第162話 新興商人

 穏やかでない内容の叫び声に、許靖は身を跳ねさせるように立ち上がった。そして声のした廊下の方へと走り出す。


 この声が聞き覚えのないものであったなら、臆病な許靖はむしろ身を縮こまらせて座っていたことだろう。


 だが今まで聞いたことがないような声音だったとはいえ、それは陳祗チンシの発した声で間違いなさそうだった。


 許靖が廊下に出ると、そこには二人の警備兵に羽交い締めにされた陳祗の姿があった。


 そしてそのすぐ側で趙才が咳き込みながらうずくまっている。


「……これは?」


 許靖は状況を理解しきれず、かろうじてそれだけを言った。


 趙才が咳き込みながらそれに答えてくれた。


「わ……分かりませんが、突然この子に首を絞められまして……私は交州で会ったこの子に挨拶をしただけなのですが……」


 趙才の言葉に、陳祗が牙を剥くように犬歯を見せた。


 許靖の見る瞳の奥の「天地」では、陳祗の太陽が自らも焦がさんばかりに燃え上がっている。


「何が挨拶だ!大叔父様、こいつです!こいつがお祖父様を殺した男です!」


 その言葉に、趙才は端正な口元があんぐりと開いた。


 予想だにしない展開に頭が追いつかない様子だったが、それでもゆっくりと反論した。


「な……何を言ってるんだ?君は許胤キョイン殿のお孫さんだったな。そもそも、私は許胤殿が亡くなったことも今初めて聞いたぞ」


「何を白々しいことを……お前があの時に毒を盛ってお祖父様を殺したんだろう!」


「毒……?なんてことを言うんだ!私はまっとうな一商人として誇りを持っている!仮に気に入らない人間がいたとて、毒殺などという手段は絶対に取らない!」


 二人の言い合いで、許靖はだいたいの状況が把握できた。


 そしてそれと同時に、激しい後悔の念にかられた。


 今の今までこの事に気付かなかった自身の間抜けを呪った。


(陳祗は祖父を毒殺した犯人が、趙韙の一族である若い商人だと言っていた。そして、趙才殿は自ら益州の外へ出向いて新たな仕入先を開拓しているとのことだった。これだけの事を聞いていて、なぜ今まで気付かなかった)


 つまり許胤が死ぬ前、最後に食事を共にした人物こそが趙才だったのだ。


 そしてもう一点、許靖は激しく後悔したことがある。それは今朝届いた手紙の処理を後回しにしてしまったことだ。


「陳祗……陳祗!」


 激しく取り乱した陳祗に対し、許靖は大きな声を上げた。


 陳祗はその呼びかけにいったん叫ぶのをやめて許靖の方を見た。警備兵の腕の中で暴れるのも止めたが、興奮はすぐに冷めず肩で息をしている。


 許靖は陳祗を落ち着かせるためにゆっくりと話した。


「いいか、よく聞きなさい。趙才殿は、兄上に毒を持ってはいない」


「でも!確かにこの男があの時いっしょに食事をした男です。そうだ、依依さんに聞いてみたら分かります。あの人も同席していたんだから……」


 その陳祗の言葉を遮るように趙才が声を上げた。


「私は別に君たちと食事をしたことを否定する気はない。だが、どうしてそれで毒を盛ったなどということになるんだ」


「あの後すぐにお祖父様は倒れたんだ。それに、お前は趙韙の一族だから大叔父様が益州の外から来て太守になるのが嫌だったんだろう」


「何を馬鹿な!私はそんな狭量な人間では……」 


 許靖はまた言い合いを始めた二人を大声で止めた。


「二人ともいったん落ち着いて!……ますば私の話を聞いて欲しい。私は誤解を解けるだけの情報を持っている」


 そう言われて、二人は黙って許靖の方を見た。


 許靖は再びゆっくりと話し始める。


「陳祗、そもそも兄上は毒殺などされていない。完全な病死だ」


 陳祗はその言葉をすぐに理解できなかった。


 事実ならば今の今まで信じていた怒りが根底から崩されることだ。だからこそ、簡単には信じられなかった。


「……お祖父様はこの男と食事を共にした夜から苦しみ始めました。疑われて当然です。それに、はっきりと否定されましたがその場にいなかった大叔父様にどうしてそれが分かるのです?」


「私が初めに違和感を持ったのは、兄上が亡くなるまでの症状を聞いた時だ。腹や胸に薔薇の花びらのような桃色の斑点が出ていたと言っていたな」


「はい、確かにそうでした」


 許胤の症状を聞いた趙才が、ハッとした顔で口を挟んだ。


「それは、南方に多い傷寒しょうかんでは?」


 趙才の言葉を許靖はうなずいて肯定した。


「趙才殿の言う通り、薔薇状の斑点は交州などの南方でよく見られる傷寒の特徴的な症状だ。汚染された食べ物で伝染り、特に北から来た人間は罹りやすい」


 傷寒、とは発熱を伴う急性疾患全般を指す。風邪やインフルエンザなども含まれるが、この場合は現代医学で言うところの腸チフスだ。


 腸チフスはチフス菌に感染することで発症する感染症だが、初めは発熱やだるさ、頭痛、腹痛など風邪の症状と変わらない事も多い。それが進行すると下血や脾腫、そしてバラ疹といわれる特徴的な皮疹などが現れることがある。


