第149話 就任要請

「太守?許靖さんが?」


 小芳が普段よりも妙に高い声を上げた。まるで現実味のない冗談でも聞いたような口調だ。


 しかし、許靖はいたって真面目に話をしたつもりだった。


 夜、子供たちが寝入ってから大人だけで話し合いをしている。


 許靖と花琳、小芳と陶深、そして芽衣の五人が卓を囲んでいた。春鈴シュンレイ許游キョユウだけでなく、陳祗チンシもすでに床についている。


 卓には花琳の淹れた茶が出されていた。


 しかし許靖の話が話だったので、今は誰も茶を飲もうとはしない。爽やかな香りだけが椀から上がっていた。


益州巴郡えきしゅうはぐんの太守に就任してほしいとのことだ。益州刺史えきしゅうししである劉璋リュウショウ様からの手紙を陳祗が届けてくれた。本来なら私の兄がその手紙を持って来るはずだったんだが、旅の途中で亡くなってしまったらしい……それで同行者の陳祗が一人でここまで来てくれた」


 許靖の兄が道中で死んだという話はすでにしている。


 もう十年以上会っていない兄弟とはいえ、兄の死は許靖にとっては辛いことだった。しかし、今はその死を悼むために話をしているわけではない。


「文面を見ても、状況を考えても、偽りの手紙ではないと思う」


 兄の許胤キョインが遠路はるばる届けに来ようとしたことも手紙を信じるに足る事実だし、そもそもこんな嘘の手紙を作る理由が見当たらない。


 しかし、小芳はまだ疑わしげな眼差しを捨てきれなかった。


「でも、いきなり郡の太守だなんて……」


「いや、そういえば許靖は過去にも太守に任命されたんじゃなかったかな?それも今回と同じ巴郡だったような……」


 それを思い出したのは陶深だった。視線を宙に漂わせながら、十数年も昔の記憶をたどっている。


 許靖はうなずいてその記憶を肯定した。


「よく覚えてるな。実はそうなんだ。董卓が政権を握っていた時、正式に巴郡太守を仰せつかったことがある。ただ実際には赴任せず、朝廷に残って御史中丞ぎょしちゅうじょうの役職についていたが」


