。


「乱世のせいだ」


 段煨は己の疑問に、己で答えた。


 しかしそれは楊定にとって、自分への慰めに感じられた。


「俺がこんなふうに落ちぶれちまってることがか?同情なんてまっぴらごめんだ」


「違う、そんなつもりじゃない」


「じゃあどんなつもりだ?」


「俺とお前の関係が変わってしまったことについてだ。俺にとってお前は変に突っかかってくる面倒なやつで、俺はずっとそんな風でいいと思ってた」


 段煨の声は苦しそうだった。


 楊定はそれを聞いて少し目の色を変え、それから目をそらした。


 そして楊定の方も苦しそうな声を漏らす。


「……俺もよ、それで良かったと思う。お前に勝とうとして頑張ってるのは楽しかったんだ。別にそうする意味なんてない。ただ楽しかったんだ」


 そう言ってから、剣を抜いた。


「だがもう、どうしようもねぇだろ。俺はもう、お前とまともに勝負できないほどに凋落しちまった。だからよ、最後の勝負をしてくれ」


 段煨は楊定を止めなかった。逃げることもしない。


 自身も剣を抜き、ずっと競い合ってきた好敵手へと向ける。


 楊定は笑った。子供が大好きな人に遊んでもらえる時のように、明るく笑った。


 段煨もそれに目を細めながら、横に数歩動いた。


 楊定もその動きに応じて間合いを測り、数歩動く。


 そして段煨が足を止めたところで剣を上段に掲げ、大きく踏み込んだ。


 降り注ぐ木漏れ日に白刃がきらめき、樹間に気合の声が響き渡る。


「うおおおお……うぉ!?」


 渾身の気合いの声だったのだが、それは最後妙な風になってしまった。


 そして楊定の姿は段煨の目の前から消えた。


 と言っても、もちろん人が本当に消えるはずなどない。


 いなくなったのではなく、楊定は穴に落ちていた。


「いててて……な、何だこりゃ?」


「見ての通り、落とし穴だ」


 戸惑う楊定を尻目に、段煨はごく平然とした態度で答えてやった。


「落とし穴!?お前、あらかじめこんなもん用意してたのか!?」


「馬鹿言え。お前とここで会うことなど予想できるか。猟師が猪などを捕るために掘ったものだろう。上手く隠してはいたが、土の具合がそこだけおかしかった」


「……今の状況でよく気づいたもんだな」


「この山の土は山芋が育つのに良さそうな土だと思いながら歩いていたからな。それで見つけられた」


「はっ!相変わらず土いじりの才能だけはあるやつだ……うおっ、ちょっ……やめろ!土をかけるな!」


 段煨は穴の下の楊定へと、土を蹴ってかけてやった。


 楊定の口に土が入り、それをペッペと吐き出す。


「楊定、お前は土を馬鹿にしすぎだ。人が土によってどれだけ助けられているか、生かされているか、よく考えてみるといい」


「分かった!分かったからやめろって!ああ、目に入った!」


 楊定は涙を流して顔を拭った。


 それから大きなため息を吐く。


「……はぁ、お前といると調子が狂うぜ」


「違うな。今日までのお前の調子が狂ってたんだよ。人が変わるのは仕方ないことだし、必ずしも悪いことではないが、今のお前は自分自身が辛くなる方向に変わっているぞ」


 言われて楊定は己のことをかえりみてみた。


 確かに今の自分は段煨と競っていた頃に比べて、辛い。自分自身の心が、存在が辛いと感じるのだ。


 心妙な顔つきになった楊定へ、段煨が手を伸ばした。


「なぁ楊定。俺の下につくようで嫌かもしれないが、しばらく俺のところにいろよ」


 楊定はその言葉にまず嫌そうな顔をし、それから手を動かしかけた。


 しかし、やはりその手を取らない。


「……そりゃできねぇよ」


「別に下につくと思わなくていい。俺も対等な客のようなものだと思おう」


「そういうことだけじゃねぇ。俺はお前の軍を攻めたんだ。まぁ悔しいことに被害は小さかったかもしれねぇが……それでも戦を仕掛けたんだよ。その組織に一食客として俺がいるのは危なすぎるだろう」


