小覇王の暗殺者8
雲嵐は山中をひた走った。山には慣れているから、獣道でもかなりの速度で移動できる。
ただ、それでも人にとって踏み慣らされてない場所を進むというのは大変な労力の要ることだ。しかも相手は馬に乗っている。
(急げ……速く……速く!!)
もしかしたら雲嵐は、道を行く騎馬よりも速く走っていたかもしれない。
しかし雲嵐が見た騎兵たちは全体の一部であり、実はそのはるか前方には先遣隊がいた。
だから雲嵐が村に着いた時には、すでに兵たちが村中に散らばっている状況だった。
(くそっ)
雲嵐は心の中で悪態をつきながら、村の入り口近くにある茂みに身を隠した。
しばらくすると、兵たちは許貢とその家族を連れて来た。全員が後ろ手に縛られている。
雲嵐は縄を引く兵に対して激しい怒りを覚えたが、今出ても多勢に無勢で何もできないことは明白だった。
そこへ、少し遅れて孫策が到着した。
よく見ると
孫策は許貢とその家族を見ると、すぐに兵に命じた。
「縄を解け。どうせこの人数を相手に逃げられるものではない」
兵は言われた通り、すぐに縄を切った。孫策はさらに命令を重ねる。
「許貢本人とだけ話ができればいい。妻や子たちは屋敷に帰して見張っていろ。他の村人にも家から出ないように伝えろ。村に危害を加えに来たわけではない」
その命令は即座に実行され、村の屋外には許貢と孫策、朱治、そして兵たちがいるだけになった。
それを茂みに隠れた雲嵐が見ている。
孫策は許貢に笑いかけた。この男らしい、爽やかな笑顔だった。
「久しいな。戦ではやりあったが、直接顔を合わすのはあの山以来だ」
許貢には孫策ほどの余裕はない。すぐに状況の確認をした。
「厳虎殿は?
孫策としても、焦らして
「逃げたぞ」
「逃げた?」
「そうだ。その様子では聞かされていないのかもしれないが、弟の
(殺した!?厳輿さんを!?そんな……)
許貢とともに、雲嵐もその事実に驚愕していた。
和平交渉の場で交渉人を殺すとは、やる事があまりに
しかし、これが小覇王・孫策ということだろう。
孫策はその時のことを思い出して、また明るく笑った。
「ああいう豪の者を相手に戦うのは本当に楽しい。厳輿は強かったな……俺も危うい思いをする時があったが、最後は俺の手戟の一撃で勝負が決まった」
そう話す孫策の表情に、許貢と雲嵐は
「なぜそんな事に……」
「和平交渉の内容が話にならんかったからだ。どこまで本気か分からんが、初めは江東を二分しようなどと言っていたぞ?馬鹿馬鹿しい……そんな成立するはずもない交渉に時間を費やした挙げ句、その席ですったもんだあって、結局は俺との一騎打ちのようになった」
(厳輿さんらしいけど……)
雲嵐はそう思いつつも、気のいい厳輿を殺したという孫策への憎しみを募らせていた。
無意識に弓を握る手に力が入る。しかし、やはり状況を考えると今は動けない。
許貢の方は経緯を理解し、苦々しい思いを吐き出した。
「彼我の力関係を考えずに条件を持ち出したか……それに、交渉には交渉に向いた人間を向かわせるべきだろうに……」
その意見には孫策も同意だった。
「まぁ、弱い側からの和平交渉にしては考え無しに見えたな。ただこちらとしては嬉しい誤算もあった。交渉人を殺されて、怒り狂った厳虎軍の士気が上がってしまうかもしれん思ったのだ。しかし、現実はそうならなかった」
「ああ……厳輿殿はその豪勇で、かなり戦の頼りにされていたからな」
「そのようだ。柱が倒れた兵の動揺は大きく、厳虎も戦う意志が折れてしまったらしい。それで逃げたのだという話を聞いた。そして厳虎まで逃げれば、軍は瓦解したも同然だ」
つまり結果として、厳虎の勢力は戦わずして負けた形になったのだった。
