短編 熊猫と高槻王
この短編は元々本編に入れていた『熊猫と高槻王』の部分を短編集に移動させたものです。
加筆修正はしていますが話の大筋は変わっていませんので、すでにお読みの方は次話『王連』へとお進みください。
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※この作品はフィクションであり、実在する人物、地名、団体とは一切関係ありません※
「何だか怪しい店構えだな。大丈夫なのか?」
許靖はうろんげな視線をその建物へと向けた。
「そうかな?小さな飲み屋はどこもこんなものだと思うが」
特段おかしな所はない。ただ一点、店の大きさに比べて扉が妙に大きい。
裏町の飲み屋は大抵こぢんまりした入口をしているものだが、この店は通常の軽く三割は大きな扉になっていた。
だが、許靖の言うように「怪しい」というほどでもない。
陶深は臆病な許靖を笑った。
「まぁ店の中身は確かに怪しいよ」
「おい、脅かさないでくれ」
許靖はあまりこういった店に飲みに来ることはない。常連の多い小さな飲み屋でよく受ける『一見さんが入って来た時の視線』が苦手なのだ。
「びっくりはするかも知れないけど、心配する必要はないよ。入ろう」
陶深は大きな扉を開けて中に入って行った。その肩越しに見える室内が薄暗い。
今日は陶深に誘われて、
(陶深があれほど推していた店だ。悪くはないんだろう)
陶深は宝飾品の職人で、職人らしく好き嫌いがはっきりしている。
ただし、ちょっと変わったものを好むことが多い。その方が創作意欲が湧くらしい。
(悪くはないんだろうが、普通でもないんだろうな……)
許靖はやや薄暗い室内に不安を感じながらも、陶深の後を追った。
「いらっしゃい」
そう声をかけられた許靖はビクリと体を震わせた。
声に驚いたわけではない。その声の発生源が目に入ってから、反射的に筋肉が痙攣してしまったのだ。
(パ、パンダだ……!)
許靖は恐怖とともにそう思った。
パンダのようなに可愛らしい生物に恐怖、というのはおかしく感じるかもしれないが、パンダは中国語では熊猫と書く。和名は白黒熊だ。
戦闘能力も高く、野生で出会った場合の危険度は熊とそう変わりはない。
体重も大きな個体では百五十キロを超える。目の前で『いらっしゃい』と言った生物も、そのくらいの重量はありそうだった。
「ちょっと陶深さん、今日はまた一段とビビりのお客さんを連れて来たわね」
「そうだね。でも初めて
松子、と陶深が呼んだのを聞いて、許靖は初めてその生物がパンダではなく人間だと気づいた。
卓の向こう側で飲み物を用意している松子は、とにかく大きかった。
中肉中背の許靖と比べて、頭一つ以上は大きいだろう。そしてその横幅は倍ほどもありそうに見える。体積は、三倍はあるだろうか。
眼の前にいるだけで、目が覚めるほどの強烈な存在感を放っていた。
「私のこと、熊だとでも思ったんじゃない?」
「い、いや……パンダ……」
許靖はまだ驚きから立ち直れず、正直に思ったことを口にしてしまった。
動物に錯覚された松子だが、別に嫌そうな素振りも見せなかった。
「あら嬉しい。ただの熊よりも可愛いじゃない」
「あ、いえ、失礼しました」
許靖は頭を下げて謝った。
「失礼しましたって……えらく礼儀正しい人ね。もしかしてお偉いさん?」
学問として礼を教える儒教教育が隆盛したこの時代、庶民よりも権力者に礼儀正しい者が多かった。
だから松子は許靖の言動を見て、少なくとも良い教育を受けた人間だろうと推察した。
陶深はうなずいてそれを肯定する。
「許靖は中央政府で
「あらあら。侍郎さんって言ったら若手官僚の優良株じゃない。許靖さんね。お近づきになりたいわ」
松子はその巨体からするりと手を伸ばして許靖に席を勧めた。
許靖はその段になって、ようやくこの生物がこの店の主であることをきちんと認識できた。それぐらい強烈な初印象だったのだ。
陶深は狼狽する許靖を見て満足そうだった。
「どうだい、松子さんは?かなりイイだろう」
「……陶深がこの店を推す理由がよく分かったよ。普通の店じゃ体験できない感覚だ。きっと創作意欲が湧くんだろう?」
「その通り」
ニヤリと笑う陶深に対し、許靖は苦笑いするしかなかった。
許靖が座った席の隣には先客がいた。
その先客が許靖に向かって酒杯を上げてくる。
「侍郎の許靖さんやな。俺はこの店の常連で、
胡散臭い話し方ではあったが、どこか憎めない印象を受ける男だった。
明るい薄茶色、現代で言えばベージュ色の服を着込んでおり、それが不思議なほどよく似合っている。
「俺もお偉いさんとは仲良くしたいわ。あやかりたいあやかりたい……」
秦呉は両手を合わせ、拝むようにしながら笑みを浮かべた。
笑うと八重歯が覗く。それがまた絶妙な愛嬌になっていた。
「許靖です。持ち上げてくださるのは嬉しいのですが、私にはさして力はありません。お役に立てることはあまり無いでしょう」
「何を言うとるんや。侍郎っちゅうたらその権力を期待されて、あっちこっちからガッポガッポもらえるんやろ?そんでその銭を使えば、また色んなことができる。力の塊やないか」
秦呉の言うことは本来なら正しい。腐敗した後漢王朝における官職には、多くの場合様々な役得が付いてくるものだった。
しかし、許靖の場合に限っては違う。陶深がそれを説明してくれた。
「許靖は賄賂を受け取らないんだ」
あぁ、と松子・秦呉の二人は大きくうなずいた。
腐敗しているとはいえ、まれにそういう役人たちがいてくれることを二人とも知っている。
松子は陶深、許靖から注文を聞き、それを用意しながらしみじみとつぶやいた。
「清廉なお役人さんがいるのは庶民としては嬉しいけども……損といえば損な生き方よねぇ」
秦呉もうなずいて同意した。
「そうやなぁ。素晴らしいことなんやけどもなぁ」
「何言ってんの。語尾に銭ゲバ銭ゲバ付けてるアンタが言うことじゃないでしょ」
「そう銭ゲバ〜……ってなんでやねん!そんな人間おるかい!」
松子と秦呉の掛け合いに、許靖は声を上げて笑ってしまった。
陶深も同じように笑いながら許靖の肩を叩いた。
「どうだい?この店は面白いだろう。松子さんだけでも喋りが鋭いんだけど、秦呉さんが来てる日はもっと面白くなる。二人とも、とっても良い人だし」
「お、ええこと言ってくれたやん」
「でも良い人のアンタが銭ゲバなのは本当よね」
秦呉は首を大きく横に振りながら松子の言葉を否定した。
「そんなことはないで。この高槻王たる者、いつも真面目に稼いでるし、汚れた銭は受け取らん」
「高槻王?」
許靖は聞き慣れない単語を聞き返した。
陶深がそれを説明してくれる。
「秦呉さんは出身地である高槻の王を名乗ってるんだ。それで高槻王」
「はぁ……高槻王」
『王』とは本来ならば帝に封じられてなるものだ。王は一地方を領有し治めるのだが、普通は皇族などしかなれない。
与太話とはいえ王を自称するなど不敬でもあったが、ここで出た高槻という土地は地方のしょぼくれた田舎町だ。これといった産業も特色もない。
田舎町の王を名乗った所で相手にする者など誰もいないから、問題にはならないだろう。
「そう、高槻王や。高槻王には主題歌もあるんやで?パ、ピ、プ、ペ……」
「やめなさい。耳が腐るわ」
妙な歌を口ずさみ始めた秦呉に、松子がすかさず突っ込んだ。
秦呉は特に抵抗もせず歌うのを止める。
「でも高槻はええところなんやで。市も活気がある。許靖さんも一回ぐらい来てみてや」
「秦呉さんは商いをされてるんですか?」
許靖は瞳を見ながらそう尋ねた。
その問いには秦呉ではなく、松子が答えてくれる。
「不動産を転がしてるのよね。高槻王っていうより、不動産王だわ」
「誰か不動産王やねん。いや、投資家って言って欲しいわ。それに、そんなに稼げてるわけとちゃうで。稼いでたらもっと上等な店で飲むわ」
「何言ってんのよ。あんたみたいな胡散臭いの、上等な店が入れてくれるわけないじゃない」
(なるほど、確かにこの二人は揃うと抜群に面白いな)
許靖は笑いながら陶深の言っていたことに納得した。
陶深も笑いながらまた許靖の肩を叩いた。
「良い二人だろう?許靖を誘ったのは、この二人を鑑てもらいたいと思ったからなんだ」
