第154話 兄の思惑

「え?……断ったって、太守への就任をですか?」


 陳祗チンシは確認するようにそう尋ねてきたが、許靖としてはそれ以外に取りようのない文脈で話したつもりだった。


 陳祗も本当は理解しているはずだ。


 しかし、理解できるということと受け入れられるということは違う。そして、受け入れられなければ人の脳は理解することを拒否してしまう。


 許靖は今一度伝えた。


「そうだ。せっかく陳祗と兄上が迎えに来てくれたのに申し訳ないが、太守就任の件は断らせてもらった。私にとって、家族と平和に暮らすことが何よりも優先順位が高い。交州での暮らしを続けるよ」


 ここまではっきりと言われてしまえば、受け入れたくない現実でも理解する他はない。


 陳祗は道の真ん中で立ち止まり、呆然とした。


 劉璋との面会を終え、陳祗の家へ行く途中だ。もう家へ行くだけなのでそろそろ伝えてもよかろうと思い、許靖は陳祗へ太守への就任拒否を打ち明けた。


 許靖たちは益州全体の治所である成都に着くなり、すぐに劉璋リュウショウの所へと案内されていた。


 本来ならまずは陳祗の家へ行って旅塵を落とし、衣服を整えてから訪問するつもりだった。州の刺史に会うのだ。そのくらいは気を遣うのが普通だろうし、陳祗をまずは家族の元へと送り届けるのが優先だと思った。


 しかし許靖が断るつもりだということを護衛の兵から一足早く聞いた劉璋は、とにもかくにも早く会いたがった。


 それで順番が少しおかしくなったが、ようやく陳祗の家へと向かっているところだった。


「で、でも……益州は中央の覇権争いとは隔絶されています。交州にいるよりも安全だと思います」


 陳祗は何とか許靖を説得しようとしたが、劉璋にはすでに断ってしまっている。子供から何か言われた程度で今更それを撤回などできない。


 それでもすがる様な陳祗の様子を見て、許靖は申し訳なく思った。


「益州が安全か、交州が安全かは私も議論の余地があると思う。しかし少なくとも太守になれば、自由な避難すらままならなくなる。本当にすまないが、やはり太守はできない」


「そんな……それでは皆、飢えてしまいます……」


 陳祗は絶望的な顔でそうつぶやいた。


 許靖はその『飢える』という言葉にぎょっとした。


巴郡はぐんでは民が飢えるような状況にあるということか?ここまで益州を旅して来たが、そこまでひどい状況の土地はなかったが……それに劉璋様もそんなことは一言もおっしゃっていなかった)


