第123話 寒と暑

「ほう、あなたが許靖殿でしたか。袁渙エンカンからあなたのことは聞き及んでいます。名高い月旦評は虚名ではない、と」


 城から新しい住居へと案内される道中、許靖は袁徽エンキを見かけて声をかけた。


「私も袁渙から袁徽殿のお話しはうかがっています。深い造詣を持った儒学者でいらっしゃる、と」


「あいつのことだ、私の事を頑固者の変人とも言っていたでしょう。あいつ自身も変に頑固なところがある癖に」


 袁徽はそう言って笑い、許靖も笑った。袁渙は真面目で働き者の善人だが、確かに変に頑固な所がある。


 許靖は笑いながら、二人から三歩離れたところで静かに二人の様子を見ている少女に目を向けた。歳は十代の前半から半ばだろうか。


 袁徽はその視線に気付き、すぐに紹介してくれた。


「紹介が遅れました。娘の翠蘭スイランです。ちょうど娘を連れて市へ向かう途中でしてな。私のように家族と共に避難している者が多いのですよ」


 娘は美しい挙祖でお辞儀をし、静かな声で挨拶をした。


「翠蘭でございます。何かとお世話になることもあろうかと存じます。よしなにお付き合いくださいませ」


(さすがは高名な儒学者である袁徽殿の娘だな。まだ若いのに、見事な礼儀作法だ)


 許靖はそう思い、思った通りを袁徽へ伝えた。


「いやいや、娘などまだまだですよ」


 そう謙遜する袁徽だったが、娘を褒められてまんざらでもないようだった。


 瞳の奥の「天地」である冬の湖畔には、明るい日差しが差し込んでいる。きっと自慢の娘なのだろう。


「一人娘でしてな。子がこの子だけなもので、手を抜かず教育してきたつもりではあります」


(なるほど、一人娘か。それは可愛かろう)


 許靖は厳しい袁徽の意外な一面を見た気がした。


 ただし、しつけ具合を見ると娘にも厳しく接しているようなので、袁徽の中だけの太陽なのだろう。


 許靖は翠蘭の瞳にも目をやった。そこにはたおやかに咲く一輪のナデシコが佇んでいる。


 ナデシコは別名を洛陽花とも言う。


(なるほど、交州ではあまり見られない洛陽の女性だ)


 女性と言うにはまだ幼かったが、おそらく教養は大人顔負けなのだろう。


 太守が教化に勤しまなければならない交州では、あまりお目にかかれそうにない少女だった。


「許靖殿、共にこの交州に儒学の火を灯しましょうぞ」


 袁徽は許靖の手を握り、そのように言い残して去って行った。


 一部の現地人から嫌われていても、袁徽自身は信念をもって働いているのがよく分かった。



***************



 袁徽エンキと別れてからまたしばらく行くと、今度は袁徽の仇敵、趙奉チョウホウに出会った。


 趙奉も一人の少女を連れている。


 許靖から話しかけると、向こうも許靖のことを聞いているようだった。


「あんたが許靖殿か。どっかの誰かさんと違って、ずいぶん人格者だと聞いてるよ。よろしく頼む」


 そう言って右手を差し出した。


 許靖はその手をしっかりと握ったが、この手はどっかの誰かさんについ先ほど握られた手だ。笑顔がやや固くなったかもしれない。


「こちらこそ、よろしくお願いします。士燮シショウ様が趙奉殿は優秀な兵だとおっしゃっていました。そういった方が身近にいることを心強く思います」


 趙奉は許靖の言葉を素直に喜んだ。


 その笑顔が明るくて、兵の中でも趙奉は好かれているのだろうとよく分かった。


 趙奉は連れていた少女を指した。


「こっちは娘の凜風リンプウだ。美人だろう」


 そう言って趙奉は娘の頭をわしわしと撫でた。


 凜風はその手を鬱陶しそうに払いのけ、髪の毛を直しながら頭を下げてくる。


「凜風です。よろしく」


 凜風は齢の頃、十代前半から半ばといったところだろう。翠蘭とほぼ同年代だ。


 ただ翠蘭とは対照的に礼儀作法などあまり気にしないようで、挨拶もざっくばらんとしたものだった。その代わり、立ち居振る舞いから明るく俊敏な少女なのだろうと感じられた。


 許靖は凜風の瞳に目をやった。


(瞳の奥の「天地」は、蜜蜂か……活発に蜜を集めているな。活動的で、生産的な活動を好む子だろう)


 そんなことを感じた。


「一人娘でな、甘やかしたせいか最近はずいぶんと反抗的になってきた」


 趙奉はそう言ってまた娘の頭を撫でようとしたが、素早くかわされて右手が空を切った。


 趙奉は気にした様子もなく言葉を続ける。


「それでもこうやって市について来てくれるんだからな。可愛い娘だよ」


「新しい服を買ってくれるって言うからついて来ただけだよ。本当なら一人で行きたいんだけど」


 そんな娘の言葉を、趙奉は明るく笑って吹き飛ばした。


 趙奉の瞳の奥の「天地」では、中心に据えられた篝火がより一層明るく輝いている。


(袁徽殿も趙奉殿も、一人娘が可愛いことには違いはない。人間なんてものは、根本は皆同じだ。仲良くできれば良いものだが……)


 許靖は心中でため息をついた。


 そんなことは露とも気付かない趙奉は、笑顔で片腕を上げて去って行った。


 袁徽も趙奉も行き先は市だ。


 許靖はまたひと悶着なければよいがと、無駄な気苦労を一つ背負ってから歩き出した。

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