小覇王の暗殺者9
「買えたよ。意外にもあっさり売ってもらえた」
許安は雲嵐と魅音の前に、小さな布袋と革袋を置いた。
布袋には粉末が入っており、革袋には液体が入っている。
見た目には別に変わったところはない、どこにでもあるような袋だ。だから魅音は、思わず疑問の声を上げた。
「えっ?こんなので孫策を殺せるの!?」
それを聞いた雲嵐と許安は素早く人さし指を立てて口に当てた。声が大きい、という意味だ。
魅音もしまったという顔で口を押さえ、周囲を見回した。
といっても、ここは三人だけが寝起きしている小屋で、他に誰かいるわけではない。周囲の建物からも少し距離があった。
とはいえ、どんな話もどこで誰が聞いているか分からないものだ。用心した方がいいし、用心すべき内容の話をしている。
雲嵐は声を小さくして魅音を叱った。
「気をつけろ。孫策の暗殺を計画してるなんて知られたら、すぐに突き出されるぞ」
三人はそういう物騒なことを実行しようとしていた。
許貢とその家族が殺されたあの日、孫策の追手を振り切った雲嵐は予定していた場所で許安・魅音と合流した。
それから嘘をつき、そのまま村から離れた。
「孫策軍が村に来るって情報が入ったから、許貢様たちは家族で逃げたんだ。でもお前たちはまだ山だろう?だから俺は二人を連れて逃げるように言われた」
そう話した。それが二人を連れて逃げるのに、一番効率がいいと思ったからだ。
この三人は狩猟で山に慣れているし、この近辺の地形には詳しい。孫策軍の山狩りからも上手く逃れ、窮地を脱した。
そして何日もかけて安全だと思える場所まで離れてから、雲嵐は本当のことを話した。
許貢も他の家族も、すでに全員が殺されているであろうことを。
「帰る!孫策を殺しに帰る!」
まずそう叫んだのは魅音だった。泣きながら、すぐに弓を手に取った。
魅音は家族が大好きだった。だから雲嵐にはこうなる事が予想できていた。
(嘘をついて良かった)
雲嵐はそう思った。村近くの山でこうなっていたら、逃げ始めるのも大変だったろう。
魅音はかなり激しくだだをこねたが、すでに数日が経過している。村に帰っても孫策はいないだろう。それに、そう簡単に殺される孫策でもないはずだ。
許安の方は魅音よりは冷静で、そういう事もよく分かっていた。
魅音のようにすぐ帰るなどと言わず、無言で涙を流していた。
かなり長い時間泣いてから、顔を拭い、独り言のようにポツリとつぶやいた。
「……やはり僕は、仇を討たねばならないのだろうな」
まるで義務のような言い方だった。そして実際に、許安は義務感から言っていたのかもしれない。
この時代は儒教的な道徳観の浸透している時代だ。父祖を敬うことが求められたから、その仇討ちであれば人を殺しても賞賛されることが多かった。
雲嵐は許安の言葉を聞き、強い危機感に襲われた。
許貢は許安と魅音を守るよう、自分に頼んだのだ。しかし孫策の暗殺などという事業を始めてしまえば、それを果たせなくなる可能性が高い。
(俺だって本当は殺したいよ……心の底から、孫策を殺してやりたいと思ってるさ!!)
心の中で何度もそう叫んだものの、許貢に頼まれたのだ。二人を守らなければならない。
だから言葉を尽くし、二人を説得しようとした。
すでに孫策は江東の覇者になりつつある。それを殺すことがいかに難しいか。
しかも、孫策はこちらが弓を射る前からその事を察知できるようなのだ。
そういえば以前にも本人が『殺気のこもった矢では自分を殺せない』というようなこと言っていた。本当にその殺気というものを感じ取ることができるのだろう。
矢が効かないということは、三人の得意武器が使えないということだ。
雲嵐はそれを説明したが、魅音はまるで聞き耳を持たない。
「嫌。絶対殺す」
それしか言わない。
(……相変わらず兄ちゃんの言う事を聞かないやつだな)
魅音はもう十一になるが、相変わらずの自由人だ。
ただ今回の場合、許安の方が厄介だった。
許安はあくまで冷静なのだ。冷静に今の状況を理解し、その上でそれが『善』とされる行為だから仇討ちをしようとしている。
しかも、
「これは父上の実子である僕のすべきことだ。二人ももちろん大切な家族だけど、そこまでの危険を冒すことはない。ここで別れよう」
などと言い、本当に自分の荷物をまとめ始めるのだ。どう見ても本気だった。
こうなると、雲嵐にはもう手の施しようがなかった。
しかも魅音は魅音で、そんな許安を思いっきり睨みつけながら無言で裾を掴んで離さない。
雲嵐は説得を諦めて、暗殺計画に加担することにした。
それに、雲嵐も仇を討ちたいという気持ちは強いのだ。
「でも、何度も言ったように普通の矢は効かないんだぞ。どうやって殺すんだ?」