ここまで話を聞いた許貢は、素早くひざまずいた。そして地面に手をつき、さらに額を土に擦りつけながら口を開いた。
「孫策殿、朱治殿。まずはお詫び申し上げたい。朱治殿が呉郡
孫策は許貢を見下ろしながら、無感動な声を落とした。
「ほう、平謝りか。呉郡太守の許貢は、朱治を新しい為政者として認めるか」
「もちろん、そうさせていただく。朱治殿の徳でもって、呉郡の民を善く治めていただきたい」
孫策が呉郡を攻めるに当たって、そういう大義名分が取られていた。朱治はこれより以前に呉郡の都尉として任命されており、その赴任というのが昨年の戦の口実だ。
都尉とは軍の長であって、郡全体を治める太守とは違う。しかし実際には郡を獲るための戦だったから、朱治は許貢を除いた後の郡役所に入り、太守の仕事をしている。
「本当に、申し訳なかった」
許貢は相変わらず額を地につけたまま、再び謝った。
もしかしたら、人によってはこの光景を情けないものと思うかもしれない。しかしそれを茂みから見ていた雲嵐は、そんなこと欠片も思わなかった。
許貢の意図が、気持ちが、痛いほどよく分かったからだ。
そしてそれは孫策にも分かったようだった。
「……家族の身を守りたいか」
問われた許貢は爪で土を掻いた。その土を、音が出るほどに握りしめる。
「歯向かったのも、戦をしたのも、全て俺の責任だ。家族は何もしていない。何も悪くない」
孫策はそれには答えず、懐から一枚の書状を取り出した。それを許貢の前に落とす。
「それに見覚えがあるはずだ」
頭を上げて書状を見た許貢の表情が、明らかに凍りついた。やや遠目に見ていた雲嵐からもそれがよく分かった。
「曹操に保護されている帝へ宛てた上奏文だ。帝の所へ届く前に、俺の部下が確保した。お前の書いたものだな」
許貢は抑揚のない声で答えた。
「知らないな。俺ではない」
「とぼけるな。書に詳しい者に筆跡を鑑定させたが、間違いなくお前の手によるものということだ。それに、この書には書いた者の強い思いが込められているという話だったぞ。何となくだが、それは俺も感じる」
孫策は書状を拾い上げ、その文章を一部読み上げた。
「孫策の
雲嵐は許貢のところに来てからそれなりの教養を身に着けさせられている。だから孫策の読み上げた書状の一部で、許貢がこれを書いた意図が分かった。
(許貢様……帝に孫策の危険性を伝えようとしたんだ。孫策の勢力が強大になる前になんとかしてもらおうと思って……)
上奏の意図はそういうことだった。
覇王項羽は漢の初代皇帝である
古の
こんな者が世にいることは災い以外の何物でもなく、当然この乱世を長くするだろう。そして、許貢はそれを帝に伝えたかった。
といっても、現実問題として今の帝自身に力はない。この前年から曹操が帝を保護し、その力を利用しているという状態にある。
許貢としては、それで一向に構わなかった。曹操が孫策を国の高官に任じ、帝の命として都に呼び寄せ、手元に置いてくれればその脅威を除けるのだ。
許貢はなおも否定し続けた。
「そんな召喚命令が出たとて、孫策殿は当然応じないだろう。俺はそんな意味のない上奏はしない」
「しかし俺が召喚命令を拒否すれば、帝の命に反し地方に割拠しているとして周囲が攻める口実になる。それにもし召喚命令が出なかったとしても、この書状は曹操に俺の危険性を伝えるものになるはずだ」
孫策はそこまで一気に反論してから、深いため息を吐いた。
「……どうやらお前は、どうしても俺の覇道を止めたいようだな。お前は俺が乱世を長引かせると言っていたが、その考えは今も変わらないか」
「…………」
許貢は返事をしなかった。
何を言っても、もはやごまかしきれないと分かった。そして孫策の言う通り、許貢は乱世で苦しむ民を守りたかった。