松子と秦呉の目が一斉に許靖へと向く。
「あら、あなたが陶深さんの話してた人物鑑定家さんなのね。私ちょっと楽しみにしてたのよ」
「許靖さんって、あの
許靖は苦笑した。
知人に連れられてどこかに行くと、たまにこういう展開になる事があった。慣れっこといえば慣れっこだ。
ただ、この二人の瞳はすでに見ているが、どう言葉にしていいか悩むものだった。
「私は座興として、その人の瞳にどんなものが見えるかを口にすることがあります。ですがそれは全くの妄想です。あまり真に受けないで下さい」
「いいじゃないそれで。飲み屋での話なんて、ほとんどがその場限りの妄想みたいなもんよ。私の瞳に許靖さんがどんな妄想を広げてるのか、教えてちょうだい」
松子は許靖の卓へコトリと酒を置いた。
許靖は答える前にその酒を口に含み、その意外なほどの美味さに驚いた。香り高い酒だったが、これまで嗅いだことのないような香りがする。
続いて出されたつまみにも手を付けると、こちらもまた絶品だった。
(松子さんは変わった「天地」を持っているが、やはり感性も特殊なのだろう)
そう感じつつ、改めて松子の瞳を見やった。
「では松子さんから……松子さんの瞳には、夜の森が見えます。それはあまりに暗く、あまりに広大であるため、上から俯瞰してもどこまで続いているか分からないほどです」
「暗い森って……やあねぇ。なんだか不気味じゃない」
松子は眉をしかめてみせた。
「いえ、それが全てではありません。むしろそれは背景のようなものです」
「背景?」
「そうです。主役はその中心に立つ、金色に輝く一本の大樹です」
許靖は松子の瞳に黄金の大樹を見た。許靖も名前は知らない樹だったが、天に届くほど大きい。
「壮麗、荘厳な大樹です。暗い森は黄金の大樹によって薄っすらと照らされていて、大樹の美しさと相まってとても神秘的です」
許靖の話を聞いた松子は首を傾げた。
「それは……確かに綺麗な光景なんだろうけど、どんな意味があるのかしら?」
許靖はポリポリと頭を掻いた。
「それが私にも分かりません」
松子は肩透かしを食らったような格好になった。
「何よそれ。なんかすごそうなこと言われたような気がしたのに、さっぱりじゃない」
そうは言われても、こればかりは許靖にもどうしようもなかった。
許靖は瞳の奥に「天地」を見るが、その解釈自体は許靖の知識や経験頼りになる。
許靖の理解できない「天地」が見えた場合、何も言えることはなかった。
「とりあえず、尋常の人ではないということしか……」
「じゃあ俺は?俺の瞳には何が見える?」
秦呉が目を大きく開けて尋ねた。
「秦呉さんの瞳には市が見えますね。大きな市ですが、半端な大きさではありません。街一つ全てが市という大規模なもので、活発な商いが行われています」
「あら、やっぱり銭ゲバじゃない」
松子がそう茶々を入れた。
だが秦呉の方はまんざらでもない。
「ええやん。稼ぐのが上手そうで」
「そうですね。それに、市で売買している皆さんがとても楽しそうです」
許靖の見た秦呉の「天地」では、当人がそうであるように市の人たちが明るく楽しそうに喋っている。
人を楽しませ、自らも楽しめるという良い傾向の人格がうかがわれた。
「そうや、人生楽しんだもん勝ちやで」
「ですが……松子さんと同じように、市の街はむしろ背景ではないかと思います」
「背景?」
秦呉は先ほどの松子と同じように、そのまま聞き返した。
「そうです。街の中心に大穴が空いているのですが、それが主役ではないかと感じました。穴は暗すぎて、何が入っているのか、どこまで深いのか、全く分かりません。穴に入った光は帰ってこない、いやむしろ光を吸い込んで出さないような闇を感じます」
「なんやそれ」
秦呉は眉根を寄せて小首を傾げた。
それに対し、松子の方は手を叩いて笑った。
「許靖さんってやっぱりすごいのね。この男の腹黒さまで見えるなんて」
秦呉に続いて許靖も小首を傾げた。
(あの大穴は腹黒さなのか?確かに腹黒そうではあるが……何かもっとこう、深い闇を抱えているような……)
許靖はそう思ったが、口にはしなかった。言ったところで自分自身が理解できていないのだから仕方ない。
「とりあえず……お二人とも、どこにでもいるような尋常の人ではなさそうです」
許靖のまとめとも言えないようなまとめを聞いた陶深は、嬉しそうな声を上げた。
「それだ。それなんだよ、僕がここに来る理由は。普通ではないこと、非日常を感じることが良い刺激になるんだ」
陶深のような職人にとって、平凡や日常というものは仕事の糧になりづらいものなのだろう。
許靖のような役人にとってはそんな事もなかったが、良い気分転換にはなりそうだ。
「松子さん。私もこのお店にはまた来たいと思いますので、よろしくお願いします。お酒もつまみも美味しいですし」
許靖の言う通り、この店は酒もつまみも美味い。松子は普通ではないその感覚で良い物を見極めることが出来るようだった。
店の雰囲気と店主が魅力的で、しかも出てくるものが美味いとなれば常連にならない理由はない。
「嬉しいこと言ってくれるわね。こちらこそよろしく」
松子はそう言って、後ろの棚から何かを取り出した。
「最近、ご新規さんには記念品をあげ始めたの。つまんない物だけど、よかったら使ってちょうだい」
そう言って松子は黒く染められた手ぬぐいを許靖に手渡した。隅に白糸で『松』の字が小さく刺繍されている。
「これ渡したの、まだ許靖さんが六人目なのよ」
「ありがたく使わせていただきます」
許靖はそれを両手で受け取った。
無料配布の記念品だ。黒の色合いが上品なこと以外、特に変わった手ぬぐいではない。
まさかこの手ぬぐい一枚が厄介事の種になるとは、許靖は夢にも思わなかった。
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「あなた、起きてください。兵の方がいらっしゃってます」
「……兵?」
その単語に、許靖の頭にかかっていた
寝台から体を起こし、軽く頭を振る。体はまだ眠りたがっていたが、兵が来ているなどと言われればそうもいかない。
昨夜は
もう若くもないのでこれほど過ごすことはあまりないのだが、店の居心地が良すぎたのだ。つい陶深と共に夜ふかししてしまった。
「兵に来られる理由は思い当たらないが……すぐに出ると伝えてくれ」
許靖は花琳にそれだけ伝えると、急いで服を着替えて水場に向かった。顔を洗い、口をゆすいでから玄関に出る。
玄関にはまだ髭も生え揃っていない若年の兵が待っていた。
許靖は兵が自宅に来たことにやや警戒していたので、反射的にその兵の瞳を見た。
(獣を捕る猟師の「天地」だな。罠を使うのだろう、縄や籠、トラバサミなどの道具が多数転がっている。それと獲物が大量に吊るされているが……ちょっと数が多いような気がするな。気になる所だ。それに、猟師の手指が妙に汚れているように見えるが……)
許靖は様々なことを頭の中で考えたが、そんなことは露とも知らない兵は愛想笑いを浮かべた。
「これは許靖様、お休みのところ申し訳ございません。自分は
「戴先殿ですね。ご苦労さまです。許靖と申します」
許靖が頭を下げると、戴先は愛想笑いをいっそう深くした。
「よく存じております。侍郎の許靖様ですね。お休みのところ申し訳ございませんが、ニ、三確認させていただきたいことがございまして……」
腰の低い男だったが、誰にでもそうというわけではなさそうだった。
(瞳の奥の「天地」にいる猟師は猫背の小男だが、腰が低いと言うにはやや目つきが鋭過ぎる)
許靖はそこから、戴先はどうやら力のある相手には媚びる種類の人間らしいと判断した。
軍においても当然出世にはコネが必要になることは多い。こういう兵も珍しくはなかったし、許靖も慣れている。
「私に出来ることならいくらでも協力させていただきます。どのような事件です?」
「ありがとうございます。実は本日の明け方、裏街の路上で殺人事件がありまして……」
「殺人?それは穏やかではありませんね」
臆病な許靖は殺人と聞いて肝が冷えるのを感じた。
裏街といえば、つい先ほどまで自分たちが飲んでいた所だ。そのすぐ近くで人が殺されていたかと思うと、軽く足がすくんだ。
