第188話 開戦
「焦土……戦術?」
「はい。敵軍にとって利用価値のある建物や食料などを焼き払う戦術です。さしもの劉備も行く先々で拠る建物も無く、穀物も焼かれている状況では戦を継続できないでしょう」
説明を聞いた群臣は、なるほどと思った。これなら確かに確実に勝てるだろう。
益州は山に囲まれた要害の地であり、劉備の本拠地である荊州からの補給は容易ではない。
どうしても多くのものが現地調達になるが、それを全て焼かれたのでは戦い続けることなど出来ないだろう。
「まずは
「却下します」
劉璋から言下にそう言われ、鄭度は耳を疑った。聞き間違いだと思った。
「……は?……えー、巴西郡と梓潼郡においてですね……」
「聞こえませんでしたか?その提案は却下します。焦土戦術は採用しません」
劉璋は開戦を渋っていた先ほどまでとは態度を一変させ、きっぱりと明確にそう宣言した。
「我々の敵は劉備軍です。民ではない。我々が民を苦しめてどうします」
「た、民はきちんと避難させてから焼きます。それならば……」
「避難させたところで、民が故郷を焼かれる苦しみに違いはありません。その苦しみを思いなさい。それに郡二つといえば結構な人数ですが、戦をしながらですから十分な援助が出来るとは思えません。凍える者、飢える者も出てくるでしょう。たとえ援助が十分であったとしても、長距離の移動で体の弱い者たちから倒れていきます。戦後の事を思っても、戦で消耗した州が焼いたもの全てを補償できるとは思えません。ならば、これはただの州による虐待です」
劉璋にしては珍しいほどの饒舌だった。
優しいこの刺史は、民の苦しみを思えばこれだけ頭も回り、舌も滑らかになるのだった。
しかし、鄭度はそれでも不満だった。
「で、ですがこの方法なら確実に……」
「我々は民を守るために敵を防ぐのです!その民を苦しめては本末転倒でしょう!」
常に穏やかな劉璋から大きな声を出され、鄭度はそれ以上何も言えなくなった。
同様に、他に焦土戦術を口にできる者もいなくなる。
一時議論の場は静寂に包まれたが、すぐに張裔が代替案を提示してくれた。
「……では月並みの考えにはなりますが、守りを主軸にして要所要所で攻めに出る、という方向でいかがでしょうか。地の利がある以上、無理をして決戦に持ち込む必要は無いかと思われます」
その場にいる誰もが張裔の挙げた方針を妥当なものだと思った。
劉備の兵力はかなりのものだが、ほとんどの城はまだ劉璋が確保しているのだ。それらを主軸に守るのが定石だろう。
劉璋もそう思い一座に確認したところ、特に異論は出なかった。
「では、大まかな方針は先ほどの通りということにしましょう。となると、籠城が主軸ですね。籠城といえば食料……」
劉璋が『食料』と言って目を光らせたのを、許靖は見逃さなかった。
劉璋の瞳の奥の「天地」では、長い箸を持った人々が互いに食事を食べさせ合っている。
相手を思いやる優しい「天地」だったが、劉璋の人格に影響しているのはその優しさだけではない。劉璋は何よりも食べることが好きだった。
特に大人数でのにぎやかな食事会はほとんど趣味と言えるほどの好物で、許靖も数十人の家族を連れてよく招かれている。
劉璋は急にテキパキと指示を出し始めた。
「籠城では食料の確保が何よりです。早急に取り掛かって下さい」
官吏の一人が手を挙げて応える。
「了解いたしました。収穫を急がせます」
「いえ、それは待ちなさい。時期が来ていないのに収穫してしまうと、量も少ないし栄養も落ちます。そして味も悪い。まず劉備軍が来るまでの期間を予測し、収穫にかかる時間も計算して出来るだけ延ばして下さい。逆に干魚や干茸など、保存食にできるものの生産はすぐにでも増やすように」
「りょ、了解いたしました」
劉璋の的確な指示に、担当の官吏はただただうなずいた。
また別の官吏の手が挙がった。
「劉璋様、城壁の補修が必要な城がいくつかあります。応援の人数を送ってもよろしいでしょうか?」
「お任せします。……そうだ。籠城が長期に渡る可能性があるなら、城内の一部を使って食料を生産することも出来ますね。誰か、できるだけ早く収穫できる野菜や穀物を選定して一覧にして下さい。苗や種を確保します。農地にする城内の候補地も挙げて」
「はい、では私が」
一人の官吏が答え、また別の官吏が手を挙げた。
「劉璋様、矢の蓄えが心もとないので生産を急がせますが、同時に手の空いている民衆に投石用の
「お任せします。……あとは、そうそう。やはり味も考えなければ。調味料もしっかりと確保しておいて下さい。特に強めの香辛料を。強めに味をつければ臭みの強い生物の肉でも食べられます。人によっては病みつきになるかもしれません」
「劉璋様、武具の製造ですが……」
「お任せします。そうだ、城の料理人を呼んで下さい。食材を無駄なく使う調理法や、少ない量でも満足できる料理を考えさせましょう。必要に駆られたこんな時こそ、新しい料理が産まれるかもしれません」
劉璋はもはや止まる様子がない。
張裔はそんな主君を苦笑しながら眺めていた。いや、一座のほとんどの者が苦笑いしか出来なかったろう。
仕方なく張裔は大きな声を出した。
「あの……あの!劉璋様!」
さすがに叫ぶような声を上げられた劉璋は思考を一時中断させ、張裔の方へと目を向けた。
「何でしょう?」
「まずは、官吏をいくつかの部門に分けてはいかがでしょうか?食料部門、城壁部門、武具部門、兵馬部門、民生部門、そして全体の統括部門、といったところでしょうか。そのそれぞれが戦に向けた課題と対応を協議して、実行に移します。劉璋様は統括部門の長、兼、食料部門ということで……」
劉璋は特に最後のところで満足したようで、何度もうなずいた。
「そうですね、そうしましょう。あなたがそれぞれの担当者を選んでくれますか?」
「私でよろしければ。では……」
こうして実務抜群な張裔のおかげで、益州はなんとか戦に向けて動いていけそうだった。
多くの人間は戦のことを考えると不安で仕方がなかったが、
(戦時中でも、意外と美味い食事にありつけるかもしれないな……)
そう思えるのは、多少ありがたい話ではあった。
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