そう願いながら書いた上奏文だったのだ。だからその思いが文字にも現れていたのだろう。
許貢が返事をしないので、孫策は言葉を続けた。
「俺はな……戦で俺を阻む者が嫌いではない。それを打ち破った後には、その者を配下として迎えられることも多いからだ。しかしこういう搦め手は好きではないな。こういうことをする奴は、殺すしかないからだ」
「ならば、殺せばいい」
許貢はそれが何でもないことのように言った。ただし、一言付け加えた。
「さっさと俺一人を殺して、この静かな村から出て行ってくれ」
結局の所、許貢が今望むことはそれだけだ。自分一人の死で今回のことに片をつけ、家族には危害を加えないようにしたい。
そんな許貢へ返事をしたのは孫策ではなかった。朱治だ。
今まで黙っていた朱治は、主君にそれを言わせたくなくて口を開いた。
「無理だ。気の毒だが、家族にも死んでもらう」
許貢の顔は苦渋に歪んだ。
すがる様な目を朱治に向ける。
「家族は!家族だけは助けてくれ!家族はお前たちに何の恨みも抱いていないし、俺が死んだ後も恨まぬようよく言い聞かせる!だから……」
「だから、それでも無理だと言っている。我らの状況では無理なのだ。我らは江東をごく短期間で平らげたが、その速度が速すぎて各地に細かく反抗勢力を抱えることになっている。許貢殿の部下だった兵たちも、もちろん火種の一つだ。そして許貢殿の遺族は、そういった連中の旗印にされかねない」
許貢は前太守を武力追放しているが、要はそれができるだけの敬慕を兵たちから受けていたわけだ。そしてそれは、一族を連座させて処刑するのに十分な理由だった。
もちろん反抗勢力への見せしめという意味合いもあるだろうが、それだけではない。
助命の願いを跳ね除けねばならない朱治の眉は、厳しく歪められていた。
「正直に言うと、私はこのような書状が見つかる前から許貢殿は一族もろとも殺すべきだと、孫策様にそう申し上げてきた。むごいと思うかもしれんが、我らにはそれほど余裕がないのだ」
許貢もそれは分かる。分かるが、これだけは受け入れられない。
「頼む……頼むから……家族だけは……」
血の滲むような声を上げながら、また地面に額を擦りつけた。
もはや、すがるしかできない。それが意味のないことだとしても、許貢にはそうすることしかできないのだ。
孫策はそんな許貢を見下ろしながら、なんの感情もうかがえない声を落とした。
「せめて楽に死なせよう。死んだことも分からないように殺す。お前の死も伝えない」
それは確かにせめてもの情けではあったのかもしれない。が、やはり許貢には絶望でしかなかった。
もはや言葉を発せなくなった許貢へ、孫策は尋ねた。
「だから、あの山で会った息子の居所を教えろ。許安といったか、先ほど捕えていた家族の中にはいなかったな」
許貢は心臓を跳ねさせたが、できるだけそれを声に乗せないよう努力した。
「……安は死んだ。病だ」
「下手な嘘はよせ。俺もああいう子を殺したくはないが……父を殺された息子がどんな感情を抱くかはよく知っている。復讐の鬼として生きるのが、あいつの幸せとも思えん」
「安はお前とは違う。復讐の鬼にはならん」
「果たしてそうかな?確かにあいつは俺とは違うが、お前のような父は子に慕われていよう。その愛が強ければ強いほど、復讐心も強くなるのだ。だから俺は、あいつを殺そうと思う」
最後の一言を耳にした許貢は、弾けるように立ち上がって孫策に掴みかかろうとした。
それを周囲の兵たちが素早く押さえつける。そして首に縄を巻き、締め上げようとした。
絞殺しようというのだろう。
ずっと茂みで動けずにいた雲嵐は、この段になって勝算のある戦いを諦めた。勝てずとも、今動かなければ許貢は殺されてしまうのだ。
(くそっ、もうどうしようもない!)