「物盗り目的のようです。ここ洛陽は大きな街ですから、そう珍しいわけではありませんが」
「そうですか……しかし、亡くなられた方は気の毒です」
「あ、ありがとうございます……」
戴先から突然礼を言われた許靖は、その意味が分からず疑問を顔に浮かべた。
それを読み取った戴先はすぐに説明してくれる。
「すいません、実は被害者が自分の身内なのです」
許靖は軽く目を伏せて頭を下げた。
「それは……ご愁傷さまでした。お辛いでしょう」
許靖はそう気遣ったが、戴先は首を横に振った。
「いえ、身内と言いましても産まれてこの方、数えるほどしか会ったことのない異母兄でして。正直なところ、身内が死んだと言ってもほとんど実感もないのです」
「あぁ、なるほど」
許靖は愛想笑いを浮かべたままの戴先の様子に納得した。
この時代、妾を持つ者も多かったから異母兄弟というのも珍しくはなかったし、妾は別邸に住まわせていることも多い。兄弟で疎遠ということもあるだろう。
「それで、私に確認したい事というのは?」
許靖の問いに、戴先は懐から布切れを取り出して見せた。
「実は、殺人現場にこれが落ちておりまして」
「これは……松子さんのお店の手ぬぐいですね」
もらってからまだ時が経っていないため、許靖にはすぐに分かった。上品な黒に染められた布地に、白く『松』の字が刺繍してある。
殺人現場の遺留品として、店の手ぬぐいが落ちていたということらしい。
「聞けば、あの店でこの手ぬぐいを配り始めたのはつい最近の事で、持っている者が少ないということでした」
「ええ。確か、まだ六人にしか配っていないということでしたね」
「他の兵が確認したところ、店の主人もそう申していたそうです」
ここまでの会話で、許靖は戴先がここに来た理由をだいたい把握できた。
「分かりました。その六人の内、手ぬぐいを紛失している人間が被疑者というわけですね」
「おっしゃる通りです。侍郎たる許靖様を疑っているわけではないのですが、念のため確認だけさせていただかないといけませんでして……」
許靖は身を低くしてそう言う戴先にうなずき、自室の手ぬぐいを取りに行った。
手ぬぐいは昨夜着替えた時に卓に置いており、それは当然そのままあった。
すぐに取って来て戴先に見せる。
「こちらですね」
「あぁ、ありがとうございます。これで許靖様の疑いは完全に晴れているはずなのですが……」
「まだ何か?」
「申し上げにくいのですが、上司が手ぬぐいの持ち主を全員現場に連れて来るよう命じておりまして……私のような端役としては、命じられた通りに実行するしかございませんで……」
許靖は了解した。念のため、現場で昨夜の行動などを事情聴取するのだろう。
戴先は過剰なほど何度も頭を下げた。
許靖としては戴先の卑屈とも言えるような態度は正直好きにはなれなかったが、それも仕方ないことだと思える。
(このような態度を取らなければならない人がいるのは、そうしないと怒ってしまうような嫌な人間がいるからだ。そういう意味では、この人自身のせいではない)
何が悪いかといえば、立場が弱い人間に対して横柄になる屑がいるのが悪いのだ。腐敗した政府要人の横暴による犠牲者とも言える。
許靖はそれを申し訳なく思ってもいるから、可能な限り寛容な態度でもって快諾してみせた。
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「おぉ、許靖殿。こんな所で会うとは奇遇だな」
「なに?許靖殿?」
「本当だ。許靖殿ではないか」
「先日は馳走になりました」
「おう、またあの酒を分けてくれ」
許靖は殺人現場だという場所に来てみて驚いた。捜査をしていると思しき兵たちに紛れて、見知った顔が五人も並んでいる。
曹操、孫堅、劉備、関羽、張飛が順に許靖へと声をかけた。
つい数日前に人物鑑定をした男たちだ。何の偶然だろう。
「皆さん、どうされたのです?」
許靖の問いに、曹操が答えてくれた。
「ここにいる者たちは別々にだが皆、同じ店で飲んでいたのだ。そこでもらった記念品が殺人現場の遺留品として見つかった」
「えっ?皆さんも
許靖は驚いたが、驚いた許靖を見て他の五人も驚いた。
「なに?もしかして許靖殿もか」
「はい。遺留品というのはこれですよね」
許靖は懐から手ぬぐいを取り出した。
それを確認した曹操たちの視線が一斉に張飛へとそそがれる。
許靖にはその意味が分からなかったが、それよりもこの六人がここに集まっている偶然が可笑しくなった。
「私たちは何かしらの縁があるのかもしれませんね。こうも偶然が重なると、今後も皆さんとは繋がり続けるような気がします」
許靖は五人への好意も含め、のんきな声でそう言った。
が、孫堅は目に厳しさを浮かべて返答した。
「そうかもしれんが……少なくとも一人との繋がりは切れそうだぞ」
孫堅だけでなく、曹操、劉備、関羽も厳しい目を張飛へと向けている。
五人の偉丈夫から囲まれたような格好になり、張飛はさすがに身じろぎした。
「な、なんだよ……俺じゃねぇよ。やってねぇって言ってんだろ!」
許靖はその様子を見て、ようやく状況を理解した。
手ぬぐいは六人だけに渡されたという話だった。その内の一枚が殺人現場に残されており、今六人が集まっている。
「……張飛殿だけが手ぬぐいを持っていない、ということでしょうか?」
「いや、一昨日までは確かに持ってたんだよ。だがその夜に手ぬぐいを懐に入れて飲みに出て、帰った時にはもう無かった。かなり飲んだからどっかに落としたんだろうくらいにしか思ってなかったが……」
張飛は必死に弁明したが、何を言われても無いものは無いのだ。疑われるのは仕方ないだろう。
そこへ許靖と共に現場へ帰って来た
腰を低くし、愛想笑いを貼りつかせながら張飛に尋ねる。
「昨夜から今日の明け方にかけて、何をされていました?そして、それを証明できる方は」
「宿で寝てただけだよ。個室の宿に泊まってたんだから、証明なんてできるわけ無いだろう。夜から明け方なんて誰でもそうだろうが」
「なるほど。とはいえ……手ぬぐいが無いことと合わせると状況的には十分ですので」
戴先は縄を取り出した。
それを目にした張飛は、素人の許靖から見てもはっきりと殺気立った。
「おい、ふざけるなよ。何でやってもない殺しで縛られなきゃならねぇんだ」
戴先以外の兵たちも殺気を感じ、縄を手にして集まってきた。
暴れるようなら、多人数で囲んで捕縛するしかない。
「ふざけるなって言ってんだろうが」
張飛は太い腕を伸ばした。
そして、そこからの展開に許靖は目を疑った。
張飛は二人の兵の縄を両腕にそれぞれ掴むと、縄を持った人間ごと竜巻のように振り回したのだ。
兵が兵にぶつかって薙ぎ倒されていく。張飛を中心に円を書いたように砂煙が上がった。
「やめろ張飛!そんな事をしても立場が悪くなるだけだ!」
劉備の一喝で竜巻は止まったが、回転の途中で手を離された兵たちは飛んで行き、遠巻きにしていた兵にまたぶつかった。
劉備は兵たちの隊長と思しき男へ頭を下げた。
「弟が失礼をしました。ですが、この度の犯行は物盗りが目的とのこと。この男は荒っぽいが、奪うために殺したりはせぬ男です」
「しかし……」
隊長はすぐに反論しようとしたが、曹操が横から大きな声を出してそれを遮った。
「私もそう思うぞ!……いや、捜査の妨害をするつもりはない。しかし、現場に所持品が落ちていたというだけで張飛が犯人と決めつけるのも問題があるだろう」
曹操に続いて、孫堅も張飛を擁護した。
「私も曹操殿に同意だ。縄をかけるのは早いように思う。それにおそらく……ここの兵が総掛かりで挑んでも張飛という男は捕縛できんぞ。兵の一万ほどでも用意せねばな」
孫堅はそう言ってニヤリと笑ってみせた。
曹操も同じような顔で同意する。
「そうだな。さらに言えば、そこの関羽という男も張飛に劣らぬ武力がある。それらをまとめて相手にするなら、合わせて二万ほどの兵が要るな。俺たちは手伝わんぞ」
逆に言えば、ここで二人を押さえるなら曹操と孫堅の手伝いが必須になるだろう。
ちなみにこれよりしばらく後、関羽と張飛は共に一万の兵に匹敵すると世に評されることとなる。曹操、孫堅の言うことは、あながちただの冗談でもなくなるのだ。
