呂布の娘の嫁入り噺13
「……玲綺さんの瞳には、犬が見えます」
「犬?」
「そうです。知的で、威風堂々としていて、いかにも強そうな犬ですね。私は以前、街でこの犬種が売られているのを見たことがあります。確か西の
そこまで聞いた呂布には心当たりがあったようで、その犬種名を断定した。
「それはチベタン・マスティフだな。西域の人間たちからは『東方神犬』などという大層な呼ばれ方をしている犬だ」
許靖もその異名に聞き覚えがあったので、大きくうなずいた。
「そう、東方神犬。その犬です。よくご存知ですね」
「虎をも倒すと言われるほどの勇猛な犬だからな。よく覚えている」
それは凄いことなのだろうが、玲綺はこれを女としての魅力に繋げなければならない。
父に追加の情報を求めた。
「お父様、強い以外には何か特徴はないのかしら?」
「非常に賢く、物覚えが良いという話だ」
それは良い。
そう思って上手く話を転がそうとしたが、気の利かない父はさらに情報を追加してきた。
「ただし超大型犬だから管理が簡単ではなく、
玲綺の綺麗な顔が微妙に引きつった。
父はおそらく完全に犬の説明として喋っているだけなのだろうが、もう少し娘のために気を利かせられないものか。
そしてこの話を聞いた龐舒は笑いを堪えきれず、下を向いて肩を震わせていた。管理の難しさや躾の失敗による事故というのは、いかにも玲綺にピッタリだ。
玲綺はそんな龐舒を一瞬だけ睨んでから、咳払いして気を取り直した。
「そ、そうですか……では、袁燿様の瞳には何が見えますか?」
こうなったら袁燿との相性で盛り上げるしかない。そう思っての質問だった。
許靖は今度は袁燿の瞳へと目を向け、それから答えた。
「袁燿殿の瞳にも犬が見えますね」
「えっ、犬!?」
と、嬉しそうな声を上げたのは玲綺だ。犬同士なら相性は良いという話に持っていける。
「私も玲綺さんと同じチベタン・マスティフですか?賢くて勇猛だということですし、そうなら嬉しいですが」
袁燿はそう言ったが、許靖は首を横に振って否定した。
「いえ、袁燿殿の犬種は全く違うものですね。恐らくほとんどの方が目にしたことのない犬種で、私もチラリとしか見たことがありません」
「……と、言うと?」
「その犬は宮中だけでしか飼われていない宮殿犬で、外に出すのは禁止されているのです。フワフワとした毛並みの美しい小型犬でした。名前は確か……えーっと……」
「ペキニーズだ」
ど忘れした犬種名を教えてくれたのは、またしても呂布だった。
そちらを見ると、許靖の話を聞いてから片眉がピクリと上がっている。
「帝だけが所有を許されるという、特別に高貴な犬だな。俗に『皇帝の犬』などと呼ばれることもある。そんな犬種だから普通に見られるものではないのだが……許靖殿は見たのか?どこで見られる?」
許靖は呂布の食いつきようを意外に思いつつ、教えてやった。
「後宮に繋がる通路前を歩いている時、宮女が連れているのを見かけました。本当にたまたまなので、見ようと思って見られるものではないでしょうが」
「そうか……」
少し残念そうに見える呂布だったが、ペキニーズと言われた袁燿の方も残念だった。
「皇帝の犬ですか……いかに皇帝とはいえ、高貴さに媚びて良い暮らしを送るのは私の望むところではありません」
そう言って、ため息をつく。
袁燿は確かに高貴な生まれではあったが、それに対して反発しているところがある。そういう犬種との評は、正直なところ不本意だった。
許靖がそんな袁燿の失望にかける言葉を考えたが、先に呂布の方がその失望を否定してくれた。
「いや、ペキニーズは『犬ではなく猫のようだ』と言われるほど自立心に富んでいると聞く。主人にも媚びるところが少ないらしい。まぁそのツンとした態度がまた魅力だという話ではあるが」
「そうなのですか?自立心が強いというのは嬉しいですね。私はそういう態度こそが立派な生き方だと思います」
呂布が解説してくれたペキニーズの性格を許靖は知らなかったのだが、聞いてなるほどと思った。
高貴ではあるが、それに媚びず自立心が強い。確かに袁燿に当てはまっている。
ただ、それとはまた別に気になることがあった。