雲嵐は矢をつがえ、弓を引き絞った。
狙いは許貢を押さえる兵ではない。孫策だ。
兵を一人二人仕留めたところでこの状況では逃げられない。しかし、もし孫策を殺せれば敵は大混乱に陥るはずだ。
前の時はかわされてしまったが、許安があの時よりも強い弓を作ってくれていた。その分だけ矢も速くなっている。
(絶対に、殺す!!)
雲嵐は誓いを立てるように念じながら、弦を離した。
が、その時不思議なことが起こった。弦を離す直前、まだ雲嵐が動く前に孫策が横っ飛びに飛んだのだ。
(な、なんでだ!?)
一瞬前まで孫策がいた場所を矢が抜けていく。それは硬い音を立てて樹に刺さった。
その場の全員の目がその樹へ向いた。
そして矢の向きから飛んできた方向が分かったのだろう。一斉に雲嵐の方を振り向いた。
雲嵐の存在に気づかれてしまった。
(こうなったら、もうやれるだけやるしかない!!)
最早、死ぬまで矢を射ち続けるだけだ。雲嵐はその覚悟を決めて次の矢をつがえた。
兵たちはこの暗殺者を囲むべく、連携の声を上げようとする。
が、それをかき消す
「雲嵐っ!!頼むっ!!」
許貢は押さえつける兵たちを吹き飛ばさんばかりの声を上げた。
そしてそれは、雲嵐の心の芯にまで届いた。
「……はいっ!!」
雲嵐は短く返事をし、踵を返した。
茂みからそのまま山へと駆け入る。後ろからの矢に備え、樹の影を縫うようにして走った。
当然、兵たちはそれを追う。
しかし、山へ少し入った所で先頭の三人が足を射抜かれた。一張の弓から放たれたとは思えない射撃間隔だった。
それで兵たちは警戒し、追撃速度が落ちた。雲嵐とは少しずつ離されてしまう。
雲嵐はその後も折々に兵の足を射ち抜いた。殺しはしない。怪我人にした方が追う側の負担になるからだ。
(許貢様……ごめんなさい……守れなくて……ごめんなさい……)
雲嵐は心の中で何度も謝りながら山中を駆けた。
ごめんなさいと思うたび、目に涙が浮かんでくる。しかし雲嵐はすぐにそれを指で弾いた。
涙で視界が歪めば、それが原因で何かの失敗に繋がるかもしれない。そうすれば、許貢に頼まれたことを成し遂げられる可能性が少し減るのだ。
(ごめんなさい……守れなくて……でも……絶対に……守ってみせます!!)
雲嵐は息を切らしながら、可能な限りの速度で駆け続けた。多数の兵に追われながらも、徐々に安全圏へと抜け出ていく。
しばらくして、兵の一人がその状況を報告しに村へ帰ってきた。
それを受けた朱治は山の捜索を命じてから、改めて許貢へと向き直った。その視線にはやや憐憫の情が浮かんでいた。
「……あの時の子だな。色々思うところもあるだろうが、この状況で一矢放っただけでも立派なものだ。お前は間違いなく慕われている」
許貢には朱治の視線と発言の意図が理解できなかった。
「……思うところ?どういう意味で言っている」
「いや……お前に『頼む』と言われても逃げてしまったわけだが、それでも立派なものだと……」
言われた許貢は笑った。何を勘違いしているのだと思った。
「ああ……あの子は立派な子だよ。そして、とてもえらい子だ。『守る』ということが、どれだけ大切なことかを知っている。だからきっと、俺の頼みをしっかりと聞いてくれる」
「…………?」
朱治には分からないようだったが、許貢にはよく分かっていた。
雲嵐にはちゃんと伝わっているはずだ。共に『守る』ための「天地」を持っている者だから。
許貢が頼むと言ったのは、許安と魅音の身の安全だ。最後に残された家族を守ってくれるよう、あのえらい子に頼んだのだった。
「安……魅音……雲嵐……大好きだぞ……世界で一番、お前たちが大好きだ……」
許貢は世界で一番大好きな言葉をつぶやきながら、最期に見る空を仰いだ。
よく晴れた、美しい空だった。
後悔がないわけではない。
それでもこの空の下で家族と共に生きてこられたことは、とても幸せなことだと思った。
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