「は、はぁ……では今日のところは話だけ聞いて、細かい捜査を続けることにいたします」
その言葉を聞き、劉備と関羽は曹操と孫堅へ頭を下げた。
義兄二人の「かたじけない」という言葉が重なる。
当の張飛はというと、暴れる方が良かったのか不服そうに鼻を鳴らすだけだった。
隊長は兵二万という数字を真に受けたわけではなかったが、曹操と孫堅の顔を立てざるを得なかった。
(騎都尉と別部司馬とにこうまで言われて、捕縛なんかできるかよ)
それが本音だった。
曹操と孫堅の就いている役職は軽くはない。さらに言えば、曹操は祖父の代から権力者の血筋であるし、孫堅は黄巾の乱で大戦果を上げた英雄だ。
逆らうのはなかなか胆力の要ることだった。
(だが、こちらにも
隊長はそう判断した。
「少なくとも、今すぐは張飛殿を拘束いたしません。ですが今回の事件は計画殺人の可能性もある重大事件です。せめて監視だけは……」
「計画殺人?」
許靖はつい声を上げて、隊長の言葉を遮ってしまった。その場の全員の視線が許靖へと向く。
「あ……失礼しました。路上の強盗だと聞いていたので、計画殺人だとは思っていませんで……」
ただの物盗りなら、わざわざ計画してまで道行く人間を殺したりはしないだろう。よほど高価なものでも運んでいなければ割に合わない。
後から来た許靖のために、隊長は丁寧に説明してくれた。
「実は事件が起きた時間、場所がどうも臭うのです。この辺りは朝までやっているような飲み屋もあるので、人通りがない時間が限られます。加えて、殺害現場のすぐ近くに犯人が隠れるのに都合の良さそうな空樽がありました。しかも空樽には外がうまく見えそうな穴まで開いていたのです。被害者がこの時間にここを通るのを分かっていた人間が、それを待ち伏せしていた可能性があります」
許靖は説明に納得するとともに、この隊長の捜査官としての優秀さを感じた。
凡庸な兵なら、ただの物盗りとして処理しているだろう。
(しかし……計画殺人となると、罪は重いぞ)
もちろん強盗殺人も重罪だが、強盗に至る途中で死なせてしまった可能性がある強盗殺人に対し、計画殺人は初めから殺す気でいる。後者の方が罪は重くなる可能性が高い。
許靖は張飛のことを思って憂慮したが、隊長の方はむしろそれで張飛への印象を厳しくしている。
それがはっきりと口調に出ていた。
「そういうわけなので、やはり監視だけは置かせていただきます。状況を考えればそれくらいは許されましょう」
隊長は張飛ではなく、曹操と孫堅へ向かってそう言った。本来なら二人に頼む格好になっているのは筋が違うが、この際仕方ない。
そして曹操も孫堅も、さすがに監視を止めさせるだけの道理は持ち合わせていなかった。特に異論も口にせず、うなずくしかない。
そこへ先ほど張飛に吹き飛ばされた戴先が、足をふらつかせながらやって来た。
「では……私を張飛殿に付かせていただけないでしょうか。お願いいたします」
片手を上げてそう申し出た戴先に、隊長は軽く感心した。
「そうか、よく志願してくれた。頼むぞ」
先ほど見た通り、張飛は無類の豪傑だ。
戴先自身も今しがた痛い目に遭ったばかりなのに、気後れしないその姿勢は褒めるに値すると思った。
(腹違いで疎遠だったとはいえ、殺されたのは兄だということだからな。やる気が違う)
もし張飛が犯人ならば、戴先にとっては兄の仇に当たる。
戴先はまた腰をかがめながら張飛の前に行き、愛想笑いを浮かべた。
「張飛殿。私のような小虫にまとわりつかれるのは嫌かもしれませんが、どうかご勘弁を」
張飛はそんな卑屈な態度を取る戴先に対し、また鼻を鳴らすだけだった。
成り行きを見守っていた許靖はその様子に首を傾げてしまう。
(いくら疎遠でも、身内の仇に対するような態度ではないが……)
戴先の愛想笑いに違和感を感じながら、その瞳を改めて見やる。
そして色々考えているうちに、ある事に思い至った。
「まさか……」
小さくそうつぶやいた許靖の表情は、段々と険しいものになっていった。
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「あら許靖さん、いらっしゃい。今日はお一人?」
「ええ、一人です。よろしいですか?」
沈み始めた陽の美しい夕刻、
松子はその巨体からは想像もできないような美しい挙措で席を勧めた。
「どうぞ。っていうか、もう始めてる奴がいるんだけどね」
松子の言う通り、すでに店の卓には一人の男がついて飲み始めていた。
「まいど。二回目の来店ありがとうな」
この男は別にここの店員ではないのだが、『まいど』という言葉がやたらと似合う。
「良かったな松子。一回こっきりやなかったちゅうことは、もう許靖さんはご
「ありがたいわねぇ。でも、この間あげた手ぬぐいのせいで厄介事があったんじゃない?」
店の手ぬぐいが殺人現場の遺留品として見つかったのだ。当然松子のところにも兵は来ていたし、事情もよく理解していた。
「私はちゃんと手ぬぐいを提示できたのですぐに疑いは晴れました。ですが、張飛殿が……」
「えっ?落ちてたのは張飛さんのだったのね」
松子は口に手を当てて目を丸くした。
もちろん手ぬぐいを渡した六人の内、誰かが被疑者になるとは分かっていた。しかし、それでも顔を知っている人間が殺人犯だと言われるのは、やはり衝撃ではあった。
「でも……あの人、強盗殺人なんてする人じゃないわよ?ちょっと荒っぽいけど、根は優しい人だと思うの。私も許靖さんほどじゃないけど人を見る目はあるつもりよ。こんなお店なんかやってて、たくさんのお客さんと話すから」
「せやな。俺もあのいかつい兄さんは悪人やないと思う。っていうか、手ぬぐい渡された六人全員とも強盗殺人なんてしなさそうやけどなぁ」
許靖も松子と秦呉の二人と全くの同意見だった。
ここにいる三人はそれほど深く張飛と接したわけではないが、それでも伝わるものはあるものだ。
「お二人が冤罪だと思っているなら話が早い。実は張飛殿のために、協力していただきたいことがあるのです」
松子と秦呉は顔を見合わせた。
「協力?……そりゃ張飛さんの冤罪は晴らしてあげたいけど、私みたいな飲み屋の主人にできる事なんてあるかしら?」
「そうや、俺みたいな投資家にできる事なんてあるんかいな?」
許靖は笑顔で頭を下げた。
「ええ。飲み屋の主人と投資家の方にこそ、調べていただきたいことがあるのです」
そう言われた二人は、不思議そうな顔をして再び顔を見合わせた。
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翌日の夕刻、許靖、
「許靖さんの言った通りだったわよ。
松子の言葉に、許靖は頭の中で何かがピタリとはまったような感覚を覚えた。
「やはりそうですか。張飛殿と戴先殿はどこかで接点があるはずだと思っていたのですが……」
許靖はそう考え、松子に頼んで同業者である飲み屋の人間たちに当たってもらっていたのだ。
張飛は大の酒好きでよく飲み歩いている。ならば飲み屋を探るのが第一だと思っていた。
「しかも殺された腹違いのお兄さんと一緒に飲んでたらしいわよ。なんだか険悪な雰囲気だったらしくて、店のご主人がよく覚えていたわ」
松子の言葉を受けて、秦呉が大きくうなずいた。
「険悪な雰囲気だった理由は俺の方で調べがついたで。最近二人の親父さんが亡くなったらしい。この親父さん、結構な大きさの屋敷や土地を複数持ってはったらしくてな。遺産の取り分で揉めてたらしいわ」
「なるほど、動機も十分ですね……」
二人の父は、妾を別邸に住まわせる程度には経済的余裕がある男だ。
それなら動機に財が絡んでいる可能性があると考えて、そちらの調査を秦呉に頼んでいた。
不動産を転がしたりする投資家だから、様々な人間の所有している資産を調べる伝手があるだろうと踏んだのだ。
「なんか聞いたら、明らかに兄貴の取り分の方が多かったらしいわ。親父さんの遺言っちゅうことらしいけど、遺言聞いたのは兄貴の方で本当に本人の意思かどうかも怪しいとかなんとか」
許靖の頭の中でまた一つピタリとはまる感覚があった。こうなると、ただの偶然とは思えない。
「やはり……私は戴先殿が真犯人で間違いないと思うのですが」