 しかも、益州は基本的に土壌の豊かな地域だ。作物の成りも良い。


 ただ、そういえば趙韙チョウイの反乱が起きた時に巴郡の辺りまで攻め込んだと言っていた。その影響かもしれない。


「そ、それほどひどい状況なのか?それは数年前の反乱のせいで?」


「はい、それも原因の一つです。とにかくもう大変で……大叔父様が太守になってくださらないと、餓え死にするか身売りするかしかない者がたくさん出ます……」


「……」


 許靖は絶句した。


 まさか自分の太守就任拒否が、そこまで民へ深刻な被害を産み出すとは思わなかった。


「いや……そんな大変な状況なら私が太守になった所でそう変わらないだろう。別に私でないといけない理由など……」


「だめです!!大叔父様が太守になってくださらないと、だめなんです!!」


 陳祗は泣きそうな顔で叫んだ。


 その声の大きさに、許靖だけでなく花琳、依依イーイー明明メイメイも身をすくめた。明明が母親の依依へしがみつく。


 花琳が陳祗を落ち着かせようと、その肩に手を置いた。


「陳祗君、とりあえずあなたのお家に行きましょう。それから落ち着いてゆっくりと話せばいいわ」


 半ば花琳に押されるようにして陳祗は歩き始めた。うつむいたまま、少しずつ足を動かす。


 祖父を失った上に行き倒れになるような旅をして、早く家に帰りたかろうに、歩みの速度は牛のように遅かった。


 むしろ家に帰りたくないようにすら見える。


 あまりに打ちのめされているように見えたので、許靖も花琳もそれ以上は声をかけられなかった。とりあえず家に帰してやり、安心させてやることが第一だと思った。


 しばらく歩くと、陳祗が無言で一軒の屋敷を指さした。あれが自分の家、ということだろう。


 大きな屋敷だが、屋根や塀、壁などがあちこち壊れている。本来なら豪壮な家だろうに、手入れがされてないことでお世辞にも裕福そうな印象は持てなかった。


 すぐそばまで来ると、ちょうど一人の女性が門から出てくるところだった。


 その女性は陳祗を見るなり目を丸くし、駆け寄って抱きしめた。


「おかえりなさい……よく無事で帰ってきてくれたわね」


「ただいま戻りました、母上」


 陳祗は母の胸に顔を埋めて、その匂いを思いきり嗅いだ。世界で一番安心できる匂いだと思った。


「お祖父様のことは、申し訳ありませんでした。私がもっとしっかりしていたら……」


 陳祗の祖父、許胤キョインが旅の途上で亡くなったことは一足先に手紙で伝えている。家族はすでに知っているはずだった。


「何言ってるのよ、この子は……あなたが悪いわけじゃないでしょう。そもそもあなたみたいな齢の子が、そんな責任を感じるものじゃないわ」


 母はそう笑ったが、意外なほどの息子の成長に驚きと感動を覚えていた。


 もともと年齢よりもしっかりした子ではあったが、少年が今はまるで一人の男になったようにも思える。旅とは、ここまで人を成長させるものなのか。


 そう感動しながら陳祗の髪を撫でた。


「それにね、お父様のことは家族みんなでもうたくさん泣いたから、心の整理はできているわよ。本当に好きに生きた人生だったし、お父様自身きっと悔いもないでしょう……」


 母は優しく言葉をかけたが、その語尾をかき消すように屋敷の方から叫ぶような声が上がった。


「え!?なに!?陳祗帰ってきたの!?おーい皆!!陳祗が帰ってきたよー!!」


 その呼びかけに、屋敷のあちこちからバタバタと駆け回るような音が聞こえてきた。まるで建物自体が動き出したような錯覚すら覚える。


 その物音が次々に門の方へと集まってきた。


 まず数人の女が出てきて、陳祗の母親を押しのけた。そして陳祗を取り合うようにして抱きしめる。


 陳祗は女たちに揉みくちゃにされた。


「おかえりなさい!元気だった?」


「途中から一人だったんですって?心配したわよ!」


「でも何だか男らしい顔つきになったような気がするわね。背もちょっと伸びたんじゃない?」


「そんなにすぐには伸びないでしょう」


「でも何だか男っぽくはなってるわよ。特に匂いとか」


「そりゃ旅から帰ってきたばかりなんだから、汗くさくもなるわよ。とりあえず湯を浴びてきなさいな」


「あ、じゃあお姉さんが背中を流してあげるわ」


「ずるい!私が流すわよ!」


「いやいや、私が……」


 やかましく騒いでいるうちに、女たちはどんどん増えていく。数人が十数人になり、そのうち二十人を超えた。


「しぃにーちゃーん!!」


 ひときわ高い子供の声が響き、皆がそちらを振り向いた。見ると、五、六歳ぐらいの少女が口に手を添えて叫んでいた。その周りにも陳祗より小さな少女たちが何人か立っている。


 女たちは子供たちのために道をあけた。そうしなければ、押し潰されるのを恐れた子供たちが陳祗の所へたどり着けないと分かったからだ。


 あわや圧死しそうになっていた陳祗はようやく開放された。


 が、次は少女たちの容赦ない体当たりを食らわされることとなる。


「ぐふぅっ」


 駆け寄って来た一人目の頭が見事にみぞおちに決まり、陳祗は文字にするのが難しいような音を口から漏らした。


 だが少女たちはそんなことお構いなしに次々と陳祗へとぶつかっていった。皆、よほど嬉しかったらしい。


 許靖と花琳、依依はあまりの人数の女たちに唖然とし、明明はムッとした表情でそれを睨んでいた。


 そんな喧騒の中、女たちの中でもっとも齢かさの一人が許靖たちの方へと歩いて来た。


 他の女たちは陳祗にまとわりついて許靖たちに気付きもしないようだったが、この女だけは現れてからすぐに許靖たちを認めていた。


 許靖もその人物には覚えがある。もうずいぶんと長いこと会っていなかったので当然老けてはいるが、その活き活きした瞳は今も変わらない。


 兄が一番初めに結婚した女性だ。


「ご無沙汰しています、朱亞シュアさん」

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