第205話 諸葛亮

(なるようにしかならないが……)


 許靖は大会議室の控えで、意味もなく歩き回りながらため息をついていた。


 もう何度目になるか分からない心のつぶやきを、頭の中だけで繰り返す。かなりの時間待たされており、思考は堂々巡りをしていた。


 今日、敗戦後の許靖の処遇が決まる。これから劉備とその群臣たちのいる大会議室で議論がなされ、その処遇が決定されるのだ。


 許靖もその場に出さされて、話をさせられる予定だった。


 終戦の手続き自体は数日前に滞りなく済まされている。張裔チョウエイが使者として劉備のもとへ赴き、無事降伏が許された。


 すでに城門は開放され、成都は劉備軍が占領している。


 今のところ、街では大きな混乱や兵による狼藉は起きていない。


 劉備は次の益州の主として民の信頼を得ねばならないから、この点よく注意して兵を統率しているようだった。加えて、まだ余力を残しての降伏であったことも影響しているのだろう。


 劉璋に関しては、その生命と財産が保証されることが決定された。


 劉備としても前支配者を無下に扱い、既存勢力の反発を買う必要はない。そのうち適当な役職でも与えられて、自由はなくとも悪くない生活が送れるようにしてもらえるだろう。


 臣下たちも、今の所ひどい処遇を受けたという話はあまり聞かない。むしろ、劉備はその多くを配下として受け入れているとのことだった。


 劉備は今後、これまでとは比べ物にならないほど広い土地、多くの人民、大きな資源を管理せねばならなくなる。


 有能な部下はいくらいても足りないし、現在ある統治機構とその人員は可能な限りそのまま使いたかった。その方が統治も安定するだろう。


(そもそも、この益州はそういう土地だ。州の安定のためには外部勢力をも進んで受け入れ、その下で各自が力を伸ばそうとする。劉璋様も降伏後は劉備殿に仕えることを部下たちに勧めていた)


 そもそも劉璋の父、劉焉リュウエンも外部から来た人間であり、それを地元豪族が上に戴いてくれたからこそ益州に立つことが出来たのだ。


 劉璋自身、劉備が自分を負かした外部勢力だからといって配下の再就職を止める気になどならないし、その筋でもない。


(とはいえ、戦時中の行動で処罰される人間もいないわけではない。私は脱走の件で成都の民にも嫌われていようし、その気持ちを汲んで処刑、という事になってもおかしくはないだろう。最悪、死ぬ可能性だって十分にある)


 民の人気を得るために旧支配者層の嫌われ者に重罰を科す、というのは効果の上がりそうな処置ではある。


 数日前には己の命を差し出してまで戦を止めようとした許靖だったが、死ぬ必要がないのならその方がいいに決まっている。


 ただし、それは劉備たちの心持ち一つだ。


 許靖はまな板の上の鯉のような心境だった。


(なるようにしかならないが……)


 許靖が再び心の中でそうつぶやいた時、部屋の扉が開け放たれた。


 扉の向こうには、齢三十頃の長身の男が立っていた。


 片手に羽毛扇を持ち、それを胸の前に配した姿が妙に堂に入っている。


諸葛亮ショカツリョウ殿ですか?」


 許靖は挨拶も自己紹介もないまま、第一声でそう尋ねた。


 男は初対面にもかかわらず即座に名を言い当てられたことに、多少の驚きを覚えているようだった。


 許靖が推察した通り、この男は今回の戦における第一等の評価・褒賞を受けた諸葛亮だった。


 諸葛亮はすでに劉備陣営の重鎮だ。控室で待つ許靖を呼びに来るだけなら端役の役人にでも行かせるのが普通だろう。


 にもかかわらず、許靖はひと目でこれが諸葛亮だと思った。


 諸葛亮は許靖の顔を覗き込むように見た。


「お会いしたことは……ありませんよね?」


「やはり劉備殿は道標みちしるべを見つけられたのか……」


 許靖は諸葛亮の確認には答えず、というよりも確認されていることすら気づかない様子で諸葛亮の瞳を凝視した。


 凝視しながら、諸葛亮と戦った張裔の言葉を思い出していた。


(……なるほど、これは人間ではない)


 張裔は打つ手打つ手を全て読んでくる諸葛亮のことを『人間ではない』と表現した。


 そして許靖もまた、瞳の奥の「天地」を見ながら同じことを感じていた。


 許靖はもう六十年以上、瞳の奥の「天地」を見続けてきたが、それでもこのような「天地」をした男には会ったことがなかった。


した龍が、静かにこちらを見ている。深い緑色の瞳をした龍だ。まるで翡翠のような、神秘的な瞳……)


 諸葛亮の「天地」はそれだった。臥した龍の「天地」であり、確かに人間ではない。


(この龍が立っていれば、おそらく強さを示していただろう。しかし臥している。それはきっと、叡智を示しているのだ。この瞳の奥には人の身では至ることのできない龍の叡智が存在している)