張飛が捕縛されかけたあの日、許靖はその可能性を考えた。
初めは自分でも何を妄想のような事をと思ったのだが、松子と秦呉に調べてもらった結果からすると、どうやら妄想ではなさそうだった。
松子も秦呉も、まさかの展開に驚いている。
「つまり戴先って人がお兄さんと遺産で揉めた結果、お兄さんを殺して張飛さんに罪を着せようとしているってことね」
「そういう事やな。手ぬぐいなんて飲み屋で卓に置いて厠にでも行けば、無くなってたって気づかんもんな。状況次第でいくらでも盗れるわ」
松子はそれを聞いて報告すべきことを一つ思い出した。
「そうそう、私が店の手ぬぐいを発注した業者さんにも聞いたんだけど、戴先って人はそこの出入りの兵らしいわよ。あやふやだけど、うちの店がご新規さんに配る手ぬぐいだって話もしたかもしれないって」
どこの店や業者でもそうだが、何か厄介事があった時のために兵と懇意になっていることは多い。警羅中にちょっともてなしてやったり、場合によっては小金を握らせたりして、いざという時に頼るのだ。
この頃は現代のように警察機能が十分ではない。言ってみれば、自衛行為のようなものだった。
「黒染めの手ぬぐいという物もあまり無いでしょうし、記憶に残ったのかもしれないわね。でも許靖さんはどうして戴先さんが犯人だって思ったの?」
「そうや、何か怪しいところでもあったんかいな?」
松子と秦呉から尋ねられ、許靖は正直に言うべきか迷った。
が、この二人にはすでに瞳の奥の「天地」を話している。それに協力してもらった手前、適当にお茶を濁すのも申し訳ない。
「実は、戴先殿の瞳には罠を使う猟師が見えました。その手指が汚れていたのです」
「汚れ?なんの汚れや?」
「おそらく血の汚れだろうと私は思いました。たった今、罠にかかった獲物を手にかけたように見えたのです」
松子も秦呉も驚いた。
「許靖さん、人物鑑定だけじゃなくてそんなことまで分かるの?しかも手に付いた血の汚れだけでそこまで読めるなんて……」
「いえ、手の汚れだけではありません。猟師の後ろには捕獲した獲物がたくさん吊られていたのですが、その数が多すぎるように思えました。おそらく蓄財の好きな人なのだろうと見受けられまして」
「なるほど、それで俺に資産関係を洗わせたんやな……いや、参った。正直、許靖さんの人物鑑定は与太話くらいに聞いてたんやけど、世の中にはホンマもんがおるもんやな」
「ホントねぇ……」
二人ともさすがに許靖の能力をここまでとは思っていなかった。
しかし、驚いてばかりもいられない。松子は困ったようにつぶやいた。
「でも……これからどうしましょう?」
それが問題だった。
許靖も悩んだ。松子と秦呉が調べてくれている間ずっと考えていたが、妙案は浮かばない。
(遺産争いという動機があったところで、犯罪の証拠にはならない。同様に、手ぬぐいの盗難にも証拠はない。いつだかの
今回の調査結果は直接的な冤罪の証明ではなく、真犯人の示唆だ。
真犯人の検挙が叶わなければ、張飛の疑いも晴れない。
(あんな善い人が冤罪で裁かれるなんて……)
許靖はあの生命力あふれる快活な声を耳に浮かべつつ、その名をつぶやいた。
「張飛殿……」
「呼んだかい?」
店の扉が開く音とともに、ちょうど思い出していた声が許靖に降りかかった。
「張飛殿!?」
許靖は驚いたが、秦呉と松子はごく普段通りに客を迎え入れた。
「おう、久しぶりやな。なんや災難なことになったみたいで」
「いらっしゃい、張飛さん。ちょうどあなたの冤罪を晴らすための作戦会議をしていたところなのよ」
「なに?そいつはありがたい話だが……」
張飛はドカリと許靖の隣りに腰を下ろした。
「なんだかすまねぇな。色々気を使わせちまって」
「そんな事、気にしなくていいのよ。張飛さんの人徳がそうさせてるだけなんだから」
「人徳?ハッハッハ。俺の、徳か」
徳で褒められることなど滅多にない張飛は笑い声を上げた。
松子も秦呉もそれに誘われて笑ったが、許靖だけは焦っていた。
「ちょ、張飛殿……監視中にこのような所へ来て大丈夫ですか?戴先殿は?お一人ですか?」
真犯人と疑われている戴先が監視役なのだ。もしそれが周りにいるなら、松子のように冤罪がどうのという話をしてはまずい。
しかし、松子は落ち着いた様子で許靖をなだめた。
「大丈夫よ、許靖さん。少なくとも店の周りには誰もいないわ」
「せや。俺らはいっつもこの店におるからな。周囲に人がいる時の気配くらい、分かるようになるもんなんやで」
秦呉も松子に同意し、張飛自身もそれを肯定した。
「戴先の野郎なら来てねぇよ。意外と話の分かる奴でな、俺が飲みに行きたいって言えば別に止めもしねぇし、付いても来ねぇ」
許靖、松子、秦呉は顔を見合わせたが、張飛は嬉しそうに言葉を続けた。
「監視って言われてたから、窮屈な生活を想像していたんだがな。四六時中いるってわけでもないし、別に禁止されてることもない。特に飲みに行くなとか言われたらどうしてやろうかと思ってたが、監視役があいつで助かったよ」
許靖は頬を掻きながら、自分の推察を述べた。
「……恐らくそれは、張飛殿を逃がそうとしているのだと思います」
「なんだって?どういう事だ?」
許靖は事情を説明した。
戴先と被害者が兄弟であり、遺産相続で揉めていたこと。張飛が手ぬぐいをなくした店でその二人も飲んでいたこと。あの手ぬぐいを持っている人間が少ないことを知っていたであろうこと。
そして戴先の瞳の奥の「天地」が罠を使う猟師で、今しがた罠にはめた獲物を仕留めた所であったように見えたこと。
それらを聞いた張飛は、先ほど許靖の言っていたことに納得した。
「なるほどな……つまりあの野郎からすれば、俺はこのまま逃げてくれた方が都合がいいってことか」
「おっしゃる通りです。被疑者逃亡のまま事件がお蔵入りになるでしょう」
張飛は盛大に舌打ちした。
「どうりで……あの野郎、俺に『西門の番兵は夜の閉門時間でも銭を握らせれば通してくれますから、絶対そっちには行かないでくださいね』なんて抜かしやがったんだ」
「それは……」
「ああ。冗談にしてもまずいこと言ってんじゃねぇかと俺も思ったよ。だが、本気で俺にそうさせるつもりだったんだな」
秦呉は張飛の言うことにうなずいた。
「西門が通れるのは結構有名な話やからなぁ。洛陽から逃がすつもりなら、一番勧めやすそうな逃亡路や」
「よし、ちょいと行ってくる」
無造作に立ち上がった張飛の袖を許靖が慌てて掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!行くって、どこへ?」
「そりゃ戴先の所だよ。あのへっぴり腰をぶっ飛ばしてくる」
当たり前のように言う張飛に、許靖は袖を握る手に力を込めた。
「戴先殿が真犯人だという確実な証拠はありません。この状況でそんなことをすれば、新たな罪を被るだけです。兵たちの心証も悪くなりますし、それこそ戴先殿の思う壺ですよ。劉備殿たちにも迷惑がかかります」
劉備の名前を出されると、張飛は弱い。渋々ながら再び腰を下ろした。
「……面倒くせぇことになったな」
それから許靖へと向き直り、豪快な動作で頭を下げた。
「許靖殿、すまねぇが力を貸してくれないだろうか。ようやく兄貴が世に出る好機が来たんだ。ここで迷惑はかけられねぇ」
許靖、松子、秦呉の三人は、張飛の男らしい頼み方に惚れ惚れする気持ちになった。劉備を思う気持ちが肌に伝わってくる。
が、どうにも方策が立たない。
「我々も今それを考えているのですが、上手い方法が見つかりませんで……」
四人はしばらくの間、黙って考えた。しかし、具体的な案は浮かんでこない。
浮かんで来ないなりに、松子が一つ提案した。
「せっかく許靖さんに変わった力があるんだから、そこから何か考えられないかしら」
「そうやな、とりあえずそこに糸口でもないか探そうや」
秦呉にもそう言われた許靖は、戴先の瞳の奥の「天地」を思い浮かべた。
「そうですね……しかし、私に見えたものは先ほどお話したものがほとんどです。中心に猟師がおり、獲物が大量に吊られ、罠に使う道具と思しき物がたくさん転がっています。縄や穴を掘る道具、籠や踏むと足を挟む器械……」
