第153話 就任拒否
その瞳の奥の「天地」では、人々が長い箸を持っていた。
長い箸、といっても尋常の長さではない。人の背丈ほどはあろうかという長大な箸だ。
食欲をそそる料理も並べられているが、当然その箸では普通には食べられない。箸は手先から口までよりもずっと長いので、食べ物を掴んでも自分の口へは運べないからだ。
しかしその「天地」の人々は皆、長い箸を使って満足そうに食事を堪能していた。
やり方自体はそう複雑なものではない。箸で掴んだ食べ物を、自分の口ではなく他人の口へと運ぶのだ。それを皆がお互いにやれば、全員が満足できるまで食事を堪能できる。
(面白い「天地」だな。人々が幸せに生きていくための、
現実はそう甘くないことを当然理解はしているものの、許靖はこんな優しい世界で生きてみたいと思った。
許靖の見ていたその瞳の上で、眉の尻が下がって八の字になった。
「とても残念です。
丁寧な言葉遣いでそう残念がったのは、
許靖はその瞳の奥の「天地」から丁寧なだけでなく、優しく思いやりの篤い劉璋の本質を認識した。
(仁君、という言葉はこの人のためにあるようなものだな。きっと部下思い、民思いの良い刺史なのだろう)
許靖はそう思った。
ただし『良い刺史』という評価は『今が治世であれば』、という条件付きだ。
残念ながら今は乱世で、そういった意味では本当に良い刺史と言えるかどうかは難しいところだった。
「申し訳ございません。生来の臆病者でして、とにもかくにも家族と共に戦を避けたいのです。ここ益州は国の奪り合いから隔離されているとはいえ……」
劉璋は恐縮する許靖を安心させるように、豊かな頬肉を
食事の「天地」であることからも分かるように、食べるのが好きなのだろう。ぽっちゃりとして、福々しい体型をしている。
「確かに、ご存知の通り益州でもつい数年前に反乱がありましたからね。我が軍はちょうど巴郡まで攻め込みました。それに
漢中は益州の北にある巨大な盆地だ。
ここは『
劉璋はそういう益州にとって不都合な真実を、はっきりと伝えてくれた。
許靖としてはその姿勢や人柄は尊敬するものの、今は州の刺史が人を得るために交渉・折衝をしているといるのだ。少々お人好しが過ぎると言わざるを得ない。
劉璋の斜め後ろに立つ男が咳払いをした。
この男は劉璋の副官で、
劉璋はそれに気づいているのかいないのか、全く無視してにこにこしている。
許靖はあらためて頭を下げた。
「私はそんな胆力のない男なのです。こんな臆病者が郡一つをあずかるなど、とてもとても……」
「いえ、それはむしろ逆なのです。益州の太守を務めようと思いましたら、臆病なくらいな方が良いのです。だから本当に残念でして……」
劉璋の言葉に、許靖は下げた頭を少し傾げた。
顔を上げてから尋ねてみる。
「益州では、臆病な方が良いのですか?」
劉璋は笑って答えた。
「まぁそれが言い過ぎだとしても、我の強い者や欲の深い者、それに善人だとしても自分が正しいと思う事を成し遂げたいという気持ちの強い者は向いておりませんね」
「正しいと思う事を成し遂げたい、という思いも良くありませんか」
それは政治家の姿勢としていかがなものか。
その考えが顔にも出ていたのだろう。劉璋は前言をかき消すように手を横に振った。
「私としてはそれを否定するわけではないのですよ。ただ、益州は力を持った豪族の数が多く、それ以外にも気を遣わなければならない勢力がいくつもあります。それらの均衡を保つことが何よりも大切なのです。私のような外から来た者が支配者層にいるのも、牽制し合う既得権益者たちがその環境下で自らの権益を拡大しようとしているのが理由です」
劉璋の言葉に、副官の張裔がまた咳払いをした。やはり要らないことは言うな、という意味だろう。
今度は劉璋もきちんと後ろを振り向き、張裔へと声をかけた。
「別にお話しても構わないでしょう。誰か捕まえて聞けば分かることです。それに実際、我々は会議でも口を開けばどこそこの豪族が不満げだという話ばかりじゃないですか」