「呂布殿はえらく犬にお詳しいのですね。犬好きですか?」
許靖と同じことを魏夫人も思ったらしく、眉根を寄せて夫を見た。
「そうなの?あなたと結婚してからもう随分と経つけど、犬好きだなんて話は聞いたことがなかったわ」
呂布は憮然とそれを否定した。
「ふん、そんな訳がないだろう。小動物を愛でるなど、軟弱な男の趣味だ」
(その割にやけに詳しいな……)
場の全員がそう思ったものの、少なくとも玲綺はそれよりも袁燿だ。
そのために父に頼み込んで今日の晩餐会に漕ぎつけたのだから。
「私も袁燿様も同じ犬だなんて、なんだか嬉しい」
そう言って、またとびきりの笑顔をしてみせた。
袁燿はその可愛らしさにドキリとして、思わず頬を赤らめる。
「はは……玲綺さんと同じで光栄です……」
はにかんだ笑顔を返した。
見目良い袁燿ではあったが、真面目な性格のせいか女性経験はあまり無いようだった。
一方の玲綺も男性経験は無かったが、こちらは猛獣を前にしても怯まないと言われるチベタン・マスティフだ。恐れを知らず、さらに攻め込む。
「犬同士なら、きっと相性もいいですよね?」
許靖にそんなことを確認してきた。
「え?ええ……多分……」
許靖が少し言葉を濁したのは、以前に犬の交配に関しての話を聞きかじったことがあったからだ。
(確か、大型犬と小型犬の交配には注意が必要という話だったな……チベタン・マスティフは超大型犬で、ペキニーズは小型犬だが……いや、雌の方が大型犬の場合は大丈夫だったか……?)
許靖は曖昧な記憶をたどりながら視線を漂わせたが、その視線がまた別の犬を見つけた。
「……そういえば、彼も犬ですよ。龐舒殿も」
許靖はその能力も相まって人をよく記憶できたから、龐舒の名前も覚えていた。
「僕も?」
「ええ、龐舒殿の瞳に見える犬の名前は私でも分かります。シャーペイですね」
その犬種名を聞いた玲綺は思わず笑ってしまった。
「シャ、シャーペイ……」
その犬の容姿を思い浮かべ、つい息を吹き出してしまう。
「シャーペイって、あのしわくちゃの不細工な犬ですよね?」
玲綺の言った通り、シャーペイの外見的特徴はそのシワの多さだと言える。毛並みの美しいペキニーズや知的なチベタン・マスティフと比べてしまうと、不細工と言われても仕方ないかもしれない。
ただし、ブサカワというありがたい単語のある現代ではむしろ人気も高いが。
しかし玲綺に笑われた龐舒としては面白くない。それが声に現れていた。
「シャ……シャーペイだっていいじゃないか。きっとシャーペイの良いところだってあるさ。呂布様、シャーペイの特徴を教えて下さい」
すでに呂布がそれを知っている前提で尋ねてしまったが、実際に呂布はすらすらと答えてくれた。
「シャーペイは物静かで落ち着きのある犬だが、いざ戦いとなると猛々しいところも見せる。地域によっては闘犬としても用いられることもあるほどだ」
「ええ?」
「ほら見ろ」
龐舒は得意げに胸を張ってみせた。強くなりたい青年にとって、猛々しいというのは嬉しい。
呂布は説明を続ける。
「主人や家族には忠実で誠実な犬だが、気を許していない相手には強く警戒するらしい。番犬向きの犬かもしれんな」
「番犬……確かに龐舒っぽいかも」
魏夫人も娘と同じ感想を持った。
「龐舒ちゃんは我が家の頼りになる番犬ちゃんよね。でもあなた……やっぱり本当は犬が大好きなんじゃない?別にうちで飼いたければ飼ってもいいのよ?」
妻としては夫に我慢をさせていたなら申し訳ないと思っての言葉だったのだが、夫は先ほどと同じように否定した。
ただし、その顔はなぜか少し赤くなっている。
「ば、馬鹿を言うな。俺は……そう、犬の能力を軍事転用できないかと思って少しばかり調べたことがあるだけだ。犬畜生を可愛いと思ったことなど、一度もない」
呂布の軍事転用という発言は決して的外れでもない。後世においてかのチンギス・ハーンは、チベタン・マスティフ三万頭を軍用犬として征西の共にしたと言われる。
が、それならばなぜ小型犬のペキニーズにまで詳しかったのか。しかも、どう見てもペキニーズに会いたそうだった。
皆がそう思ったものの、それを口にする者はいなかった。なんとなく、それが優しさのような気がしたからだ。