 そして許靖は直感的に、ある光景を思い浮かべていた。


 それは一人の人間が臥した龍の前に立ち、世界の進むべき道を問うている光景だ。


 その人間の顔は、許靖にとって懐かしい。それは劉備だった。


(臥龍を世界の道標とされたか)


 劉備が関羽、張飛とともに作り上げる世界。


 天地人


 それを諸葛亮が龍の瞳で眺め、龍の叡智でその行き先を示す。ここ数年で、そういったことが行われていたのだと感じられた。


(赤壁の戦い辺りから劉備殿の動きが変わったように感じていたが、おそらくは諸葛亮殿を得たからだな。あの頃から何か明確な目的と、そこへ行き着くための道筋を立てて動いているようだった)


 益州を手に入れたこともその道程の一部だろう。劉備たちはこの乱世を一体どこへ向かおうというのか。


 許靖はそんなことを考えながら諸葛亮の瞳を凝視し続けた。


 諸葛亮もしばらく黙って許靖を見返していたが、やがて口を開いた。


「……劉備様にも『ついに道標を見つけた』と言われたことがあります。あれは許靖殿の予言だったのですね」


 そう言って笑った。


 笑うと不思議なほど人懐っこさを感じさせる、そんな笑顔だった。澄ましているとどこか近寄りがたい彫刻のような顔なのに、笑うとそれが面白いように崩れるのだ。


 許靖は首を振って諸葛亮の言葉を否定した。


「予言などと、占いじみたものではありません。ただの助言ですよ。道に迷っているようでしたから、道標を見つけるよう勧めただけです。三兄弟で作る世界が征くべき道を教えてくれる、そんな道標を」


「なるほど。そして劉備様は私を見つけられた。私は道標と言われたその言葉を忘れず、常に征くべき道を示そうとしてきました。その結果、今ここにいます」


「なるほど、益州にとっては迷惑極まりない道でした」


 許靖は冗談半分、本気半分の嫌味としてそれを口にした。


 もはやどうする事もできない過去のことを責めたくはないが、この侵略戦争で傷ついた者は多い。


 諸葛亮はそれを冗談だと捉えず、真剣に頭を下げた。そして心からの謝罪を口にした。


「それに関しては何も言い訳をするつもりはありません。今回の戦は、純粋な侵略戦争でした。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」


 許靖としてはこれ以上なじるつもりもない一方で、いいですと言うわけにもいかない。だから黙って諸葛亮の下げられた頭を見ているしかなかった。


 しばらくして諸葛亮は頭を上げると、許靖の目を真っ直ぐに見た。


 謝罪の気持ちに嘘はないだろうが、その視線には何の後悔も恥じらいも感じられなかった。


「ご迷惑は重々承知でしたが、我らの征き着くべき目的地への道はここにしかありませんでした」


「目的地……それは一体どこなのでしょうか?」


「漢という国の存続です」


(馬鹿馬鹿しい!)


 許靖は腹の底からそう叫んでやりたかったが、さすがにそれは腹の中に留めておいた。


 国という形式を続けるために民を傷つけるという。国は民のためにあるはずだ。これでは本末転倒だろう。


 口に出さずともその感情は伝わったらしい。諸葛亮は軽くうなずいて言葉を続けた。


「色々思われるところはあると思いますが、私も劉備様も色々考えてのことです。ただ……それは今はいいでしょう。それよりもお聞きしたいことがあって来たのです」


「どのようなことでしょうか?」


「益州の有能な人士の情報を。月旦評の許靖殿がいるのに、それを聞いておかないのは大きな損失です。これから許靖殿の処遇を決める会議が行われますので、その前にお聞きしておこうと思いまして」


(それは……会議の後では聞けなくなるということだろうか?)


 許靖は諸葛亮の一言に大きな引っかかりと不安を覚えた。


 当然、首が胴と離れていれば聞けなくなるだろう。そうなった自分を想像してしまった。


 しかし、望まれたことを答えない理由もない。


「……分かりました、私としても有能な同僚や知人が重用されるのは嬉しいことです。お話しましょう。まずは帳下司馬の張裔殿。彼は非常に合理的な思考の持ち主で、抜群の実務処理能力を持っています。今は軍に身を置いていますが、行政で用いられると良いでしょう。特に武具や農具の製造管理などが向いていそうです。次に巴郡を守っていた厳顔殿ですが、ただの老将と思われない方がよろしい。今回は張飛殿の思わぬ罠にはまってしまいましたが、走り過ぎさえ注意させれば若者以上の勢いを持って働けます。また人を惹きつける魅力があり、巴郡周辺の豪族にも顔が利くので使わない手はありません。それに黄権コウケン殿や劉巴リュウハ殿は今回の入蜀に反対したとはいえ、気骨も大局眼も十分です。劉璋様のご子息では長男の劉循リュウジュン様など……」


 許靖は己の処遇への不安から逃避するためか、やたら饒舌に話をした。


 それで諸葛亮は有用な情報が大量に得られ、この上なく有意義な面会となった。


 もし諸葛亮が龍の叡智でわざと許靖の不安を煽ったのだとしたら、この龍は存外人が悪い、いや、龍が悪いのかも知れない。

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