 小芳はそういえば、と言って軽く手を叩いた。


「許靖さんって、元々は政府の高官だったんですよね。難民生活が長いから忘れてました」


 別に悪意があって言った台詞ではなかったが、小芳の言う通り許靖はもう十数年をただの難民として生きている。


 望めばそれなりの役職を得ることも可能だったろうが、あえて正式に誰かに仕えることをしなかった。全ては戦乱を避けるためだ。


 今も交趾こうし郡の太守である士燮シショウから礼遇されてはいるが、正式な任官はされていない。


 しかし一難民からいきなり太守というのも、考えてみればおとぎ話のような話だ。


「劉璋様からの手紙には益州に住む私の兄弟だけでなく、複数の名士から推薦があったという事が書かれていた」


「さすがは花神の御者」


「いや、月旦評の方」


 許靖は即座に否定した。


 許靖の縁結びは、ここ交州でも大層な評判になっている。揚州のときもそうだったが、それ目的に花琳の道場へ入門する者もいるほどだ。


 しかし結婚相手を選ぶのは、許靖にとってただの人物鑑定よりもかなり負担が大きい。花神の御者、などという二つ名は出来れば返上したいものだった。


「縁結びで太守には選ばれないだろう……」


「冗談ですよ。確かに許靖さんは結構な有名人なんですよね」


 小芳の言う通り、許靖は名士中の名士といって間違いはない。


 若かりし日の月旦評での名声、腐敗した中央政府での実直な仕事、董卓政権での清廉な人士の登用、類まれな人物鑑定眼と事務処理能力、企画能力……


 優秀な人材を求める国家上層の者たちの間では、小芳の言う通り結構な有名人だ。実は太守に推薦されたからといって、それほど不思議な話ではない。


 ただ、ここに揃った家族の中でも唯一陶深にとっては、許靖が太守になる経緯など割とどうでも良いことだった。


 そんな事よりも、これは陶深の生活に一つの重大な意味をもたらす。


「山岳で閉ざされた益州の文化は、中華とも交州とも随分違うらしい。豊かな土壌に恵まれ、異民族との距離も近いという話だ。これは楽しみだな……」


 陶深はまだ見ぬ異文化を思いを馳せ、恋する乙女のようにウットリと頬杖をついた。


 許靖たちは戦乱を避けるために国中を移り住んできたが、その避難生活を最も楽しんでいたのは間違いなく陶深だろう。


 宝飾品の職人である陶深は、旅で受けた様々な刺激を創作活動の糧にしている。ここ交州に来た時もその文化や景色の違いに子供のようにはしゃぎ回っていた。


 が、住み始めてからもう十年以上になる。そろそろ新しい刺激が欲しいというのが本音だった。


 ここではないどこかへと視線を飛ばしている陶深に、許靖は苦笑した。


「陶深、悪いが太守就任の話は断ろうと思ってるんだ。だから益州への移住はない」


「え!?そんな……許靖はもう旅をしたくないのかい?」


 普通なら『なぜ?』と問うのが第一だろうが、陶深にとっては理由など問題ではなかった。


 旅をする経緯や理由に意味を見出していない。旅すること自体が目的になっている。


 代わりに妻の小芳が尋ねた。


「どうしてです?ただの難民から太守だなんて、破格の待遇じゃないですか。普通の人なら飛びつきたくなるような話だと思いますけど」


 許靖はうなずいて答えた。


「そもそも交州へ移住してきたのは、戦を避けるためだ。太守になどなってしまえば、それこそ戦があったら先頭で戦わなければならなくなる。それに、今のところ交州は大きな目で見れば平和だ」


 なるほど、と小芳は納得したが、陶深はそれでも食い下がった。


「でも巴郡のある益州だって、ここと同じくらい平和じゃないのか?他州との行き来を遮断して覇権争いの戦から遠ざかっていると聞くし。むしろ交州の方が危ないだろう。荊州けいしゅうから狙われてるらしいじゃないか」


 陶深の言うことはもっともだった。


 荊州は交州の北隣りの州だ。


 そこを支配する劉表リュウヒョウは数年前、自らの配下を交州の刺史や太守に一方的に任命してきた。現実に士燮たちが治めているにも関わらず、だ。


 つまり、劉表は交州進出の意志を明確にしたと言える。それから戦には発展していないが、これは交州が戦乱とは無縁ではないことの大きな証左だ。


(一方の益州は峻険な山岳に囲まれているからな。他州と行き来できる道自体が限られている)