改めてそれを聞いた張飛は、戴先のことで、
(そうか)
と思えたことが一つあった。
「猟師の中でも、そいつは『罠師』って奴だな。だからあの野郎は妙に腰が低かったんだ」
許靖は張飛の言うことがよく理解できなかった。
「罠師だと、腰が低くなるんですか?」
「罠師が使う罠には大きく二通りある。一つは獣が通りそうな道に適当に置く罠、もう一つは獲物を餌付けしてから置く罠だ。餌付けしてから置く罠は、とにかく獲物に気を遣って喜ばしてやらなきゃならねぇ。獲物に対しちゃ腰も低くなるだろうな」
許靖には意外な事実だった。
戴先の腰の低さはただ力のある人間に媚びているだけだと思っていたが、そういう側面があったとは。
(蓄財傾向のある戴先殿にとっては、会う人間は全て獲物に見えるのかもしれない)
許靖はそう思った。
「猟師に詳しいんですね」
「実家が肉屋でな。その辺りのことは自然に覚えちまう」
許靖は自らの力不足を痛感した。
許靖の能力は、あくまで瞳の奥の「天地」を見ることだ。そこから何をどう解釈するかは、許靖自身の知識と経験とが要る。
猟師に関しては明らかに知識不足だった。
「張飛殿。他にも罠師の特性などあれば、ぜひ教えてください」
張飛はボリボリと頭を掻きながら記憶を探った。
「特性って言ってもなぁ……あぁ、そういえば罠師が妙に浮かれる日ってのがあるな」
「浮かれる?それはどんな日です?」
許靖は勢い込んで聞いた。
韓儀の時もそうだったが、浮かれた人間には必ずつけ入る隙が生まれる。さすがにあの時のような自白は期待できないだろうが、何か糸口が見つかるかもしれない。
「熟練の罠師は、順調に餌付けされた獲物がいつ実際に捕まえられるかが分かるらしい。半端に餌付けして罠を設置しても、不思議とかからないらしいんだよ。罠師はその日を待ち望みながら獲物を喜ばせてやるわけだな。そんで、その日が来た時には朝からもうホクホク顔よ。罠を見に行くのが待ち切れなくなるほど楽しみらしいぜ」
話を聞いた許靖は、頭の中でまた何かがピタリとハマったような感覚を覚えた。
うつむいて口元に手を当て、今の話をまとめる。
「なるほど……獲物が罠にかかる時、強く浮かれてしまう。そして、その罠に獲物がかかったのを見るのがとても楽しみだ、と」
「なんや、ええ考えが浮かんだか?」
許靖の横顔に何かを感じ取った秦呉がそう尋ねた。
許靖はその姿勢のまましばらく黙考し、それから口を開いた。
「一つ作戦を思いついたのですが、上手くいくかどうか覚束ない所があります。出来るだけ浮かれてくれれば、成功する可能性が上がると思うのですが……」
人は浮かれれば油断もするし、自制も効かなくなる。そうすれば上手くいくと思った。
秦呉は許靖の話を聞き、八重歯を見せて胸を叩いた。
「そんなら、浮かれさせるのは俺らに任せとき。そういうのは得意中の得意やで。なぁ松子?」
そう言って松子の方を振り向く。
松子も同じように自らの大きな胸を叩いた。
「人を楽しませるのが仕事だからね。それをやり過ぎたら、浮かれさせちゃうことだってあるわよ」
別にこの巨体だからではないだろうが、松子の言うことにはやたらと信頼感、説得力があった。
張飛はそんな二人にまた頭を下げた。
「すまねぇ。よろしく頼む……で、許靖殿。どうやってあいつが犯人だって分からせるんだ?」
問われた許靖はその臆病さでまだ不安を感じつつも、それを振り払うために強い口調で答えた。
「罠師を罠にはめてやりましょう」
***************
(美味い)
そう思った。
良い酒だ。やや甘口で飲みやすく、つい過ごしてしまいそうな酒だった。
「あらぁ、いい飲みっぷりねぇ。もう一杯どうぞ」
松子がすかさず次を注いだ。そこへ秦呉の声が重なる。
「ホンマええ飲みっぷりや。こういう男ぶりのええ人間との売買はだいたい成功するからなぁ。戴先さんと取引できてよかったわ」
「いえいえ、こちらこそ。良い値で買っていただいて、ありがとうございます。遺した土地や屋敷を高く評価していただいて、父も喜んでいると思います」
秦呉は戴先に父の遺産である不動産を買い取ることを持ちかけたのだった。しかもかなりの高値だ。
(相場の五割増しだぞ?なんて幸運だ。その銭ですぐ別の土地を買うだけでも資産が膨れ上がる)
戴先はそう思い、すぐに食いついた。
(実際に銭を受け取ったら、もう兵士なんて儲からない仕事は辞めだ。不動産を賃貸に出して、その銭で遊んで暮らしてやる)
そんな事を夢見ながら、先ほどまで秦呉と細かい打ち合わせをしていた。そして合意が得られ、その打ち上げとして松子の店で飲んでいる。
松子はつまみを勧めながらしみじみと言った。
「でも、お父様に感謝よねぇ。それだけのものを遺してくれていたんだから。きっと戴先さんの事が可愛かったのね」
戴先は寂しそうに笑った。
「いえ、少なくとも私は可愛がられてはいませんでしたよ。私は妾の子で、父は正妻の子である兄ばかり大切にしていました。私がいくら尽くしても、父にとって私はいないのと同じようなものでしたね。それに兄からも邪険にされていましたから、父の周りに私の居場所はありませんでした」
「それは……ひどいお兄さんね。でもじゃあ、その悪いお兄さんはもっと遺産をもらったのかしら」
「……先日、強盗にやられて死んでしまいまして……」
「あらそうなの。それで遺産が」
戴先はさすがに兄の死については話しにくそうにした。
しかし、松子はすかさず助け舟を出す。
「でもそれはきっと、天が戴先さんのことを見てくれていたんだと思うわよ?今までお兄さんに取られてた分の幸せを、ちゃんと返してくれたのよ」
「そ、そうでしょうか?」
「絶対そう。だからお兄さんの遺産をもらうのだって気にしなくっていいわよ。それに戴先さんって偉いわぁ。そんなにされてもお父様のこと思ってらっしゃるんだもの。息子の鏡よ」
「……分かってくれますか」
「ええ、相当な孝行者だと思うわよ。お父様だってあの世で目が覚めてるわ。戴先さんこそが、本当の息子だったなって」
松子は戴先の父への思いを敏感に感じ取り、そう言ってやった。
実際、それは戴先の心に深く響いた。
(俺の気持ちを分かってくれる。認めてくれる)
そう思えることは、そこに居場所があると感じられることだ。
戴先は初めこの店に入った時、許靖と同じように松子の巨体を見て身構えてしまった。
だがこうして話してみると、居心地が良いと感じられる。それは初めに警戒心を持ってしまった分、いっそう強い好感となって現れるのだった。
(最近は本当についているな。嫌な兄貴も始末できたし、遺産も手に入った。その遺産も高値で売れそうだし、良い店も見つけられた。しかもあの馬鹿な張飛はそろそろ洛陽から逃げ出すはずだ。そしたら後顧の憂いも無くなる)
戴先は張飛の虎髭を思い出し、また一つ愉快な気持ちになった。
ここの所、張飛はしきりに脱走を匂わせる言動をしていた。
洛陽から伸びる街道を調べたり、保存食を買い込んだり、今日などは大荷物をまとめていたのだ。
それこそ今晩いなくなってもおかしくはない。
「いやぁ、今日は本当に良い日です。良い取引ができ、良い店に巡り会えた」
戴先はまた上機嫌に酒をあおった。
松子も秦呉もそれを囃し立て、戴先はただただ楽しい時を過ごしていった。
(そろそろやな)
(そろそろね)
秦呉と松子は戴先の浮かれ具合を見て、互いに目配せした。
目だけでうなずき合い、それから秦呉が一つ大きなくしゃみをした。
(不器用な男ね。わざとらしい)
松子はそう思ったが、戴先はだいぶ酔っていたため全く気にしなかった。
くしゃみは店の外まで聞こえる。そして、それを聞いた者が扉を開けて入って来た。
「こんばんは……あれ?戴先殿ですか?」
「これはこれは、許靖様」
入って来たのは許靖だった。
(許靖さんもあんまり器用じゃないわね)
松子はそう思ったが、戴先はそれもやはり気にならなかったようだ。ごく普通に頭を下げて挨拶をした。
許靖はそんな戴先と店の外とを交互にキョロキョロと見た。
その様子に戴先が尋ねる。
「どうかされましたか?店の外に何か?」
「いえ、先ほど張飛殿とすれ違ったのです。しかもえらく大荷物を抱えて、西門の方へ向かっていました。戴先殿は張飛殿の監視が任務と聞いていましたから、今ここにいるのが不思議で……」
