小覇王の暗殺者12

 孫策の目はまっすぐ雲嵐の方を向いているように見える。


(う、嘘だろ!?)


 雲嵐は驚愕に目を見張った。


(まさか、今ので気づかれたのか?)


 いったんはそう思ったが、すぐに冷静になるよう自分に言い聞かせる。


(落ち着け。この距離で分かるわけがないだろ。それに、向こうから茂みの中は見えないはずだ)


 心臓は不必要なほど激しく拍動していたが、呼吸を整えてそれを抑えようとする。


 しかし、その呼吸すらもままならなくなってきた。


 孫策がこちらに向かってまっすぐ歩き始めたからだ。


(嘘だろ……嘘だろ……!!)


 そう思っても、実際に孫策は近づいてくるのだ。剣の柄に手をかけたまま、一人でゆっくりと歩いてくる。


 その姿には微塵の隙も見当たらなかった。矢を放っても、抜き打ちで防がれるのが分かる。


 だから雲嵐は何もできなかった。ただただ小覇王の覇気に押さえつけられ、為す術もなく接近を許した。


「おい、出て来い」


 孫策は短く言った。


「三つ数える間に出て来ないなら、斬る」


 それが本気であることが分かったから、雲嵐は孫策が数え始める前に立ち上がった。


 このまま死ねば間違いなく犬死だが、展開次第では隙が生まれるかもしれない。


 そんな毛ほどの太さもない希望にぶら下がる気持ちで、雲嵐はその姿を見せた。


「お前か……」


 孫策は雲嵐を見て、小さく息を吐いた。雲嵐にはそれがどういう意味の息なのか、よく分からなかった。


「……ついて来い」


 そう言って踵を返し、無防備な背中を見せた。


 しかしその背中を襲っても死ぬのは自分だろう。


 雲嵐は仕方なく言われるがままにした。


 幕舎まで来ると、孫策は従者に声をかけた。


「子供が狩りをしていた。この辺りの土地の話を聞きたいから、幕舎で話す。茶でも淹れてくれ」


「はっ」


 従者はうなずいて応じたが、周りの護衛の中に、おや、という顔をした者がいた。


 以前に許貢が殺された時、雲嵐は孫策を襲っている。その時に見た顔を覚えているのかもしれない。


 しかし、そんな護衛に孫策はなんの反応も示さず幕舎へと入っていった。


 そして護衛の方も何も言わない。それどころか、雲嵐の弓矢を取り上げようともしなかった。


(……俺が孫策を殺せることは、万に一つもないってことか)


 そういうことだろう。


 そして雲嵐自身も、自分が孫策を殺すところを想像できないでいる。


(くそっ)


 心の中で悪態をつきながら、自分も幕舎に入った。


 中には寝台と小さな卓、そして床几がいくつかあった。


 孫策は床几に座り、卓を挟んで向かいを指した。座れということだろう。


 雲嵐が指示通りに座ると、すぐに従者が茶を持って来た。もともと孫策に出すつもりで用意していたのだろう。


「二人で話したい。下がっていろ」


 従者は一礼してから去って行った。


 二人きりになると、孫策は茶を一口含んでからまたため息をついた。


「お前も懲りんやつだな。弓では俺を殺せんと言っただろうが」


 雲嵐は弓を持つ手を震わせながら口を開いた。


「な……なんで分かるんだ!?あんなに離れてて、しかも俺はまだ何もしてなかった!」


 悔しげに声も震わせる雲嵐に対し、孫策はごく軽い調子で答えてやった。


「俺は元々、戦いの気配に敏感なのだ」


「戦いの……気配?」


「そうだ。例えば殺気のようなものがそうだな。昔から、不思議とそういうものが分かる」


「でも、さっきの俺はまだ弓を構えてもいなかった」


「ここの所、人から恨みを受けることが多くなってな。それでお前のように俺を暗殺しようとする者も増えている。だから俺への憎しみに気をつけるようにしていたのだ。そうすると、気づけば害意全般を感じ取れるようになっていた」


 孫策は何でもないことのようにそう言った。


 しかし雲嵐からすれば、もはや目の前の男が人間とも思えない。


(こいつは……化け物なんだ。俺たちが殺そうとしていたのは人間じゃなくて、化け物だった)


 殺せないはずだ。


 自分たちは人間を殺すつもりで準備をしてきた。しかし化け物を殺すための準備はしていない。


 というか、この化け物は殺せないのだと雲嵐は思った。


(無理だ……こんなの、殺しようがない……)


 絶望に打ちひしがれる雲嵐へ、孫策は憐れみにも似た視線を向けた。


「俺もお前の気持ちは分からんでもない。俺も父を殺され、その仇討ちを人生の目的の一つにしているからな」


 孫策は父孫堅を黄祖コウソという武将に殺されている。だから黄祖討伐は孫策だけでなく、孫家上げての悲願となっていた。


「俺が憎かろう。殺してやりたくて仕方ないはずだ。俺もそういう復讐の炎で、己が身すら焼き尽くしてしまいそうになる。しかし身を焼き尽くし、全てを失うことになっても止められはしないのだ」