 許靖はその点、確かに益州は良い土地だと思っている。


 地理的に孤立しており、こと戦を考えるならば敵から攻め込まれにくいという点では圧倒的な優越性を誇る。


 益州の前刺史である劉焉リュウエンはそれを最大限に活かし、益州をあたかも独立国のような地域に仕立て上げてしまった。


 中央政府には、


『賊に交通を遮断されてそちらとやり取りできない』


とだけ伝えて、あとは好き勝手やっていた。息子の現刺史、劉璋もその方針を引き継いでいる。


 他州を攻めない代わりに、他州から攻め込まれもしない。覇権争いの戦から離れるという点のみ考えると、現時点で益州以上の土地はないだろう。


 しかし、許靖は首を横に振った。


「益州でも数年前に趙韙チョウイの反乱が起きている。益州も平和とは言い切れない」


「趙韙の反乱?」


 陶深は許靖に聞き返した。あまり耳にしない人名だ。


「簡単に言うと、益州豪族の反乱だ。益州の軍は、その主力が東州兵とうしゅうへいという移住民で構成されている。その東州兵の横暴に腹を立てた地元民の反乱らしい」


「東州兵……軍の主力が移住民なんて、変わってるな」


 陶深は初めて耳にする話だったが、それも仕方ないことだろう。


 益州は人の行き来を監視して制限しているため、情報が漏れ聞こえにくい。


 加えて陶深は宝飾品の職人で、城に出入りしている許靖と比べて他州の情報に触れることは少なかった。


「移住民だけじゃない。羌族きょうぞくなどの異民族も軍に組み込んでいるらしい。飛軍、白眊、賨叟、夷兵などという、民族ごとの隊を組織しているという話だ。反乱は東州兵とそれらの軍の奮戦でなんとか抑え込まれたらしい」


「そんなに異民族との距離が近いのか……きっと文化的にも面白いものになっているはずだ。本当に楽しみになってきたよ」


「いや、だから移住はしないと言っているだろう」


 人の話を聞かない陶深に、許靖はため息をついた。なにがなんでも益州へ行く気らしい。


「陶深は交州が嫌いか?小芳は?」


 許靖に問われた二人は順番に答えた。


「もちろん交州は好きだよ。ここの文化も面白いと思う」


「まぁ、嫌いなところに十年も住みはしませんよ」


 小芳の回答はそのまま家族全員の気持ちでもあった。


 現実にもう十年あまりも住んでいるのだ。単純な好き嫌いだけでなく、愛着も湧いている。


「芽衣は?」


 問われた芽衣は、少し考えるように三度瞬きしてから口を開いた。


「んー……私はここが好きだし、春鈴や游にとってはここが故郷だからね。別にこれからも交州に住み続けるのは嫌じゃないよ。でも……」


 芽衣は一拍置いてから言葉を続けた。


「私は小さい頃に洛陽を出てから移住が多かったから……だからどこに住むのがいいとかよりも、そこで楽しく暮らせるように努力することの方が大事だと思う。だから益州に行くんならそれでもいいし、交州に住み続けるならそれでもいいよ。私はお母さんや花琳ちゃんと一緒にいる」


(芽衣には苦労をかけてしまったな……)


 本人は苦労したなどとは考えもしなかったが、許靖は申し訳ない気持ちになった。


 もちろん戦に巻き込まれたらそれどころではなかったろうが、それでも子供の心に負担をかけたという事実に違いはない。


「住処を転々と変えて申し訳なかった。今回は交州を動くことはないから、安心してほしい」


「それは分かったけど……じゃあ、あの子はどうするの?」


 あの子、とはもちろん陳祗のことだ。


 陳祗は兄の孫というだけでなく、許靖を太守にするためにはるばる益州から旅して来た。しかも途中で祖父を亡くし、行き倒れになってまで手紙を届けたのだ。


 無下にはできない。


「それなんだ。彼はまだ子供だし、さすがに一人で帰れというわけにはいかないだろう。私だけで益州まで送り届けてこようと思う」


「ずるい!!やっぱり許靖だけ益州を旅するんじゃないか!!」


 陶深の言いように、許靖は自分の子供時代を思い出した。


 夜中に目を覚ました時、大人だけで美味しいものを食べているのを見て同じようなことを言った記憶がある。


「陶深……陳祗の祖父、私の兄は毒殺されたかもしれないという話はしただろう。必ずしも安全な旅とは言えない。もし私と陶深、二人共が一度にいなくなったら、家族はどうやって食べていけばいい?」