魏夫人は気を取り直して、というか夫に気を遣って許靖に別のことを尋ねた。
「じゃあ許靖様、私はどんなワンちゃんなんですか?」
許靖は夫人の屈託のない笑顔に苦笑した。
自分の能力は別に人を犬に例えるためのものではないのだが。
「いえ、奥方の瞳に見えるのは犬ではありません。菜の花ですね」
「菜の花?」
「ええ。見る者を元気にしてくれるような、明るくて優しい色をした菜の花畑です」
許靖の評は、呂布・玲綺・龐舒の三人にはピタリとハマった。
三人に瞳の奥の「天地」が見えるはずもなかったが、その頭の中には許靖が見たものとほぼ同一の美しい菜の花畑が想像できていた。しかも菜の花は食べても美味だから、料理上手な魏夫人に合っているように思える。
菜の花畑は少し不思議だ。多くの花畑は目に入ったらまず『綺麗だな』と思うものだが、菜の花畑だけはなぜかまず『元気が出るな』と感じてしまう。これは筆者だけではないのではなかろうか。
「嬉しいけど、私だけワンちゃんじゃないのはちょっと寂しい気もしますね……じゃあ夫はどうですか?夫も私みたいなお花畑じゃありません?」
(絶対花畑じゃないだろう……)
魏夫人以外の全員が同じことを思った。
妻にとって夫がどう思えているのか分からなかったが、どうやら妻の中にしかいない夫がいるらしい。
実際に許靖が見る瞳の奥の「天地」は花畑ではなかったから、はっきりと否定した。
「残念ながら、花ではありませんね」
「じゃあ他の三人みたいにワンちゃんですか?」
「いえ、呂布殿の瞳の奥に見えるのは翼の生えた虎です」
当の呂布はその評を受け、唇の片端を歪めた。
『翼の生えた虎』というのはあまりに立派過ぎて、持ち上げられたと思ったのだ。
「許靖殿は随分と良いことを言ってくれるな。世辞でも、武人としては嬉しい例えだ」
「私の話は座興ではあっても、世辞ではありませんよ。実際に呂布殿は虎と言われてもおかしくないほどの強さをお持ちです。ですからその力で、涼州兵たちをどうにかできませんか?」
許靖はさり気なく、しかし言葉に力を込めて尋ねた。
実のところ、今日の晩餐会ではそれを頼めるのではないかと期待を抱いて来ているというところがある。
董卓が権力を握って以来、洛陽の市民たちは兵たちの横暴に悩まされていた。
ちょっとしたことで暴力を振るわれたり、店で代金を払わないといったことは日常茶飯事になっている。中には略奪まがいのことまでしている者もいるということだった。
しかし、董卓はそれを抑えない。
董卓の権力の背景はあくまで掌握している軍事力であるから、兵たちの人気を何よりも重視していた。
「呂布殿は董卓様の信頼も厚く、しかも兵たちから尊敬されています。それに今度中郎将にまでなられて……」
「許靖殿、まず分かってもらわなければならないが、俺は兵の略奪を必ずしも否定しない」
その発言に許靖の眉はしかめられたが、呂布は構わず言葉を続けた。
「普通ならば犯罪となる行為でも、軍を維持するためにはせねばならんこともあるのだ。兵たちも食わねばならん以上、補給が不十分であれば奪ってでも物資を得なければならん」
「しかし……」
「まぁ聞け。許靖殿は恐らく『それならば軍を解散した方がいい』と思う人間だろうが、現実問題として軍事力というものはそう簡単に手放せるものではない。それにたとえお人好しの指揮官が解散を命じても、よほど平和で豊かな時代でない限り賊になる可能性だって高いだろう」
許靖もそれは理解できた。
軍はなくそうとしてなくせるものではないのだ。それに、兵も兵をやることで当面を食いつないでいるという側面がある。
ただし、今の現状はそれとは違うとも思った。
「今の兵たちは別に飢えているわけではありません」
「そうだが、董卓様という新しい頭の下でまとまるためにはある程度兵たちを満足させる必要がある。現実的に取りうる措置とも言えるだろう」
「今の兵たちの横暴は必要なことで、やり過ぎでもない、ということですか?」
「いや、やり過ぎだな」
呂布はあっさりとそう認めた。今までの論は論として、呂布としての最終結論はそうだった。
