呂布の娘の嫁入り噺29

 高順コウジュンは自らの兵営に呂布が避難してくると、すぐに兵を率いて郝萌カクボウの反乱軍へと向かった。


 その出撃前、呂布は高順にあまり本気で攻めないよう命じた。


「郝萌はなかなかの将だが、俺を取り逃がした時点で反乱計画は破綻している。もはや勝てる見込みはないのだから、崩れるのも早いはずだ。下手に強く当たって被害を広げるな」


 その言葉通り、反乱軍は高順の部隊から矢の一斉射撃を受けると、それだけで潰走を始めてしまった。呂布という豪傑の能力をなめてしまったのが運の尽きと言えよう。


 そしてさらに郝萌の不幸は続く。


 もともと謀叛に反対していた部下が反旗を翻し、襲いかかってきた。


 郝萌はその部下と斬り合った挙げ句に腕を落とされ、高順が来ると今度は首を落とされた。


 反乱は終わってみればさしたる被害もなく、よそに飛び火することもなかった。


 しかし、反乱の経緯を調査すると厄介な事実が浮かび上がってきた。


 袁術の煽動があったことまでは呂布の予想通りだったが、加えて兗州えんしゅうで供に曹操と戦った陳宮チンキュウの共謀が証言されたのだ。


 陳宮は旧主である曹操への反乱に失敗した後、呂布について徐州へと避難してきた。そして今は呂布陣営の重鎮になっている。


 しかし、例えどれほど重い立場の家臣であろうと、反乱の共謀など普通なら無視できるような罪ではない。


 が、呂布は無視した。


「捨て置け。ただし、次はないということだけは分からせろ」


 陳宮と袁術、双方にその発言が伝わるように措置し、具体的な処罰や抗議は行わなかった。


 呂布という男の器の大きさと、歩んできた人生ならではの対応と言えるかもしれない。


 だから玲綺の縁談にも特段の影響はない。引き続き、来年には嫁入りという予定になっていた。


 が、年が明けて変事が起こる。


 袁術が突如として皇帝を名乗ったのだ。


「……え?袁術様が帝って、どういうことですか?」


 龐舒は呂布の自室に茶を差し入れに行った時、この話を聞いた。


 そしてまず、意味が分からないと思った。もしかしたら何かの隠喩なのだろうかとも考えたが、言葉以外の意味を見いだせない。


 呂布は出された茶を一気に飲み干してから答えてくれた。


「どうもこうも、そのままの意味だ。袁術が『俺は帝だ』と宣言した」


 そう言う呂布自身も、話の妙ちくりんさに眉をひそめている。


 そういう次元の話だった。


「えっと……袁家って名門ではありますけど、皇族ではありませんよね?」


「ああ、違うな。だから今の帝の次というわけではなく、『ちゅう』という全く新しい国の帝になったと言っているのだ」


「…………」


 龐舒はもはやどこから突っ込んでいいか分からなくなり、黙ってしまった。


 そのくらい突拍子もない話なのだ。


「袁術本人は即位に関してああだこうだと理屈を付けているがな、そんなことは問題ではない。要は袁術の即位を認める者がどれほどいるかということだ」


 現実は力ある者が決める、ということをよく分かっている呂布は、そういう要点は理解できていた。


「……いますかね、認める人?」


「ほぼ、いないだろうな」


 呂布の答えを聞かずとも、龐舒もそう思っていた。


 袁術はそれを周囲に認めさせるほど力を持っていない。


 というか、この時はまだ乱世が混迷を極めている頃で、それほどの突出した力を持つ群雄はいないのだ。皇族を除き、誰が宣言したところで認める者などそういないだろう。


 それに衰えたりとはいえ、四百年ほどの歴史を持つ漢帝国の帝はまだ健在なのだ。今は曹操に保護されて傀儡かいらいにされているが、儒学の隆盛したこの時代にはまだ忠誠心を残している人間も多かった。


 そういう状況で新たな国の帝を名乗ったところで、周囲の群雄からは、


『どうかと思う』


という反応しか得られないに決まっている。


(袁術様はこのことで立場を悪くするはずだな……)


