第135話 暖と涼

「確かに、儒教の礼などまるで知らない店だな」


「そうだろう。だが、味はどうだ?」


「美味い」


 袁徽エンキの短い回答に、趙奉チョウホウは満足して笑みを浮かべた。


 袁徽は袁徽で、礼儀など全く無視したこの店に満足していた。


 飯があり、酒があり、それが美味い。それ以上のことなど、何も必要ないように思えた。


(こんなふうに感じられるのは、人生で初めてかもしれんな)


 そう独りごちてから、杯を傾けた。趙奉も同じように美味い酒をあおった。


 二人はこれまでに、互いの娘についてひたすら語っていた。正反対の娘、正反対の父だ。お互いの家庭に驚くようなことも多かった。


 だがそれでも、羨ましいと思えることが互いにたくさんあった。それは二人にとって、良い発見だった。


「袁徽殿、ちょっと話題を変えるんだがいいか?」


「なんだ?」


 袁徽は杯を持ったまま聞いた。家庭についてはずいぶん話したので、袁徽もそろそろ別の話題をと思っていたところだ。


「あんたたち避難民と、俺たち交州人についてだ。俺は一つ、我慢ならないことがある」


 袁徽は視線だけで先を促した。袁徽にとっても、非常に興味のある話だ。


 今まで自分が多くの現地人に嫌われている自覚はあったのだが、理由がいまいち理解できない部分も多い。ぜひ聞いてみたいと思った。


「あんたたち避難民は、見た目だけで俺たちを下だと思ってないか?交州の人間は中央から来た人間に比べてやや色が黒く、顔つきも少し違う。お前たちが俺たちの顔を見ただけで差別するのが我慢ならん」


「何?そのようなことを理由に差別する輩がいるのか」


 袁徽には意外だった。少なくとも自分はそのようなことを思ったことは一度もない。


 趙奉にはその反応が意外だった。


「あんたはそんなふうに感じたことはないのか?」


「ない。ないし、理由が分からん。儒学のどの書物にも、人を肌の色や顔つきで差別して良いなどとは書いていない」


 なるほど、と趙奉は思った。袁徽の価値基準はこうなのだ。


 確かに袁徽は身を入れて勉学する者には、見た目や出身地に関わらず敬意を払っている。少なくとも袁徽には今趙奉が言ったことは当たらなかった。


「すまん、あんたには関係のない話だった」


「いや、私としても聞き捨てならんぞ。避難民の中に、そんなことで差別をする人間がいるということか……」


 袁徽は顎に手を当ててしばらく考え込んだ。


「……前から思っていたことだが、避難民のための講義をするべきではないだろうか」


「避難民のための講義?」


 趙奉は袁徽の言葉を繰り返した。


「そうだ。私は儒教を広めるために交州人へ講義を行っているが、避難民には避難民のための講義が必要だと思う。交州で暮らすためにはどのような注意が必要なのか、現地人と上手くやるためにはどのような考え方が必要なのか」


「それだ」


 趙奉も袁徽の言うことをもっともだと思った。


 今は儒教という価値観を押し付けられているだけだが、避難民へもこちらの価値観を知ってもらい、できる範囲でお互いに尊重し合うべきだ。でなければ、争いはなくならない。


「袁徽殿、それはとても良いことだと思うぞ。知らなければ大事だが、知ってしまえば小事になることも多い」


「よし。私は避難民に向けて、肌の色や顔つきなどで根拠のない差別を行わないように講義をしよう。趙奉殿は現地人の価値観や、我らに対して不満に思うことを講義してくれ」


 趙奉は講義をと言われ、焦った。


「いや、ちょっと待ってくれ。俺は人に講義できるような人間じゃない」


 袁徽には趙奉の言っていることが不思議だった。


「何を言う?趙奉殿は兵の隊長だろう。部下へ色々と教えることもあるだろうに」


「いや、それとこれとはまた別の話で……」


 軍を知らない袁徽には違いが分からなかったが、それならそれでと一つ提案をした。


「ならば、許靖殿に手伝いを頼めばいい。許靖殿なら講義にも慣れているし、現地人のことを知ろうと努力もしているようだ」


「そうか、許靖殿か。確かに適任だ」


 こうして許靖は、自分知らないところで一つ仕事が増えることになってしまった。


 許靖のことを思うと、趙奉はなんだか可笑しくなった。


「考えてもみれば、あんたとこうして飲んでられるのも許靖殿のおかげだな。全てあの人の仕組んだことなんじゃないかと思えるほどだ」


「確かにそうだな。あれほどの人材はそういまい。武術教室のことを考えても企画力・実行力があるし、あの通り仁愛の人でもある。太守の士燮シショウ様は今のところ州や郡の役職につける気はないようだが……それならそれで、あの力は世のために使わねば」


 袁徽はこれまでも許靖のことを高く評価していたが、今回のことでその思いをいっそう強くしていた。


 そしてその思いによって、許靖は中央で覇権を争う曹操をも絡ませた騒動に巻き込まれることになる。


 ただ、それはまた後日の話だ。

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