雲嵐に問われた許安は腕を組んで唸った。
「うーん……それなんだけど……毒なんてどうかな?」
「毒?毒殺か。でも、毒を飲ませる方法なんてあるか?」
「いや。飲ませるんじゃなくて、毒矢だ。孫策には矢が効かないということだけど、前に父上の矢が頬をかすめただろう?」
「……ああ、そういえば」
雲嵐はその光景を思い出した。孫策は『かすりもしない』と言っていたが、現に許貢の矢は頬をかすったのだ。
「きっと、絶対に当たらないわけじゃないんだ。僕たちは父上よりも弓が上手いし、二人で矢継ぎ早に射てば、急所には刺さらなくても毒で倒すくらいには当てられるんじゃないだろうか」
許安はさり気なく二人、と言った。つまり、その一番危険な場には魅音を連れて行く気がないということだ。
それで少し安心した雲嵐は、その案に乗ることにした。
「分かった。どこで毒が手に入るか分かるか?」
「父上から、狩猟で毒矢を使う民族がいるという話を聞いたことがある。そこへ行ってみよう」
この頃の揚州には漢民族以外の民族も多く住んでいる。当然のことながら、民族が違えば生活様式も変わる。
そういう話にまとまり、三人はその民族の住まう地へと移動を始めた。
道中は狩りをしながら進み、自分たちが食べる量以上の獲物は途中の村々で穀物や野菜、旅に必要な物品に換えた。
時によっては便利な銭も欲しいと思ったが、この時代の銭は重い。それは諦めて、すぐに役立つものだけにした。
食料も道具もやや過剰になってきたところで、今度は軽くて価値のある
無一文で村から逃げてきたのに、気づけば多少の資産を持っている。弓矢さえあれば生きていける三人であった。
そうこうしている内に、三人は今いる村へとたどり着いた。
この村は目的の民族が住む地域に隣接している。三人はここでいったん腰を下ろすことにした。
ちなみにこの時代の村は百戸程度を単位として『里』と呼ばれ、その管理者として『
許安はまず挨拶として村長に鹿一頭を納め、しばらく逗留させてもらえるように頼んだ。
「戦乱で故郷を追われ、狩りをしながら放浪しております。しかし移動にも疲れたので、しばらく休ませていただきたい」
それで紹介されたのが、今いる小屋だった。ここは老夫婦の住む家の離れで、今は誰も住んでいない。
老夫婦はまだ大人になりきっていない三人に対し、親切にしてくれた。戦で子供を亡くしたという話だったので、それに重ねたのかもしれない。
滞在中、雲嵐たちは村の近くでも狩りをしたが、そうして得た鳥獣の一部は村人に配った。
許安たちはまだ若いのに苦労しているようで、しかも村の利益になっている。そんな三人に対し、村人たちは好感を持った。
そうやって気に入られたところで、許安は村長に願い出た。
「この近くに住む民族は狩りに毒矢を使うと聞きました。猟をして暮らす者として、ぜひ試してみたいと思います。よろしければ紹介していただけませんでしょうか?」
多少回りくどいようだが、先方からすればいきなりよそ者が来て『毒を売れ』と言われても、応じるのは難しいだろう。よくよく考えての行動だった。
案の定、村長とその民族とは多少の交流があった。隣接する地域に住んでいれば、自然とそういう必要性が出てくるものだ。
村長はなんの疑いもなくその民族の族長を紹介してくれたので、許安は無事に毒を手に入れられたのだった。
そして、それを持ち帰って今現在に至る。
「粉と液体はどう違うんだ?」
雲嵐は毒の袋を両手に持って許安に尋ねた。
「粉の方は
附子とはトリカブトの塊茎で、加工処理したものは薬としても用いられている。
ただし加工前のトリカブトは、よく知られているように猛毒だ。アコニチンなどの有毒物質を含み、嘔吐下痢や呼吸困難などを引き起こして死に至ることもある。
古くから矢毒に用いられた植物であり、日本でもアイヌの人々がスルクと呼んで矢に塗って使用していた。
「ああ、附子なら俺も聞いたことが……あれ?この匂い……」
雲嵐は布袋に鼻を近づけてその匂いを嗅いだ。そして首を傾げる。
それを見た魅音も袋の上からその匂いを嗅いでみた。
「兄ちゃんどうしたの?……あっ、これ小さい頃に嗅いだことある匂いだ」
魅音の言うことに雲嵐もうなずいた。
「そうだ、匂いで思い出した。山賊にいた頃、大人たちが附子を使って毒矢を作ろうとしてたことがあったんだ」
許安はそれを聞いて驚いたが、同時に喜びもした。経験者がいるのはありがたい。
「えっ?じゃあ雲嵐は毒矢を使ってたことがあるのか?なら作り方とか使い方とか……」
雲嵐は首を横に振って答えた。
「いや。山賊では結局、採用にならなかったんだ。だからほとんど触れてない」
