第187話 開戦

「もはや戦は避けられません。劉璋リュウショウ様、ご決断を」


 益州の主要な官吏が一同に会した政治堂でそう発言したのは、張裔チョウエイだった。


 張裔は現在、劉璋の副官から帳下司馬ちょうかしばという一軍を指揮する役職へと移っている。立場的にも、劉璋に開戦の決断を促して間違いはない。


 皆が劉璋を見た。


 が、劉璋はため息をついただけで何も答えない。


 しばらく沈黙が続いたが、その沈黙に耐えられなかった張粛チョウシュクが声を上げた。


「……本当に申し訳ございません。愚弟のせいでこのようなことに」


 張粛は今にも自らの命を断ちかねないような、消え入るような、震える声でそう言った。


 先ほどは何も答えなかった劉璋は、今度はすぐに口を開いた。


「張粛殿、もうやめて下さい。むしろ、あなたと許靖殿のおかげで少しでも早く劉備殿の侵略に気づくことが出来ました」


 そう言われた張粛は深々と頭を下げた。そして、許靖もその隣りで張粛に習った。


 春鈴と張占の見合いが終わった後、許靖はその足で張松の兄である張粛の元を訪れた。


 張粛は許靖の後任として広漢こうかん郡の太守に就いている男だが、公務の都合で折よく成都に来ていたのだった。


 許靖は張松の屋敷で見たものを張粛に話した。


「張松殿は劉備殿に、すぐに成都へ向けて軍を進めるよう促す手紙を書いていたようです。しかも、約束を違えて荊州へ帰ることを責めていると思われる文章も見受けられました。ここから察するに、弟君の張松殿は初めから劉備殿に益州を奪わせるつもりで呼び込んだ、という事になります……」


 許靖はその特殊能力も関係しているのかもしれないが、かなり目が良い。それに仕事柄、日常的に速読もしている。


 張松がうかつにも執務室に広げていた手紙を、ほんの短い時間視界に入れただけで大体の内容を理解してしまった。


(そもそも劉備殿が荊州に帰ると言い出した事自体が罠だったのだ。それで劉璋様を怒らせて仲違いをし、それを口実に開戦するつもりだった。張松殿は焦りすぎて、それを読み切れなかったのだろう)


 許靖はそう考えており、そう張粛へと伝えた。


 主君を売ろうとした弟とは違い、兄の張粛は忠義心が深く真面目な性格をしている。実の弟の裏切りに泡を食った。


 それから張粛はまず酒に酔ったふりをし、宴会をすると称して大人数で張松の屋敷へ押しかけた。


 そして門をまたぐとすぐに家探しを始めた。


 手紙はすぐに見つかった。果たして許靖の言った通りの内容であった。


 張粛は泣きながら手ずから弟のことを縛り上げ、手紙とともに劉璋のもとへと送り届けたのだった。


 そしてすぐに主要な官吏が集められ、現在に至る。


 劉璋は張粛を気遣ってまた声をかけた。


「張粛殿、実の弟を告発せねばならないのは辛かったでしょう。それをやってくれたのだから、もう誰もあなたを責める人はいません。気に病まないで下さい」


 劉璋はそこで一旦言葉を区切ってから、またその先を続けた。 


「……それに、多くの人間が止めたにも関わらず劉備殿を益州に入れる決断を下したのは私です。結局の所、全ての最終責任は私にあります。ただ……それを戦という形で民に負わせてしまうのは本当に、本当に心苦しい……」


 劉璋の最後の言葉は、まるで喘ぐようだった。


(戦……)


 許靖は劉璋が口にした『戦』という言葉を、青い顔をしながら心の中で繰り返した。


(戦……そうだ、戦だ……)


 許靖は自らの鼓動が大きく、早くなってくるのを感じた。


(嫌だ……戦は……嫌なのだ……)


 無意識に呼吸が荒くなってくる。


 目を閉じると、董卓が投げつけた死体や、自分が手にかけた男たちの顔が浮かんでくる。血や臓物の匂い、温かさ、そういった感覚が蘇ってくる。


 許靖は無理やり花琳の瞳を思い浮かべようとした。そして、左手の薬指にはまった指輪を右手で回す。花琳の名が刻まれた指輪だ。


 そして、できるだけゆっくりと息を吐くようにした。そうしている内に、少しずつ落ち着いてくるはずだ。


 董卓につけられた心の傷は、二十年以上が経った今でも癒えることはなかった。


 きっと一生癒えることはないのだろう。許靖は齢を取り、改めてそう思った。


 張裔が再度劉璋に開戦の決断を促した。


「劉璋様。ご心中はお察ししますが、事ここに至ってはどうしようもありません」


「分かっています。分かっていますが……どうしても戦はしなければならないでしょうか」


 劉璋はそう言ったが、普通に考えればもう戦が起こる事自体はどうしようもない。


 劉備は軍勢を連れてすでに益州に入っている。そしてその劉備の本当の目的が益州を侵略することだと分かった。であれば、もはや戦う以外の選択肢は無いだろう。


 当然、張裔もそう思っている。


「先ほどまで議論していた通り、軍勢をすでに入れてしまっている以上、交渉でなんとかなる段階は過ぎております」


「しかし……やはり戦はしなければならないか……」


 明らかな理を示されてなお抵抗する劉璋の心の内を、官吏たちは全員理解できなかった。ただ一人、許靖を除いて。


(劉璋様は降伏を考えておられる)


 許靖にはそれが分かった。


 そうすれば戦は避けられる。そうすれば民は傷つかずに済む。


 劉備と戦うのは、内乱のような状態だった漢中の張魯を攻めるのとはわけが違う。


 目の前の害獣を殺すような事態で終わるわけはなく、むしろ腹の中で猛獣同士を戦わせるようなものだ。戦の規模も、傷つく民の数も段違いに大きいはずだった。


(降伏……)


 劉璋の頭の中でその選択肢が浮かんでいる事を、許靖だけは確信を持って理解していた。


 しかし劉璋も人の上に立つ者として、それは言ってはならないことだと分かっている。


 許靖もそうだった。口に出してはいけないと分かっていた。


(それに、劉璋様一人の発言力は他の群雄のように強くはない。このような状況で劉璋様と私が降伏を提案したところで、通るはずがない)


 劉璋も許靖も、それが分かっていた。


 だから口にはしないが、しかしそれでも戦は嫌だった。


 劉璋は一座を見回し、そして許靖と目が合った。


 許靖は小さく、ゆっくりと首を横に振ってみせた。それに対して劉璋は目を伏せて、小さくうなずき返した。


「……戦は仕方がないとして、勝てますか」


 劉璋は嫌々ながら、開戦を決断する発言をした。


 開戦の宣言としてはあまりに締まらないものだったが、それでもこれで戦の方針は確認できた。


「絶対に勝てると断言できる方法が、一つだけございます」


 そう声を上げたのは、鄭度テイドという劉璋の従事(副官)だ。


 優秀で頭が良く、決断力があると評判の官吏だった。


「絶対に勝てる、ですか……そんな都合のいい方法がありますか?」


 疑わしげな劉璋に向かい、鄭度は胸を張って堂々と答えた。


「焦土戦術です」

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