呂布の娘の嫁入り噺38
「おい、あれ見ろよ」
と、言われたのは
この任務には必ず複数人でつくことが定められており、今日も同僚と二人で決められた場所を歩哨していた。
その同僚が指さした先に目を凝らすと、いつもと変わらない曹操軍が陣を構えていた。下邳城を遠巻きに包囲している。
「なんだぁ?どうかしたか?」
多少気の抜けた返事になってしまったのは、ここのところ曹操軍の攻撃が止んでいるからだ。しかもそれまでより距離を取り、積極的な姿勢が失せている。
それはちょうど、曹操軍が撤退を検討しているという情報が入った頃からだった。本来なら兵卒には秘すべき情報だったが、興奮した伝令の声が大き過ぎて多くの兵が聞いてしまっていた。
人の口には戸を立てられない。すぐに噂は広がり、城中の知るところとなった。
そういうことがあった上に、距離もある。この兵もすぐに緊急性の高い事態にはならないと思い、気を抜いていた。
が、同僚はむしろ興奮気味に声を上げ直した。
「あれだよあれ!馬防柵を撤去してないか!?」
言われてもう一度目を凝らしてみると、確かに馬避けの柵の一部が撤去され始めている。
その意味する所は、この兵たちにも簡単に推測できた。
「……ってことは、曹操軍が撤退するのか?」
同僚はぶんぶんと首を縦に振り、それから階段を駆け下りて行った。上長に報告に行くのだ。
ただし、この兵も少々興奮が過ぎてしまったようだ。すれ違う他の兵にもそのことを話してしまい、将が知る前に兵たちが知ることになってしまった。
それで多くの兵たちが無断で城壁に登り、並んで曹操軍の様子を眺め始めた。
「確かに陣を崩してるな」
「ありゃ完全に帰り支度だぜ」
「ってことは、俺たち勝ったんだよな?」
曹操軍が少なくなるにつれ、兵たちの声は次第に高くなっていく。
そして見える範囲に敵がいなくなると、もはやそれは大歓声になっていた。
そんな兵卒たちをかき分けるようにして、呂布が城壁に上がってきた。
勝ち戦の大将に対して、祝の言葉がいくつも並べられる。
「呂布様、おめでとうございます!」
「やりました!俺たちの勝ちです!」
「下邳を、徐州を守り切りました!」
そんな明るい声の中、呂布は無言で曹操軍のいなくなった方を睨んでいた。
それがあまりにも長い時間だったものだから、兵たちも段々と静かになってきた。州牧が厳しい顔をしているのに、自分たちだけがお祭り騒ぎをしているわけにもいかない。
そして、一人の兵が遠慮がちに呂布へと問いかけた。
「……呂布様?」
呂布はその兵の方を見ずに、人差し指を一本立てた。
静かにしろ、という意味だ。
無言になった群衆の中、身じろぎの衣擦れの音だけが聞こえる。
が、呂布だけは別の音も聞いていた。
突如として表情を険しくし、城壁を駆け下りる。走りながら、兵たちへ向けて命令を発した。
「全ての食糧を高所へ上げろ!!急げ!!」
そう言って、他所にもそれを伝えるべく走り去っていった。
残された兵たちは顔を見合わせたが、最高指揮官の命令だ。兎にも角にもそれを実行すべく動き始めた。
皆が妙な顔をしていたが、しばらくして城壁に残った一人が血相を変えた。
「あっ!!」
と叫んで曹操軍の去って行った方を指す。
その先には、にわかには信じられないような光景が広がっていた。
地面の色が一斉に変わっていく。冬の枯れ草色だった平原が、濁った泥の色に染まっていくのだ。
濁流となった泥水が侵食を進め、下邳城へと迫る。それはまるで地が汚されていくようで、兵たちの恐怖心を煽った。
「み……水攻めだ!!水攻めだぞ!!」
曹操軍の採用した戦法は水攻めという、大自然の驚異を利用するものだった。
一度は撤退の意向を固めかけていた曹操だったが、これに
二人は下邳周辺の地理を調べ直し、大河が城の近くを流れていることに着目した。そしてその水位と標高から、天候次第で水攻めが可能と判断したのだ。
堰き止められ、堤を切られた川の水は下邳城のある平原に向かって流れてくる。
あまりに規模の大きな天変地異に、一部の兵が恐慌状態に陥りかけた。
「お……俺、泳げねぇよ!」
そんな兵も多かったが、他の兵がすぐに叱りつけた。
「馬鹿野郎!今は雨が少ない冬だぞ!?いくら川の水が流れ込んだって溺れ死ぬほどにはなんねぇよ!」
「そ、そうなのか!?」
「どうしても怖けりゃ高いところの作業をしてろ!呂布様の言う通り、食糧を全部上げるぞ!」
兵たちは急いで命じられた通りを実行した。
籠城戦において食糧をやられるということは、致命的なことだ。
皆それが分かっているから、死に追い立てられるようにして食糧庫へと走った。
冬の寒空の下、煮えたぎるような慌ただしさで作業が進められる。
そんな中、一人の兵が暗いつぶやきを漏らした。
「下邳城はもうお終いだ……」
その絶望に返事をしてくれる者はいなかった。否定して怒る者も、肯定して泣く者もいない。
それは詰まるところ、その絶望が真実であることの何よりの証左なのだった。
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