言われた戴先は非常に微妙なを表情を浮かべた。
歓喜すべき事と困った事とが同時に来たのだ。
(やった!ついに張飛が逃げるぞ!……だが、官僚の許靖にサボっているのを見られたのはまずい。上手くごまかさねば)
そう思い、酔って鈍くなった頭を必死に回転させた。
「……今日だけ同僚に監視を代わってもらったのです。そいつが張飛殿に
我ながら上手く答えられたと思った。
同僚の誰かに銭を握らせて口裏を合わせておけば、もし後で問い詰められても大丈夫だ。
(だが、さすがにこのまま飲み続けるわけにはいかないか。追う素振りだけでも見せねば)
そう思い、立ち上がりかけたところで妙案を思いついた。
(……そうだ!張飛の馬鹿が西門を出ていく所を隠れて見物してやろう。あの獣のような男が俺のかけた罠にかかってすごすご脱走していく様は、さぞ見ものだぞ)
戴先は許靖たちが見ているにもかかわらず、会心の笑みをこぼした。
隠れて見物しようとしているのが見つかった場合の危険も一瞬だけ脳裏をよぎったが、高揚させられた気分がそれを全て洗い流してしまった。
卓に酒杯を置き、ホクホク顔で立ち上がる。多少酔いのせいでふらつきを覚えたが、歩くのに支障があるほどではないだろう。
「西門の方ですね。情報提供、感謝いたします」
それだけを言うと、足早に店を出て行った。
飲み代を置いていないが、興奮してそんな事は思いつきもしなかったようだ。
戴先がいなくなってからしばらくして、秦呉がポツリとつぶやいた。
「……わっるい顔してはったなぁ」
「ホントねぇ。あれじゃ許靖さんじゃなくても心の中が丸見えだったわ」
秦呉と松子の言う通り、作戦はほぼ成功したように思えた。
許靖の見た瞳の奥の「天地」でも、罠師の男がニヤニヤと浮かれながら歩いていた。罠にかかった獲物を見に行こうとしていたのだろう。
「これで後は二重尾行の人たちが上手くやってくれれば成功ね」
作戦の要点はそういう事だった。
つまり、張飛を尾行する戴先をさらに尾行し、隠れて見物しているのを確認するのが目的だった。逃亡を止めようとしなかったという事は、張飛を意図的に逃がそうとした事の証拠になる。
許靖は事前に捜査の隊長とも話し合っており、
『もしこれを確認できれば、他の状況証拠と合わせて戴先を最有力の被疑者とみなす』
という合意をすでに取り付けている。
「少なくとも、二重尾行をする者たちの人選については間違いはないでしょう。曹操殿、孫堅殿の推薦ですから」
許靖は曹操と孫堅にも相談し、協力を要請していた。
そして二人とも快く手飼いの部下を派遣してくれた。
戴先は自身が兵であるから、もし同僚が二重尾行の担当になったら同情で手を抜かれる危険性がある。だから部外の人間を使いたかった。
それに、曹操も孫堅も生死をかけた戦場で部下たちを使ってきたのだ。二人が選んだ人間ならその能力も信頼が置けるだろうと許靖は考えた。
秦呉が酒杯を上げて松子に酒をねだった。
「んじゃ、俺らはもうここでいつも通りダベりながら待ってればええだけやな」
「お疲れ様でした。お二人の協力がなければ、こんなに上手くいかなかったでしょう。今日の飲み代は私に持たせてください」
「そりゃありがたいけど、戴先の分まで払うんかいな?結構ええ酒飲んでたで?」
「あぁ、そうか……でも仕方ないですね」
「そいつは太っ腹やな。んじゃ、その太っ腹に乾杯しようか。許靖さんも飲もうや」
秦呉の言葉を受けて松子は許靖の分の酒も用意しようとしたが、許靖はそれを止めた。
「いえ、私は作戦の結果がちゃんと分かるまで酔う気にはなれません」
「あら、そう?じゃあ、お茶でも煎れようかしら。ちょうど許靖さんの奥様からいただいたお茶があるのよ。いい香りしてたわ」
「えっ、花琳から!?ど、どうして……」
許靖は頬が引きつった。
別にやましい事などないが、妻が自分の行きつけの飲み屋に来たなどと聞けば、どの夫も心臓を握られたような気分になるだろう。
松子は笑って教えてくれた。
「奥さんね、殺人事件にうちの店が絡んでるって聞いたからちょっと話を聞きに来たって言ってたけど……多分、半分以上は嘘ね。美人がお酌してくれる種類のお店だと思ったんじゃないかしら。ちょっとヤキモチ焼きでしょう?」
「ははは……そうですね……」
(ちょっとどころか、命の危険すら感じることもあるが……)
許靖はそう思ったが、さすがに口にはできなかった。
秦呉が頬の引きつった許靖を見て笑った。
「大変やなぁ妻子持ちは。でも男子たるもの、女には嫉妬されてなんぼやで?この高槻王、一体何千人の女を嫉妬に狂わせたか」
「まぁこの馬鹿の言うことは置いておいてもよ、女の嫉妬心を受け入れる男の器って大切よ。私はそれもいい男の要件だと思うの」
「はぁ、肝に銘じておきます」
許靖は生返事をしながら、
(この人の言うことには、やたら説得力があるんだよな……)
そう松子の言葉の不思議について考えていた。
そんな与太話を繰り返しながら、時間は過ぎていった。
***************
夜がさらに更け、登っていた月が下りかけた頃に、松子がすっと人差し指を立てた。静かに、という意味だ。
耳を澄ますと、遠くで何やら人の叫び声が聞こえるような気がする。
夜は気温の関係上、高く上がった音波が地上に向かって屈折するために遠くの音までよく聞こえる。
「あれ……
松子の言う通り、兵たちが声を掛け合って誰かを追っているようだった。
「戴先が逃げてるんかいな?……という事は、二重尾行自体は成功したってことやな」
許靖も秦呉と同じことを思ってうなずいた。
もし今追われているのが戴先だとしたら、張飛が門から出ていくのを何もせずに見物している所を確認できたということだ。さすがに曹操と孫堅推薦の尾行者は優秀だった。
あとは通常の兵たちの仕事だが、その捕縛が順調ではないのかもしれない。
「なんか……騒ぎがだんだん近くなってくるな」
秦呉が立ち上がって店の外へ出てみた。
許靖と松子もそれについて行き、三人で兵たちの声が聞こえる方を眺めた。
声はまだ遠かったが、確かに近づいているように感じられる。
しばらくすると、地面を蹴る音と激しい息切れとが聞こえてきた。
月明かりの中、道の向こうに一人の男が現れる。
「戴先殿……」
許靖のつぶやき通り、それは戴先だった。
戴先は道に人がいることに驚いたが、兵ではないと分かるといったん安心して表情を緩めた。
が、許靖の顔を認めると、すぐにまた険しい顔に戻った。
「許靖様……いや、許靖!よくも俺をハメやがったな!」
怒りをぶつけられた許靖は、たじろいで一歩下がった。しかもちょうどそこに木箱が置いてあり、踵をつまずかせて尻もちをついてしまった。
不格好だが、臆病な許靖は這いつくばって後ろに下がっていく。
そこへ松子と秦呉が一歩進み出た。
「許靖さんを恨むのは筋違いでしょう?あなたがまず張飛さんをハメようとしたんだから」
「せや。
秦呉はそう言ったが、実際のところは諦めなければならない状況とも言えなかった。
戴先を追う兵たちの声が、まだかなり遠いのだ。もしかしたらこのまま逃げ切れるかもしれない。
「お、お前たちもグルか!?……だが、俺は捕まらんぞ。あの数の兵を
まだ這いつくばったままの許靖は自分が数に入っていないことが気にはなったが、戴先の言うことはもっともだと思った。
ここまで逃げおおせたのだから、自分たちくらい物の数ではないだろう。
しかし道幅はそれほど広くはない。松子と秦呉が立ちはだかり、木箱がいくつ置いてあるだけで道はほぼ塞がれていた。
戴先は一歩踏み出した。回れ右しないのは、この道を引き返せばそれなりの距離を兵たちの方へ戻ることになるためだ。松子と秦呉を突破しようと考えた。
戴先は体を地に沈め、腕を振った。足元の石を掴んで秦呉へ投げつけたのだ。
「おわっ!……危ないなぁ」
秦呉は間一髪でそれを避けたが、許靖と同じように尻もちをついた。
それでも戴先は足を掴まれる可能性を考慮し、秦呉の方へは向かわなかった。
松子の方へと駆け出す。
(この巨体ならそう素早くは動けんだろう。せいぜい両手を広げて立ちはだかるぐらいか。その脇をすり抜けてやる!)