 雲嵐はかぶりを振った。


 自分たちは孫策とは違う。同じにして欲しくないと思った。


「俺は確かにお前が憎い。お前を殺したい。でも、全てを失ってまで殺したいなんて思わない。俺がお前を殺そうとするのは、全てを失うのが嫌だから殺そうとするんだ」


「何だと?どういうことだ?」


 雲嵐は問われても答えなかった。これ以上要らぬことを言わず、このまま殺されようと思った。


 しかし、孫策はしばらく沈思してからその理由に思い当たった。


「……許貢の末息子か。確か許安といったな。あれが俺を殺そうとするから、その過程で命を落とす前にお前が俺を殺そうとしているのか」


 雲嵐は自分の言葉を後悔した。この男は戦いに強いだけでなく、人の心も敏感に感じ取る。


 孫策は雲嵐が答えないことで、自分の推測が当たっていることを知った。


「そうか。あの子が俺を殺そうとしているか……あの子にとっては俺が黄祖で、あの子が俺か」


「違う!許安はお前とは違う!」


 雲嵐は孫策の言葉を即座に否定した。目の前の小覇王と優しい許安が同じなわけがない。


「許安は本心では仇討ちなんかしたくないんだ。それが正しい事だとされてるからやろうとしてるだけで、そもそも人を傷つけるようなやつじゃないんだよ……」


 雲嵐はそんな許安を守りたかった。だから孫策を殺さなければならない。


 しかし、自分にはこの男は殺せない。それが悔しくて、雲嵐の目から涙がこぼれてきた。


 それを拭う様子を見ながら、孫策は二人の関係を理解した。


「……確かにあれはそういう人間かもしれんな。しかし、それでも父を殺した俺を前にして何の憎しみも抱かないということはありえない。やはり許安にも俺は殺せんぞ」


「分かってる……分かってるよ……」


 それでも許安は仇討ちを実行しようとするだろう。許安の素直さは、それで自分が死ぬことすら受け入れているのだ。


 どうしようもない。雲嵐にはもうどうしようもなかった。


 自分の情けなさに腹が立ち、膝を殴った。何度も何度も、強く殴った。


 孫策はそれを眺めながら、過去の自分と重ねていた。


(俺もこうだった……あの日の俺も、こいつと同じだった)


 父が殺されたことを知ったあの日、仇を討てるだけの力を持っていない自分に腹が立った。


 自分の力のなさが情けなくて、自分の体を痛めつけた。どうして自分はこんなにも弱いのだと、自分自身を憎んだ。


(こいつは……あの日の俺か)


 同じ傷を持つ人間は、すでに他人ではない。


 それは自分を殺そうとしている相手であってもそうだった。


「お前、もしこのまま無事に帰れたら許安が暗殺を諦めるように説得できるか?」


「…………なに?」


 孫策の突然の質問に、雲嵐は膝を叩く手を止めた。


「もしそれが出来るなら、帰してやる」


 雲嵐はまさか冗談かと思って孫策の顔をまじまじと見た。


 しかしその目は真剣で、こちらをなぶる気などなさそうだった。


「そりゃ……もし帰れたら、どっちにしろ暗殺はやめるように言うよ。情けないけど、お前を殺せる気がしない」


「言うだけでは駄目だ。絶対に止めると誓え」


「誓えって……何に誓えばいいんだ?」


「許貢の名誉に、だ」


 雲嵐は奥歯を強く噛んだ。


 許貢の仇討ちをやめることを、許貢の名誉に誓うのだ。しかもその仇本人に対して。


 雲嵐はまず、恥だと思った。


 しかしその直後に許貢の笑顔が脳裏をよぎり、すぐに思い直した。


(許貢様なら、絶対に暗殺を止めようとする。仇討ちなんかよりも許安の安全の方が大切だって、絶対にそう言う)


 心の中で断言して、背筋を伸ばした。


 そして宣誓する。


「誓う。許安に暗殺を諦めさせることを、許貢様の名誉に誓う」


 淀みのない雲嵐の言葉に、孫策は満足した。


 うなずいて立ち上がり、ついて来るよう手で示す。


「軍営の外まで送ってやろう。従者や護衛に任せたら、こっそり殺されかねんからな」


 それはつまり、孫策の命を狙う者がそれほど多いということだろう。それでも雲嵐にはこの男が暗殺できるとは思えなかった。


 二人は幕舎を出て!丘を下って行った。


 道すがら、孫策は前を向いたまま雲嵐に話しかけた。


「今回お前を見逃すのは、情けなどではない。許貢への借りを返すためだ」


「借り?」


「そうだ。あの男は死ぬ直前、殺されるにも関わらずこちらに有益な情報をくれた」


 それは許貢の最期の言葉ということになる。


 当然、雲嵐は気になった。


「許貢様は最期に何を話したんだ?」


「呉郡を善く治めるための要点だな。それを朱治シュチに伝えていた。例えば呉郡には山越などの他民族もおり、土地としても海、大河、大湖、山林と多様性に富んでいる。だから中央から一律に治めるのではなく、細かく代官を置いてその土地土地に応じた行政を布くべきだと言っていた」


「……許貢様らしいよ」


 雲嵐はそう思った。


 許貢は最後の最後まで、呉郡の民を守ろうとしたのだ。


「朱治は心震わせていたぞ。こういう男に郡を任されたのだから、自分は善き為政者であらねばならんと発奮していた。確かに死を前にして、常人のできることではない」


 ちなみに朱治はこの後、二十年以上の長期に渡って呉郡太守の座にあり続ける。善き為政者でなければなしえないことだろう。


「だからこれは、情けではない。勘違いをするなよ」


 孫策は繰り返しそう言った。


 雲嵐には孫策がわざわざそんなことを言う理由がよく分かった。


(仇に情けを受けるなんて、屈辱だもんな……)


 これは小覇王の、小覇王らしい優しさなのだった。


 それが分かってしまう雲嵐は、この乱世の罪深さを思った。


 きっと今は人の善悪に関わらず、愛憎が激しく燃え上がってしまう時代なのだ。


(きっと孫策だって、一つ運命が違えば守るべき大切な人になってたんだろうな……)


 それが分かっていてなお、人がその憎しみを消すのは容易ではなかった。

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