「じゃあ僕が行く。許靖が留守番していてくれ」


 許靖はもはや苦笑するしかなかった。まさか、ここまで食い下がられるとは。


「益州への出入りは規制がかかっているが、太守として招聘された私ならそれも通過できる。それに、陳祗も大叔父と一緒の方が安心するだろう」


「……」


 陶深はまだ不満そうだったが、それ以上の反論を思いつかず沈黙した。


 小芳はようやく黙った夫に軽くため息をついてから、一つ気になることを口にした。


「陳祗君には太守就任を断ることは伝えてるんですか?ここが目指してた許靖さんちだと知ってからは、ずっとご機嫌なようでしたけど」


 小芳の言う通り、陳祗は許靖が大叔父だと知ってからは見違えるほど明るい少年になっていた。朝のおどおどした様子とは正反対に、はつらつとしている。


 許靖の見た瞳の奥の「天地」も、曇り空が晴れて太陽の「天地」になっていた。これが陳祗本来の「天地」なのだろう。


 しかし行き倒れになってまで果たそうとした目的を断られたのであれば、あの太陽は顔を出していないだろう。


「実は『ちょっと考えさせて欲しい』とだけ伝えてるんだ。さすがに言いづらくてな……あの子の精神的な負荷を考えると、できれば自宅に着いてから伝えるのがいいと思う」


 許靖の意見に反対する者は一人もいなかった。


 ここまで一人でたどり着いたとはいえ、まだ少年と言えるような年齢だ。ただでさえ祖父が亡くなっているのだし、自宅に帰るまではこれ以上辛い思いをさせるべきではないと思った。


 そこでパンッ、と花琳が一つ手を打った。


 花琳はそれまで黙っていたが、あらかたの話はついたと判断して口を開く。


「では、早速明日から準備を始めましょう。長旅になるでしょうから、挨拶回りもしておかないと。あなたも士燮様やお仕事関係で色々あるでしょうけど、私も道場関係でお世話になっている人が多いですから」


 当たり前のようにそう言ってきた花琳に、許靖は目をパチパチとさせた。


 少し首を傾げてから告げる。


「花琳?さっきも言ったように、益州へは私だけで行ってくる。花琳はここで待っていて……」


「嫌です」


 妻は夫の頼みを言下に断った。


 その強い口調は、相手にニの句を継がせないものだった。


 加えて武術の応用なのか妙な拍子があるようで、花琳がこのような物言いをした時には許靖が言い勝つことはほとんどなかった。


 それに、こういう口調をした花琳は絶対に前言を翻さない。


「花琳……」


「あなたが危険があると言ったんですよ。私がついて行かないはずがないでしょう」


 普通なら危険があれば妻は残るものだが、この夫婦の場合は逆だ。花琳がいた方が断然安全だろう。


 しかし、と許靖は反論した。


「陳祗を連れて行くんだ。安全に関しては考えてるよ。益州の入り口までは士燮様に護衛をお願いする。益州からは益州軍の護衛をお願いする。太守へ就任要請されているんだから、護衛くらいはつけてくれるだろう」


「その護衛は鼻が効きますか?お兄様は毒殺の疑いがあるんでしょう?私ならある程度の毒なら嗅ぎ分けられます」


(……普通なら冗談だと笑うところかもしれないが、花琳なら本当にできるだろうな)


 許靖は花琳の言葉を否定できなかった。実際、数年前に許靖が拉致された時にはその驚異的な嗅覚で危機を救ってくれたのだ。


 そういえば、数十年前に賊に殺されそうな時にも花琳の鼻で助けられている。その鼻が役に立たないなどと、口が裂けても言えなかった。


「それに私がついて行くことは、あなただけじゃなく陳祗君の安全にもつながるんですから」


「……そういう言い方はずるいだろう」


 許靖は自分の負けを認めざるを得なかった。


 そしてそれは他の家族から見ても明らかで、二人のやり取りに芽衣が笑った。


「許靖おじさん。何言ったって花琳ちゃんがおじさんと離れるわけないじゃない。無駄な言い合いはやめて、ちゃっちゃと準備を始めた方がいいと思うよ。それに……」


 芽衣はいったん言葉を切り、二十以上も年嵩としかさの義父を諭すようにゆっくりと話した。


「それにね、大切な人とは出来るだけ一緒にいた方がいいよ。それが叶わなくなる日が来るのなんて、本当に突然なんだから」


 そう話をする芽衣の瞳は、目の前の許靖よりも少し遠くを見ているように感じられた。

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