そう予想しての選択だった。
が、予想はいきなり外れた。松子は思っていたよりもずっと素早く動いた。しかも、戴先の方へ向かって走り出したのだ。
いや、正確に言うと戴先との直線方向ではなく、その側にある木箱に向かってだ。
「いったれ松子!」
秦呉の声に応えるように、松子は木箱を踏み台にして跳んだ。
いや、飛んだと書いた方がよく表現できるかもしれない。それほどの高さだった。
そして、そのまま体ごと戴先へと落ちていく。
現代のプロレスやルチャリブレにおいて『ダイビングボディプレス』などと呼ばれている技だ。
多分にショー的な要素を含む技ではあるが、松子の体重は軽く百キロを超えている。それが相当な高さから落ちてくるのだから、その破壊力や推して知るべし、といったところだ。
後に病床で取り調べを受けた戴先は、この時の記憶を恐怖とともにこう語った。
「空が……空が落ちてきたんだ……」
***************
「皆様、愚弟のためにご尽力いただき……本当に、本当にありがとうございました」
劉備は感極まった様子で礼を述べた。
場所は松子の店だ。戴先が罪を認め、張飛の無罪が確定してからの打ち上げだった。
松子、秦呉、許靖だけでなく、関羽、張飛、曹操に孫堅もいる。
曹操と孫堅は忙しい中なんとか時間を作ってくれた。二人とも、劉備三兄弟とどうしても飲みたかったらしい。
夕方から飲み始め、もう夜ふけだ。皆それぞれに杯を傾け、すでにかなりの酒が入っていた。
実は、劉備はもう五度も全く同じ文言で礼を述べている。酒がそうさせているのだろう。
ただし、感謝の気持ちは心からのものだった。張飛は下手をすれば死罪になっていてもおかしくはなかったのだ。
劉備はずっと、
(もし張飛の有罪が決まったなら、我らの黄巾の乱での報奨を引き換えにしてでも助けよう)
などと考えていた。それはもう一人の義兄である関羽も同じだ。
関羽は目の前に座る曹操に頭を下げた。
「私からも改めてお礼申し上げる。この恩は、いつの日か必ずお返しいたします」
孫堅も曹操と同じだけの働きをしてくれたのだが、関羽は元々曹操に対して強い敬愛の念を抱いている。今回の件で、それがより一層強くなったらしい。
「気にするな関羽。私はお前たちのような豪傑が世から消えるのが惜しかっただけだ。孫堅殿だってそうだな?」
曹操に話を振られた孫堅は豪快に酒杯を干してから首肯した。
「ああ、その通りだ。お前らのような面白い若者がいるから、世の中は楽しいんだ」
松子も孫堅に酒をつぎながら同意した。
「私もそう思うわ。張飛さんの若さを見てると、危なっかしさもまた魅力に映るのよねぇ」
曹操はその言葉にうなずきながらも、自然に人材としての張飛の足りない部分を考えてしまった。
人材愛好家の悪い癖だ。
(特に関羽と比べてしまうと、やはりもう少し学がなければ……)
そう思って、つい要らぬことを口にしてしまった。
「しかし今回の件で、張飛も腕力で解決できないことがあるとよく分かっただろう。もっと関羽を見習って少しは学問をだな……」
一番嫌いな説教を始めた曹操に、張飛はムッとした。
「俺の腕力はなぁ、ほとんどのもんを解決できるだけの力を持った腕力なんだよ。どっかのボンボンみたいに甘っちょろく育てられてねぇからな」
言い返された曹操もまたムッとした。
「何?……じゃあ、試してみるか?」
曹操は卓の上に肘をつき、張飛へ挑むように腕を向けた。腕相撲での勝負を持ちかけているのだ。
張飛はその挑発に嬉々として食いついた。
「おもしれぇ、やってやろうじゃねぇか」
関羽がそれを止めに入った。
「おい、よせ張飛。曹操殿、弟が失礼を……」
「いいんだ関羽。私がただのボンボンかどうか、見せてやろう」
「おう、見せてもらおうか」
曹操と張飛は、互いの手を握り合った。
そこへ秦呉が楽しげに寄って来る。
「面白そうなことになってるやん。よし、この高槻王が厳正なる審判を務めたろ」
秦呉は二人の手の上に自分の手を重ね、一、ニ、三と拍子を取ってからパッと放した。
次の瞬間、曹操と張飛の手の間に強烈な力がかかる。
意外なことに、それは真ん中で拮抗したまま止まった。あまり知られていないことだが、史書でも曹操は人並外れた腕力を持っていたとされる。
が、張飛の腕力は本人が自負している通り、相当なものだ。曹操が自分と良い勝負をしていることに驚いた。
「や……やるじゃねぇか」
「ふっふっふっ……張飛よ。お前、腕相撲は腕力だけの勝負だと思っているだろう?」
「なんだと、違うのか?」
「だからお前は学が足らないというのだ。腕相撲には手の握り方、手首の返し、体重のかけ方、卓の持ち方など、様々な要因が……」
言われた張飛は素早く曹操の体の形を見て取った。
「なるほど、こうか!」
「ぁあ!しまった!」
張飛がぐんぐんと曹操を押し始め、松子と秦呉が声を上げてそれを囃し立てた。
孫堅はそれを眺めがら、隣りに座った許靖へ呆れたようにつぶやいた。
「まったく……まるで子供だな」
許靖は二人の瞳を見ながら、しみじみとうなずいた。
「おっしゃる通りですよ。広い大地で子供がはしゃぎ回っています」
「そうか。許靖殿にはそう見えるのか……いや、許靖殿のような能力がない私にもそう見えるな。愉快な連中だ」
そんなことを話している内に、勝負がついたようだ。
張飛が腕を上げ、曹操が口惜しそうに卓を叩いていた。
その周りで松子と秦呉は手を打って盛り上がり、劉備と関羽も楽しそうに眺めている。
「よし、次は俺が相手だぞ」
そう言って張飛へ挑んでいく孫堅の横顔は、まるで大地を駆け回る虎のようだった。
許靖が見たところ、ここにいる者たちは皆、尋常な人間ではない。それがひと所に集まって酒を酌み交わしている。
その奇跡に目がくらむような思いすらした。
許靖は今、この時間が楽しかった。いつまでもここにいたいと思ったし、いつかまたこの面子で飲みたいものだと思った。
(ただ一つ残念なことに、明日は休日ではなく仕事があるんだよな……)
その事実はこの楽しい時間に一滴の罪悪感を落としている。
ただその罪悪感すらも、この夜ふかしをより楽しいものにする一つの刺激になるだけなのだった。
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