 それはその通りで、確かにいつ殺されるとも知れない環境ではある。


 ただ、今の楊定の状況が危ないのも確かだ。


「そこは私が……」


「私もその方がいいと思うぞ」


 急に二人以外の声が上がり、段煨はそちらを向いた。


 楊定は穴の中にいるからそちらは見えない。しかし、声を聞いただけで緊張に体を固くした。


 すぐに誰か分かったからだ。


賈詡カク……!」


 現れたのは賈詡だった。


 李傕と郭汜に策を授け、朝廷を牛耳る立場にまで引き上げた立役者だ。


「俺を殺しに来やがったか」


 楊定がそう思ったのも無理はない。


 賈詡はこれまで基本的に李傕のそばで様々な助言を与え、頼りにされてきた男だ。


 今の立場は宣義せんぎ将軍ということなっているが、それも李傕から請われて就いている。


「たまたま段煨が一人で山に入るのを見てな。二人で話したいと思っていたから、丁度いいと思って追いかけてきたんだ。そしたら面白いところに出くわせた」


 賈詡は段煨へと親しげな笑顔を向けた。


 この二人は同郷で、互いを頼れるような間柄だ。そういう気持ちが伝わってくる笑顔だった。


 しかし楊定にとっては自分を凋落に追い込んだ一味に違いない。たまたま、などと言われて信じる気にはなれなかった。


「嘘つきやがれ。李傕のとこの将軍がたまたまこんな所に居るかよ。もっと東で戦ってるはずだろうが」


「将軍の印綬ならもう李傕殿に返したよ。今の私はただの賈詡だ」


「なに!?」


 驚く楊定の上まで来た賈詡は、先ほど段煨がそうしていたように土を蹴って穴の中の楊定にかけた。


「なっ……おい、なにしやがる!」


「印綬は返したとはいえ、お前には随分と困らされたからな。これくらいはいいだろう」


 それを聞いた段煨もうなずき、賈詡と同じようにまた土をかけた。


「それについては私も同じだ。これくらいはいいな」


「やめろ!やめろって!くそっ!」


 二人はしばらく土を蹴り続け、やがて満足して足を止めた。


 それから段煨が賈詡に問う。


「しかし、どういった事情だ?お前がいれば帝の奪取もそう難しくないだろう。それなのに将軍位を返上してまで野に下るとは」


 賈詡は疲れたようなため息と共に答えた。


「もうな……やってられないんだよ。段煨は少し離れたところから見ていたから肌で分からんだろうが、楊定なら分かるはずだ。ここ数年の長安周辺には吐き気を催すような腐臭しかしていなかった」


 楊定は穴の中で小さくうなずいた。


 権力争いというのは大なり小なりそういうものだが、この時代と場所はその腐臭があまりに酷かった。


 楊定もそれで傷ついた一人だ。


「それに、もうあの連中に未来はないさ。誰が帝を得ても同じだ。帝の権威と今現在の兵力があっても、結局のところ基盤となる土地をきちんと治めていなければ、すぐに他の群雄に潰されることになる」


 そういう時代なのだ。


 そして要は、今帝の周りでドンパチやっている連中にはその重要さを理解できる者がいないということだろう。


「そういうことを考えると、華陰をきちんと治めてる段煨なんかは理想的なんだが……」


「私は国政の頂点に立ちたいなどと、思ったこともない」


「……だよな。まぁそういう所を見込んで華陰に来たんだ。ここなら落ち着いて暮らせそうだし、しばらく厄介にならせてくれ」


 賈詡はそういうつもりで段煨の元に来たのだった。


 段煨は同郷人で信頼できるし、領内はよく治まっている。食料事情も悪くないし、自衛以外での対外戦争も起こらないはずだ。


 実は賈詡以外にも華陰へ避難してきた名士が幾人かいる。この周辺では別天地のような地域だったということだろう。


「それはもちろん構わんが……楊定はやはりうちに置かない方がいいか?」


 段煨は賈詡にそれを確認した。


 この男が天才だということを、段煨はよく知っている。


 賈詡がそう言うなら、それはきっと正解なのだと思った。


「少なくとも今は駄目だ。まだ兵たちの憎しみが強い。殺される可能性が高いし、組織内の不和の原因にもなる」


 楊定も段煨に迷惑をかけてまで居座るつもりはない。


「俺は華陰を通してくれりゃ十分だ。藍田らんでんまで逃げる。そこまで行けりゃ、多少の兵はいるしな」


 藍田は長安にほど近い街で、そこが楊定の軍事拠点だった。


 しかし賈詡はそれを止めた。


「それは駄目だ。郭汜殿がそれを予想して兵に道を塞がせている。捕まるぞ」


「なんだと?しつこいやつだな……」


「逃げるなら荊州けいしゅうへ向かえ。そちらの道は大丈夫なはずだ」


 そう助言しながら穴の中に腕を伸ばした。


 段煨も同じようにし、楊定を引き上げる。


「……すまん」


 楊定は小声で礼を口にした。


 段煨だけでなく、思いもかけず賈詡からも助けられることになったのだ。この気の強い男でも殊勝な気持ちになる。


 穴から出て土を払う楊定に、賈詡はもうひとつ助言を加えた。


「それからな、お前はもう楊定の名は捨てた方がいいぞ。この辺りで力を持っている李傕と郭汜に敵対してしまったし、帝や百官の意向を無視して段煨を攻めたことで、朝廷内でもかなり悪印象を持たれていると聞いた」