「失礼いたしました」
張裔はすぐに謝罪し、それ以上何も言わなかった。
(優秀な副官だな)
許靖は張裔の瞳の奥の「天地」を見てそう思った。
(張裔殿の「天地」は工場か。農耕器具や武具など、様々なものが作られている。整理された作業場に、分業制の仕事……一見して、非常に効率的な仕事がなされているのが分かるな。事務処理能力が高い人だろう)
許靖は工場の製造そのものよりも、その効率的な運営に目を向けた。
こういった「天地」を持った人間はかなり仕事ができる。今も必要なことに気を配る一方、無駄な言動は慎んでいた。
劉璋は張裔も同意してくれたものと思い、益州における勢力図の特殊性を隠すことなく説明してくれた。
益州には各地にかなりの数の豪族がいる。
許靖が太守にと望まれている巴郡だけでも大姓として、波、鈆、母、謝、然、蓋、楊、白、上官、程、常など、多くの氏族がいるのだ。
しかも一部の氏族だけが力を持っていればまだ管理が楽なのだが、劉璋の父である劉焉が益州支配を確立する上で、相当数の有力者を殺害してしまっていた。
「力を持った豪族が面倒なのは間違いありませんが、抜きん出たものがおらず、あちこちに目を配らなければならないのも、それはそれで面倒なのですよ」
劉璋はそう言って笑ったが、その笑顔には滲み出るような疲れが見え隠れした。よほど気苦労が多いのだろう。
そもそも益州を独立勢力として確立した父の劉焉も、その初期には地元豪族にずいぶんと気を遣わされていた。
劉焉自身は中央政府の元官吏であり、皇族でもあるが、本人の希望もあって益州の長官として赴任して来た。
ただ、その直前に益州では重税が原因で反乱が起こっており、すんなりと益州入り出来るかは不透明な情勢だった。
反乱はかなり大規模で、当時の刺史や太守が幾人も殺害された。略奪も横行して益州は荒らされたが、反乱軍と戦ってそれを終息させたのは中央政府の兵ではなく地元豪族だ。
中央政府の力を借りずに平和を取り戻したにも関わらず、劉焉が来れば豪族たちはその下風に立たなければならなくなる。
しかもそもそも反乱が起こった理由は、中央政府に任命された前刺史の過重な税による所が大きかったのだ。劉焉の益州入りに反発が起こっても何ら不思議ではない。
が、豪族は赴任してきた劉焉を受け入れた。理由は大きく分けて三つある。
一つ目は、やはり中央政府とは揉めたくなかったこと。
二つ目は、外部勢力の力を
そして三つ目は、その下で自らの権益を拡大しようとしたことだ。
周囲の有力者と直接争うよりも、上に戴いた権力のもとで上手く立ち回るほうが面倒がなくて良い、という発想だ。確かに世の中そうであることは多いだろう。
実際、劉焉は赴任後しばらくは彼らを重要な地位につけて優遇した。
益州の治安も改善し、一時的には豪族たちの思惑通りになったと言えるだろう。
「しかし父上は私と違い、お飾りで終わるような男ではありませんでした。次第に豪族たちの有力者を締め上げていき、最終的には反乱を抑えて自らの益州入りを受け入れてくれた功労者たちをすら、処刑して権力を掌握したのです」
それだけを言葉にしてしまうと簡単な処置にも聞こえるが、実際には至難の業だ。赴任から幾年も経たない劉焉よりも、豪族たちの方がよほど力がある。
しかし、劉焉はこれ以上ないほどの上手い方策を採用した。
豪族たちに依存しない独自の兵力を築き上げたのだ。それが中央から移住してきた者たちで構成した東州兵と、
移住民と異民族。
この二つは地元豪族の息がかかっていないどころか、多数派に対する少数派の勢力であると言える。
少数派は自分たちの権益を守るために奮闘するだろう。豪族たちを相手にするにはうってつけの兵力だった。
許靖はものの善悪はさておき、そのやり方には素直に感心した。
「劉焉様は為政者として、大変に有能な方だったようですね」