「今の兵たちの横暴は、軍を維持するために必要な範疇を明らかに超えている。兵たちを肥えさせるための横暴は許すべきではない」
「だったら……」
「涼州兵には手が出せんのだ」
呂布は吐き捨てるようにそう言ってから、膳に置かれた酒をあおった。
「……中心となって悪さをしているのは涼州から董卓様が連れて来た兵たちだが、奴らは董卓様にとって唯一心から信頼できる重要な手駒だ。その涼州兵が不満に思うようなことは極力避けるから、俺が何を言っても無駄だった」
(もう言ってくれていたのか)
許靖はそのことを知り、責めるような発言になってしまったことを詫びた。
「申し訳ありません、呂布殿の気持ちも知らず……」
それから許靖は笑って一言付け加えた。
「董卓様と父子の契りを交わしたという呂布殿ならもしやと思ったのですが、そう簡単なものではありませんでしたね」
「………ああ」
と、呂布は小さく声を返した。
それは普通に聞いても何のことはないただの返事だったのだが、許靖はそれを受けてまた謝った。
「……すいません、また要らぬことを言いました。父子の契りと言っても、今の董卓様にそれを交わすよう言われて断れる方などいませんよね。心中お察しします」
その発言に、呂布は少しだけ目を大きくした。
「俺は別に、董卓様との父子関係が不本意だなどと一言も言ってないぞ」
そうは言ったが、本当はかなり不本意なことだった。
しかし国の最高権力者になった董卓から父子の契りを交わしてやると言われれば、感謝を口にする以外の選択肢など選びようがない。
それに対してこんな言い方をした許靖も本来なら危険な立場になりかねないところではあったが、その不安は全く無かった。
呂布がこの父子関係について、強い不満を抱いていることを確信していたからだ。
「呂布殿の瞳の虎が、臭いものでも嗅いだような顔をしたものですから。きっと呂布殿にとって、董卓様との契りはそういうものなのでしょう」
当たり前の事のようにそう言った許靖へ、呂布は妙なものでも見る目を向けた。
「その座興で見えるのは随分と便利なもののようだな……しかし、翼の生えた虎と言われた俺の力はその程度のものだ。空を翔べる虎でもこんなものか」
やや自虐と皮肉が混じったその言葉に、許靖は首を横に振った。
「いいえ、この虎は翼が生えていても翔べないのです」
「……?どういうことだ?」
「虎の前足に、左右一本ずつの鎖が巻かれています。それを断ち切れなければ虎は翔べないでしょう」
呂布は自分の両腕に目を落とした。
もちろんそこに鎖などあるはずもないが、今の自分を縛っているものがあると言われれば、不思議とそんな気もする。
「鎖……だと?それは一体何を表している?」
「それが私にもよく分からないのですが……二本の鎖はそれぞれ全く違うものですね。一本は鎖なのにどこか暖かみのある優しい色合いをしていて、虎自身もそれを愛おしそうに舐めています」
「自分を拘束している鎖を愛でているのか」
「そうです。しかしもう一本の鎖の拘束には非常に苦しんでいるように見えますね。そちらの鎖は所々が血に汚れていて、その先が二本の
その説明を受けた呂布、そして龐舒は、一本の鎖の意味をすぐに理解した。
(罪悪感……呂布様を苦しめて翔べなくしているのは、丁原様を殺してしまったという罪の意識だ)
丁原は呂布に、自分を踏み台にして高く翔べと言っていた。
しかし皮肉なことに、それによって虎は翔べなくなっているのだ。
もちろん空を翔べなかったところで、虎であれば十分強いだろう。少なくとも個人の強さで見れば、呂布ほどの男などこの世に存在しない。
ただ、それでも龐舒は翔んで欲しいと思った。それは師が父とした丁原の望んだことだったからだ。
(罪悪感の鎖……それを断ち切るにはどうしたらいいんだ?それに、もう一本の鎖は一体……)
翼の生えた虎を翔ばすため、その忠犬は必死に頭を巡らせた。
しかし良い考えは浮かばない。呂布自身も何らできることを思いつかなかった。
そしてやはり本来翔ぶべき虎にとって、それは重い
このあと結成される反董卓連合軍との戦において、呂布は江東の虎、
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