「…………」


 楊定も身から出た錆だから返す言葉もない。


「全くの別人として、別の人生を歩め。初めは苦しいかもしれんが、それが無事に生きていくための一番の方法だ」


 一度は列侯にまで昇った身として、それはあまりに苦しい。誇りある人間なら簡単なことではないだろう。


 だから楊定は下を向き、それには答えなかった。


 それから段煨はいったん街に帰り、楊定に馬と食料、そして玉などの宝石を用意してやった。これでしばらくは命をつなげるはずだ。


 そして賈詡と共に、華陰の県境まで同行してやった。


 さすがに段煨がいれば領内で面倒事に巻き込まれることはないだろう。


 道中、三人は馬に揺られながら煎り豆を食べた。もちろん段煨が作った豆だ。


「美味いな……」


 楊定は遠く、山の上の雲を眺めながらつぶやいた。


 力の抜けたその感想は、ただ純粋に感じたことへの想いだった。


 それに段煨は大きくうなずく。


「そうだろう。それが土の恵みだ。陽の恵みだ。水の恵みだ。そういったものに、私たちは生かされている」


 これまでの楊定であれば小馬鹿にして笑うだけの台詞ではあるが、『生かされている』という言葉が妙に今の楊定には響いた。


「そうかも知れねぇって思うよ。そういうのも大切なことだって分かる気がする。でもな、俺はそういうことにただ感謝するだけで満足して生きていけるようなたちじゃない」


 段煨も楊定の言うことは理解できた。


 そういえば何年か前、許靖という人物鑑定の大家が楊定の瞳には『闘鶏』が見えると言っていた。


(こいつはやはり兵を率いてこそ輝ける人間なのかもしれない)


 それが単騎で逃げるはめになっているのだ。その心中は容易なものではないだろう。


 ただ、自分にできるのはここまでだ。あとは楊定自身がどうにか折り合いをつけて生きていかねばならない。


 そして県境まで来た楊定は、段煨に片手を上げて別れを告げた。


「じゃあな」


 それに段煨も軽い応えを返す。


「おう」


 一緒に遊んだ友達が家に帰るような気軽さだった。


 背中が見えなくなるまで見送る、などということはしない。すぐに馬を返して来た道を戻り始めた。


 それから賈詡としばらく進み、前を向いたまま尋ねた。


「……で、お前はいつまで俺のところにいるんだ?」


 その質問に、賈詡はにやりと笑った。


「なんだ、まるで俺が腰掛けに来たみたいじゃないか」


「実際そうだろう?しばらく休みたいというのは本音なんだろうが、お前はこんなところで穏やかに世を過ごせるようなやつじゃない」


「ひどい言われようだ」


「そうか?褒めたつもりだが」


 段煨にはこの天才が華陰という一地域に収まるような器とは到底思えない。


 しかも段煨には領土的野心がないのだ。


「まぁお前が俺に取って変わって華陰を治めるというのなら話は分かるがな。お前ならここから大群雄へと登りつめられるだろう」


「いや、そんなことはしないよ。むしろ華陰には今後も乱世の泥をかぶらないように、上手いこと戦を避けてもらうつもりだ。そのための助言を全力でしよう」


「それは助かる」


「お前の言う通り、どこかからお呼びがかかれば私はそこに士官して、乱世の争いに再び身を投じるつもりだ。しかしそうなった後も、華陰が平穏でいられるよう文で助言を送ろう」


「そこまでしてくれるか」


「その代わり、私が出て行った後も家族は華陰に残すから世話を頼む」


 その依頼に全く異論はなかったのだが、段煨にはそれで一つ得心したことがあった。


「お前……もしかしてこういうことを見越して安全地帯を作るため、華陰を放置していたのか」


 段煨は董卓の仇討ちに参戦しなかったが、その後に何の責めもなく統治を続けられた。


 要らぬ波風を立てないためかと思っていたが、李傕と郭汜の勢力圏に隣接しているのだから攻められてもおかしくはなかったと思う。


 華陰は段煨によって引き続き安定的に治められ、賈詡にとって長安近辺で最も過ごしやすい安全地帯となった。


「張れる予防線を張らずに行動するのは、馬鹿のすることだ」


 天才はごく当たり前のように真理を口にした。


 ただ、一点付け加える。


「でも、それだけじゃないぞ。お前の畑でできる作物は、どれも抜群に美味いからな。家族には美味いもんを食べさせてやりたいだろう?」


 そう言って嬉しげに豆を口に放り込み、ポリポリと子気味のいい音を立てて頬張った。

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