 許胤の場合はそれをこじらせて、最終的に腸管穿孔にまで至ってしまったということだ。


 許靖も医学の専門家ではないのでそう詳しく知っているわけではなかったが、交州に十年以上住んでいた者としてバラ疹のことは聞いたことがあった。


「実は陳祗から症状の話を聞いた時にそうかもしれないと思って、兄上を看た医師に確認するつもりだったんだ。しかし依依や明明のことでバタバタしてしまっただろう?それで失念してしまっていた」


 陳祗もその時の事はよく覚えている。


 確かに依依と明明を益州へ連れて来るに当たって、あれこれ話し合ったり準備を手伝ったりで大変だった。


「先日そのことを思い出して、宿屋の主人に医師へ確認してもらうよう手紙を送ったんだ。そして今朝、その返事が届いた」


「今朝、ですか」


 陳祗の言葉に、許靖は苦い顔になった。


「私がすぐに話しておけばよかったのに、後回しにしてしまったからいけなかった。それは本当にすまない」


「い、いえ」


 大叔父に頭を下げられ、陳祗はむしろ身を縮ませた。


「……それで、医師の回答だがやはり病死だろうとのことだった。診断がしっかりついてからは、兄上にも汚染された食べ物で伝染る傷寒であることは伝えていたということだったんだが……陳祗はその場にいなかったんだな」


「私は初耳です」


「それと、兄上がしきりに趙才殿の事を疑われていたと言っていたが、それはもしかして病床についてから初めの数日の間なんじゃないか?」


 陳祗は少し考えてから答えた。


「言われてみれば……確かにそうです。病状が悪くてあまり話されなくなったのかと思っていましたが」


「やはりそうか。きっと兄上も診断を伝えられてからは疑念が晴れたんだろう」


 許靖はそう言ったが、陳祗はまだ納得のいかない顔をしている。


 今日まで数カ月、憎しみを側に置いて生きてきたのだ。それをすぐに手放せと言われても、精神が恒常性を保つために拒否をしてしまう。


 陳祗は許靖に反論した。


「で、でも……汚染された食べ物で感染するなら、それを食事に入れるということも考えられませんか?傷寒による病死だからといって、必ずしも殺されたわけではないとは言い切れません」


 その言葉には趙才が横から回答した。


「南方に多い下血を伴う傷寒は、必ずしも死に至るという病ではないと聞く。人を殺すための手段としては、あまりに確実性に欠けるな」


 趙才の冷静な言い様にむっとした陳祗はまた反論した。


「でも、お祖父様はあなたと食事をした直後に体調を崩されているんです。さっきも言いましたが、あなたは疑われて当然です」


 陳祗の言い分に、今度は許靖が横から答えてやった。


「そもそもそれがおかしいんだ。この病は潜伏期間が十日以上あるのが普通らしい。汚染された物を食べてから何日もしてから発症するんだ。ということは、むしろ趙才殿は被疑者から外れることになる」


「……」


 陳祗はそれ以上の反論は出来なかった。しかし、今日までの持っていた憎しみを捨てきれずにいる。


 許靖はそれを見取って優しく声をかけた。


「陳祗、お前は賢い子だ。一つ一つを考えて、結論は出せているだろう。ならば、自分が今何をしなければならないかは分かっているはずだ」


 陳祗は少しの時間じっと床を見ていたが、やがて許靖に目を向けてうなずいた。


 それから趙才の方へと向き直る。


「私のまったくの思い違いでした。本当に、申し訳ございません」


 それから頭を下げた。


 その様子に、警備の兵たちもようやく陳祗を離した。離された陳祗は床に手をつき、改めて頭を下げる。


 許靖も趙才に向かい、深々と頭を下げた。


「趙才殿、うちの子が大変な迷惑をかけてしまいました。どうかご容赦を」


 さすがに趙才も太守からこうまでしっかりと頭を下げられては、それ以上文句は言えないかった。


「許靖様、頭をお上げください。太守様にそんなことをされては私が困ってしまいます。誤解が解けたのなら良かった」


 趙才はそう言って笑顔を作ってくれた。


 しかし許靖は、趙才が横目にチラリと宴会場の方へ視線を向けたのを見逃さなかった。


 そちらから大勢の聴衆が許靖たちを見ている。太守を巻き込んでの揉め事なのだ。皆が気にしていた。


(妙な噂を立てられては商売にも差し支えるだろう。申し訳ないことをした)


 そう思い、すぐに許靖は宴会場の職員たちを集めて事情を包み隠さず伝えた。そして、それを集まった客たちにも話すように命じた。


 こういった場合は変に隠そうとすると逆に盛り上がって、妙な噂になってしまう。出来るだけ早く、正直に伝えようとした。そもそも隠すべきことなど何もない。


 しかし、ああも大声で『毒』だの『殺した』だのと叫ばれたのだ。


 許靖の努力にもかかわらず、巴郡の人々の口はしばらくその話題で持ちきりになってしまった。

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