副官の張裔は小さくうなずいたが、劉璋は微妙な笑顔を作った。父を褒められたわけだが、父に対しては複雑な思いがあった。
「確かに有能だったのでしょう。でなければ、今のように益州を半ば独立国のようにはできません。ただ、私には父のした事が良い事だとはどうしても思えないのです。もちろん父のおかげで乱世の覇権争いに巻き込まれていないのですから、むしろ犠牲は少なかったという考え方はできます。ですが……少なくとも私には父のようなやり方はできません。まぁ、それだけの力も無いのですが」
(それはそうだろう。こんな「天地」をした人が、世話になった人間を処刑などできるはずがない)
長い箸で仲良く食べさせ合う人々の「天地」を見ながら、許靖はそう納得した。
そしてその表情を見る限り、劉璋自身己の性格と能力をよく理解しているのだろうと思えた。
劉璋は複雑な笑顔を消し、悲しげに肩を落とした。
「ただ、私に力がないばかりに数年前の反乱が起きてしまったのだと思うと……父のように強権で押さえ込むのが為政者としては正しいのかもしれないと思ったりもしますが……」
劉璋の代になってから起こった
もちろんそれに乗じて豪族たちが力を取り戻そうとしたという事もあるが、東州兵を管理すべき劉璋がその横暴を抑えられなかったという事実は責められるべき事実だろう。
しかし、許靖は首を横に振って劉璋の言を否定した。
いや、心中では『強権で押さえ込む方が犠牲が少なくなる場合もある』ということを肯定はしている。
ただ、劉璋がそれをやろうとしたならば、それははっきりと否定した方が良いと思った。
「劉璋様、人の心には誰しも芯のようなものが据えられています。それはとても硬いものでして、無理に曲げようとすると本人の心が傷つくだけでなく、その歪みが現実にも悪影響を及ぼします。劉璋様には劉璋様の治め方があるのです。無理して歪みを生じさせるよりも、劉璋様のやり方でやられれば良いと思います」
許靖の言葉に、劉璋の微妙な笑顔ははっきりとした喜びの表情になった。
笑いジワの深くに、許靖への好意が刻み込まれている。
「ありがとうございます。著名な人物鑑定家でもある許靖殿にそう言っていただけると、嬉しく思います」
(それで益州が上手く治まるかは別の話だが……)
許靖は心の中でだけ、そう付け加えた。
とはいえ、劉璋のようなお人好しに父親と同じことをやらせようと思ってもろくな事にはならないはずだ。劉璋には劉璋なりの全力を尽くしてもらう他ない。
「話が少しずれましたが、今ので許靖殿には益州の勢力関係を理解していただけたのではないかと思います。つまるところ、地元豪族たちの数が多く、隙あらば己の権益を伸ばそうとしています。それに加え、移住民である東州兵とその家族、姜族などの異民族もいます。しかも少数派である東州兵と異民族の兵が軍の主力をなしていますから、必ずしも多数派である豪族たちを優先するわけにもいきません」
「はい、概ね理解できました」
「さらに付け加えると、私のように外から来て管理する側に立っている官吏たちも多くいます。彼らもまた自らの栄達を望みますから……」
「……劉璋様は気苦労が絶えないでしょう。心中、お察しします」
許靖は改めて劉璋の立場に同情すると同時に、自分がその苦行のような環境に身を置かなくて良いことに安堵した。
しかし劉璋としては実際に許靖会ってその人柄を知り、太守就任の望みをより強くしていた。
「おっしゃる通り大変です。しかしこうやって少しお話しただけでも、許靖殿は益州の太守として適任だと思えるのです。どうかお受けいただけると大変嬉しいのですが……」
許靖は改めて丁重に断りを入れた。
そしてその心情を
今の許靖にはその押しの弱さがありがたかったが、益州の安定ということを考えると要らぬ心配も抱いてしまうのだった。
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