第150話 兄と祖父

 一筋の涙がゆっくりと頬を伝って落ちた。


 許靖は今、兄の墓の前に立っている。


 兄にはもう長らく会っていない。だから、その死も話を聞いただけではまるで現実味を持たなかった。


 しかしその墓を前にすると幼かった日の思い出が走馬灯のように脳裏を流れ、こみ上げてくるものがあった。


 久しぶりの再会が冷たい土越しとは、悲しすぎる。


「兄上……」


「お祖父様……」


 許靖と陳祗チンシの声が重なった。


 許靖が脇に目をやると、陳祗も許靖と同じように涙を流していた。涙の雫が頬を伝い、顎から祖父の眠る土へと沁み込んでいく。


 許靖は土の染みを見つめながら、陳祗が祖父を慕ってくれていたことが改めてよく分かった。それは大叔父としてとても嬉しく、妙に誇らしいことだった。


 その背中を見つめる花琳は少し距離を取り、黙って二人の気持ちが整理されるのを待った。


 三人は益州への道のり中ほどにある街のはずれにいる。そこには街の共同墓地があった。


 旅の途上で亡くなった許靖の兄、許胤キョインはここに埋葬されている。旅人や身寄りのいない人間などはまとめてここに埋葬されるのが街の決まりとのことだった。


 陳祗は祖父の亡骸を益州に持ち帰ることも、許靖の所へ運ぶこともできなかったため、遺髪だけ切り取ってあとは街の決まりに従った。


 夕陽がゆっくりと山の端へ落ちていく。


 静かな時間が過ぎ、花琳は許靖と陳祗が涙を拭ったのを見届けてから声をかけた。


「お義兄様はどんな方だったんですか?」


 花琳も許靖と結婚した当時、何度か会っていたので面識が無いわけではなかったが、あまり深く接しはしなかった。


 二人の様子を見ると、それも少し残念なことのように思える。


「兄上は……多くの人から好かれる人だった。そして、兄上自身も多くの人を好きになる人だった」


 許靖は在りし日の兄を思い浮かべて笑った。


 花琳はその言葉にうなずいた。夫がこう言うのだから、きっと善い人だったのだろうと思った。


 親族だからか、陳祗も許靖によく似た笑顔で同意した。


「そうですね。お祖父様は、特に女性からはとても好かれる方でした。そして、多くの女性を好きになる方でした」


「……はい?」


 陳祗の言葉に、花琳は表情を固まらせた。


 許靖は陳祗の言葉でより鮮明に兄の姿を思い出し、笑い声を上げた。


「はっはっは。小さい頃、私は兄上が女性に声をかけるためのダシによく使われたものだ」


「大叔父様もですか!?私もです!」


「陳祗もか?……ということは、兄上は結構な年齢になっても相変わらず兄上だったということか」


 陳祗の年齢から逆算し、許靖は妙に感心した。


 そこまでいくと兄の女性に対する向き合い方も、もはや尊敬に値するかもしれない。


「確か、兄上は妻も四人めとっていたはずだな?」


「いいえ、五人ですよ」


「そうだったか?まぁ、四人でも五人でも大したものだな。兄上ほど女性の扱いが上手い人を見たことがない」


「お祖父様はこの旅の途中にも、よく女性に声をかけていらっしゃいました。だから食事はお祖父様と二人だけということはめったにありませんでしたね。あの技術は尊敬に値します」


「そんな技術、尊敬しなくてよろしい」


 最後の鋭い一言は花琳の口から放たれたものだ。


 個人を偲ぶ会話とはいえ、子供の教育を考えるとどうなのだろう。


「……陳祗君。男性が女性に対して友好的すぎるというのは、必ずしも良いことではないわよ」


 しかし、陳祗は花琳の説教の意味を理解できずに小首を傾げた。


「そうでしょうか?私はお祖父様から鍛えられたおかげで、仲良くなりたいと思う女の子とは十中八九良い仲になれました」


 花琳は片頬を引きつらせた。この齢でこれは、良くないことのような気がする。


「で……でも、そういう男の子は同性からは嫌われるんじゃないかしら?」


「お祖父様からそんな時の対処法もちゃんと教わっています。そいつと女の子との仲を取り持ってやればいいんですよ。そうすればむしろ親友になれます」


 邪気のない笑顔でそう答える陳祗に、花琳は何も反論できなかった。


 しかもその美しい笑顔は暖かい木漏れ日のようで、花琳は少年の将来に末恐ろしいものを感じた。


「と、とにかく……女の子を悲しませては駄目よ」


「はい、気をつけます。お祖父様からも重々そう言われています」


 陳祗は素直な返事を返し、許靖は花琳をなだめようとした。


「兄上は女性に対しては本当に優しい人だったんだ」


 陳祗もそれをうなずいて肯定した。


「そうなんです。あの日も元々は盗難にあって困っている女性を助けようとして、食事をご馳走していたんです。そこにあの男が現れて……」


 あの日、というのは許胤が毒を盛られたという日のことだ。その話は許靖も花琳もすでに聞いている。


 それが実際に起こった街に今来ているのだ。


 許靖は今一度事件のあらましを確かめることにした。


「確認だが、兄上と陳祗と今言った女性の三人が食事をしていた時に、その男が声をかけてきたんだね?そして、その男はチョウ氏という姓を名乗った」


 陳祗は許靖の質問に首肯した。


「はい。実際には姓だけでなく名も名乗っていたのですが、よく覚えていなくて……聞けば思い出すと思うのですが。ただ、趙氏ということと益州の商人だということだけは覚えています」