「そうなのか……でも、どうして不採用に?」
「試作品の
「あぁ……」
許安はありそうな話だと思った。
実際、毒矢には誤射や事故が付き物だ。特にアイヌの人々はこの毒矢を罠としても使っていたから、不幸な事故の犠牲になる人もいたらしい。
「お頭は『あそこの山賊は毒矢を使うらしい』って噂になったら郡兵への脅しになるとか言ってたんだけどさ。皆は『こんな危ないの使いたくない』って話になったんだ」
「なるほどね。僕たちも気をつけよう」
「そうだな。それで、液体の方は?」
雲嵐は革袋の方を上げた。
「そっちは実はおまけで、くれた本人たちもあまり分からないらしいんだ」
「はぁ?何だよそれ」
「毒の代金として翡翠を一個渡したんだけど、向こうの族長さんが真面目な人でね。附子だけじゃ翡翠の代金として釣り合わないからって、それも付けてくれたんだ」
「よく分からないものを、か?」
「いや、それも矢毒には違いないんだよ。イポー?とか、ウパス?とかいう樹の樹液らしい。交易商人から『南国でよく使われる矢毒だ』って言われて、興味本位で買ったんだって。でも結局は慣れた附子の方が使いやすいって話になって、お蔵入りしてたらしいんだ」
イポーまたはウパスノキと呼ばれる樹の樹液は、東南アジアなどでよく用いられた矢毒だ。
アンチアリンという有毒物質が含まれており、強力な心毒性がある。
「効くのか?」
「矢毒としてはかなり優秀だって言ってたよ。附子と違って、矢の刺さった肉の周りを取り除かなくていいから便利なんだって」
トリカブトは経口摂取でも強い毒性があるため、狩猟で用いる場合には鏃が刺さった部位の肉を拳一つ分程度取り除くべきだと言われている。その分だけ可食部が減るのだ。
しかしイポーの樹液は経口摂取ではさしたる毒性を示さないため、そのまま食べられる。
「そりゃ狩りで使うんならいいんだろうけどなぁ」
雲嵐は革袋を眺めながらぼやいた。今回の目的は暗殺であるから、食肉部位の量を気にする必要はない。
そんな雲嵐から魅音が毒の袋を奪った。
「でもさぁ。せっかく毒が二つあるんだし、混ぜたらすっごいのできそうじゃない?」
そう言って目を輝かせる。子供がままごとで花や草の汁を混ぜようとしているようなものだ。
「おいおい、遊び道具じゃないんだからな……」
「いや、実は僕もそれを考えてたんだ」
今度は許安が魅音から袋を奪った。この自由人が毒を持っていると、何かしら事故が起きそうで見ていて怖い。
「狩猟の場合、毒は強すぎても良くないんだ。さっきも話したように事故になりかねないし、食肉が毒で汚染されることもある。でも今回のように人間が使用対象で、しかも相手が矢に強いとなれば話は違う。理想はかすっただけでも死ぬような強い毒だ。とにかく強い毒が欲しい」
「「なるほど」」
許安は納得する二人の顔の前で袋同士を触れさせた。
「魅音ちゃんの言う通り、混ぜてみようと思う。附子の毒矢の作り方も教わったんだけど、少量の水を加えて糊状にし、鏃に塗って乾燥させるのが基本らしい。まずはその水の代わりにイポーの樹液を使おうと考えているんだ」
ここからはものづくりの話になる。許安の独壇場だ。
雲嵐も魅音も全面的に任せるつもりだった。
許安の目の焦点は急に中空へと飛び、ここではないどこかを見始めた。そして口元に手を当て、ぶつぶつとつぶやき始める。
「……もしくは松脂を鏃に塗って、そこに附子の粉末をかけるという方法もアリだって言ってたな……それならイポーの樹液を松脂代わりに使うのもいい……樹液は乾燥すると樹脂状に固まるらしいし……それと、鏃には溝を作ってより多くの毒を保持できるようにした方がいいな……溝の形状はどんなのがいいだろうか……強度を下げず、刺さりにくくもならないのは……いや、むしろ刺さった後に皮膚の中で割れた方が殺傷能力が上がるか……?」
こうなると、許安はしばらく
そして不思議なことに、こうなるとなぜか魅音が働き始めるのだ。
「私、お茶淹れてくるね」
そうやって、許安の世話を焼き始める。茶を淹れたり、つまめるものを出したり、食事の準備や家事も全部して許安がものづくりに集中できるようにするのだった。
許安は許安で思考や作業を一切止めず、
「ありがと」
とだけ短く言いながら、出されたものを出された通りに片手で飲み食いしていく。
魅音は相も変わらず自由人な娘だが、なぜかものづくりをしている許安にだけは尽くすのだった。
(こいつら……もう何年かしたら、さっさと結婚すればいい)
兄はその光景を眺めながら、二人のこういう生活を守りたいと改めて思った。
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