 そう考えた龐舒は、抑えようのない期待を滲ませた声で呂布に尋ねた。


「え……袁燿様と玲綺との縁談って……こういう状況になってもそのままなんでしょうか?」


 正直なところ袁術の即位がどうのということよりも、こちらの方が気になる。


 龐舒と玲綺はその後、ごく普通にそれまで通りの関係を続けていた。縁談の話は無意識に避けている。


 互いに複雑な色の付いた思いを抱えてはいるのだが、それを表に出してはいけないことくらい二人とも分かっている。


 むしろ残された時間が短い分だけ、いつも通りの日常を噛み締めようとしていた。


 しかし、これはもしかすると状況が変わってくるかもしれない。


 呂布は龐舒の質問を受け、眉間のしわを深くした。珍しく思い悩んでいるようだ。


「……実はこの件について部下たちの意見が割れている。袁術はこれで求心力を失うから手切れにすべきだという意見と、それでも手を結ばざるを得ないという意見だ」


 この場合、どちらの意見も完全には否定できない。


 現状どの群雄も飛び抜けて力を持っていない以上、誰もが誰かと提携するしかないのだ。その複雑な思惑と力関係の中でこの乱世を泳ぎ切るしかない。


 周囲を見渡した時、今の徐州は北から袁紹、曹操、袁術に囲まれている。


 そして呂布は袁紹に暗殺されかけており、曹操の支配地を奪おうとした。こうなると、近場で手を結べそうなのが袁術くらいしかいない。


 そういう認識で状況を見た時、意見が割れるというのも仕方のないことだった。


「呂布様はどうお考えなんです?」


 意見が割れているなら頭である呂布の意見がそのまま決定事項になるはずだ。


 しかし呂布も悩んでいた。


 一つには呂布自身、こういったはかりごとが得意ではないという自覚があるからだが、それだけではない。


「玲綺を……惚れた男の所へ嫁がせてやりたいが……」


 そういう気持ちが無意識に正常な判断力を奪っているのではないかという疑心暗鬼が自分の中にあった。こうなると、どんな決断も思いきれない。


 そして龐舒も同じように、自分の為すべきことと本音との狭間で正常な思考を持てなかった。


(僕の為すべきことは呂布様の役に立つことだ……だから、僕の望みは捨てなければならない!!)


 自分にそう言い聞かせている時点ですでに客観性を欠いているのだが、本人はそこまで気づけない。


 しかも呂布の口にした言葉は龐舒が息を止めかねないほどに胸を締め付けるものだったから、もはや錯乱に近いような精神状態になってしまった。


 龐舒は喉まで出かかっていた袁術への悪口を飲み込み、自らを励ましながら声を絞り出した。


「……な……何事にも初めがあるわけですし、意外と新王朝が上手くいくかもしれませんよ?それに……もし袁家がこの乱世を乗り切ったら、玲綺は皇后になれますね」


 龐舒は口を動かしながら、自分でも馬鹿なことを言っているような気がした。聞く人間によっては冗談だと思うかもしれない。


 しかし呂布にとっては自らの望んでいる選択を擁護してくれる発言に聞こえる。だから肯定を期待して聞き返した。


「そう思うか?その目があると思うか?」


「え?……まぁ……何があるか分からないのがこの乱世なのかな、とか……」


「そうか」


 呂布はごく簡潔に応じたが、龐舒はなんとなく師の中で一つの方針が決定されてしまったように感じられた。


 おそらくその決定は自分にとって辛いものになる。


 しかし、今さら自らの望みを吐露するわけにもいかない。


 そんなことには気づかない呂布は、反対に懊悩の晴れた顔をした。


「落ち着いたら袁術から正式な使者が来る予定だ。その使者が袁術の即位について説明をした上で、出来ればその時に玲綺を連れて帰りたいと言っている」


「じゃあ……その時が……」


「玲綺の嫁入りだ」


 その単語に、龐舒の絶望はより深まった。


 太陽はまだ高いのに、目の前が暗くなったようにすら感じる。


(分かってたじゃないか……分かってたことじゃないか……)


 自分にそう言い聞かせるが、感性は理屈で捻じ曲げられるものではない。


 胸にのしかかる暗いものが身を引き倒しそうなほど重く感じられて、思わずよろけてしまった。


 しかし師にはそれを明かせない。一歩出た足をごまかすために空の椀を取り、踵を返した。


「お茶のおかわりを、お持ちしますね」


 それだけ言い残し、急いで師の部屋を出た。


 が、そこで柔らかいものにぶつかった。


 動揺していた龐舒は初め、それが何か分からなかった。


 しかし不思議と甘く感じられる匂いがして、すぐに玲綺であることに気づいた。


(玲綺……部屋の外で話を聞いてたのか)


 ということは、自分が袁燿と玲綺の縁談を勧めるような発言をしてしまったのも聞かれてしまったのだろうか?


 その疑問の答えは、玲綺の反応ですぐに分かることになった。


 龐舒から目をそらし、この娘らしからぬ気弱げな声で謝ってきたのだ。


「あ……ごめん……」


 その声を聞いた龐舒はすぐに弁解を口にしたい衝動に駆られた。


 しかし、師と想い人のために己の心を叩き殺す。開こうとする口を無理やり閉じ、目をそらして足早に立ち去った。


 玲綺は龐舒の方へ顔を向けられず、視界の端に遠くなっていく背中を映し続けた。


 そしてこの日を境に、二人は言葉を交わす時でさえ目を合わせられなくなる。


 それは袁術の使者が来て、別れの日が目前になってもなお変わらず、二人は互いから目をそらし続けた。

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