 陳祗の記憶は曖昧だったが、それも仕方がないことだろう。


 同年代に比べてしっかりしているとはいえ、まだ十をいくつか越えたくらいの少年だ。突然祖父に声をかけてきた大人のことを詳しく覚えておけという方が無理な話だ。


「若い商人で、お祖父様とはお互いに名前は知っているけども面識はない、という関係だったようです」


「そしてその若い商人とも食事を共にし、当夜から兄上は体調を崩した。そして十数日後に亡くなった、と」


「はい。初めは熱とだるさ、頭痛程度だったのですが、段々と熱が高くなり最後には下血もしていました。医師からは腸に穴があいているようだと言われました」


「腸に穴か……」


 許靖は自分の息子が死んだ時のことを思い出した。許欽も腸に穴があいた事がもっとも大きな死因になったのだ。


「だが、腸に穴があくような毒物があるのだろうか?」


 許靖にはそれが疑問だった。


 許欽は矢が刺さって腸に穴があいたが、兄の死因は少なくとも外傷によるのものではない。胃に穴があくような毒物の話なら聞いたことがあるが、腸に穴をあけるような毒物の話は聞いたことがなかった。


 しかも毒殺となると、相手に気づかれずに飲ませられるものでなくてはならないのだ。


 ただ、そこを聞かれても陳祗に分かるはずもない。専門家でないどころか、まだ子供なのだ。


 陳祗は首を横に振った。


「分かりません。ですがお祖父様は病床で、しきりに若い商人のことを気にされていました。『彼の一族には弟が太守になる事をいとう理由がある』と。私には政治のことは分かりませんが、益州の出身でない人間を太守にはしたくないはずだとおっしゃっていました」


「……よそ者の太守就任を嫌う一族、か。しかも趙氏となると、やはり趙韙チョウイの一族かもしれないな」


 趙韙は数年前、益州で起こった反乱の首謀者だ。


 反乱の主因は、地元民の移住者に対する反発だ。地元豪族の兵と、移住者で構成された東州兵とが争った。


 結果は東州兵の勝利に終わり、趙韙は部下の裏切りにあって斬殺された。


「もしその男が趙韙の一族であれば、よそ者である私の太守就任は喜ばないだろう。地元豪族の利益を代表して反乱を起こした人間の一族なのだから」


 しかも反乱終息後は、首謀者の一族ということで何かしらの不利益を被っていることが推測される。他州出身者への憎しみをより深めている可能性が高いだろう。


 陳祗は再び祖父の墓に目をやった。


「お祖父様が毒を盛られた理由は、地元豪族の移住者に対する怨みなのでしょうか……」


 許靖も陳祗と同じように兄の墓へ目を向けた。もし毒殺されたのだとしたら、あまりに哀れだと思った。


 兄の素行に問題がなかったとは言わないが、基本的に優しく思いやりの篤い人だ。毒殺されるような人間ではない。


「陳祗、兄上は本当に毒殺だったのだろうか?医師による説明ではそうだったんだね?」


 陳祗は悲しそうに目を伏せてから首を横に振った。


「実は、最後には医師にもかかれなかったのです。私が宿の部屋を出ている間に荷物のほとんどを盗まれてしまって……診察代を用意できませんでした」


「なに?盗まれた?」


 許靖も花琳もその話は初耳だった。


 そう言えば確かに陳祗は益州からやって来たにしては荷物が少なかった。よくよく考えてみれば、おかしなことではあった。


 陳祗はそのことに責任を感じているようで、うなだれた。


「私が悪いのです。病に伏せているとはいえ、部屋にはお祖父様がいたので油断して戸締まりを怠りました……」


「そうか……だが悪いのは陳祗ではなく、盗んだ人間だ。あまり自分を責めるな」


 許靖は陳祗の肩に手を置いた。その手から、自責と後悔の感情が伝わってくる。


「しかし、この街から私のいた城下街まではかなりの距離がある。行き倒れなっても来られる距離ではないと思うが」


「ああ。それは道行く女性たちに声を掛けて、食事をご馳走になったりしながら来たので途中までは大丈夫でした」


「……」


「お祖父様のおかげでこの人は、という女性が分かるんですよね。でも、それが大叔父様のお宅の手前で途切れてしまって」


 大した事ではないように話す陳祗に、許靖と花琳は何とも返事のしようがなかった。


 許靖は陳祗に兄の面影を見、花琳は少年の将来に一抹の不安を覚えた。


 当の陳祗はというと、そんな事を思われているとは露知らず、祖父の死因についての話を続けた。


「だから、医師からはっきりと毒殺とは言われたわけではないのです。でも体調が悪くなったのはあの商人との食事直後からですからね。それにどう見ても普通の風邪などとは違うようでしたし、私は毒殺に違いないと思っています」


「まぁ、普通の風邪なら下血したり腸に穴があいたりはしないだろうな」


 許靖も陳祗の言う通り、よくある風邪や流行性感冒などではないのだろうと思っている。


「他にも腹や胸に桃色の斑点がありました。薔薇の花弁のような斑点です。それと、医師は脈がやや遅く脾臓が腫れていると言っていました」


 許靖と花琳は陳祗の言葉には顔を見合わせた。そして同時に口を開く。


「「それは……」」


「おーい!!少年!!そこの少年!!」


 許靖と花琳の言葉は、突如届いた叫び声によってかき消された。


 三人がそちらへ目を向けると、中年の男が手を振りながら駆けてくる。


 陳祗はその顔に見覚えがあった。


「あの方は……私とお祖父様が泊まっていた宿のご主人です」


 男の駆けてくる意図は分からなかったが、陳祗はそちらへ頭を下げた。世話になった人間に対して、自然と礼を尽くすという習慣が身についている。


 許靖はその様子を見て、兄が孫に施した教育は決して女の扱いだけではないのだと誇らしく感じた。

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