第115話 大切なこと

 許靖が花琳を突き飛ばしてしまった翌日、許靖は相変わらず横になって天井を眺めていた。


 ただひたすらに、後悔と自責とが波のように押し寄せる。


 今日はそれに加えて、許欽の幼い日の思い出が押し寄せてきた。そうすると不思議なことに、許欽の声が聞こえてきたように感じられた。


(自分はもうすぐ死ぬのかもしれない)


 そう思った。死後の世界に近づいているために、死人の声が聞こえるのかもしれない。


 実際、もうずっとまともに食べていないのだ。いつ死んでもおかしくはないように思う。


 昨日まで食事を届けてくれた花琳は、今日は全く顔を見せていない。気づけばもう夕方だ。窓から差し込む夕陽が船室を赤く染めている。


 昨日のことで自分のことが嫌いになったのかもしれない。許靖はそれでいいかもしれないと思った。このまま死ぬのなら、嫌われていた方が花琳にとっても辛くないだろう。


 別に死ぬことに関して、どうとも思わなかった。


 あれほど戦を恐れていたし、きっと今も戦を前にしたら逃げ出してしまう。しかしそのくせ、死を前にしても何の恐怖も湧かないのだ。


 董卓から植え付けられた戦への恐怖は、死の恐怖とはまた別のところにあるようだった。


(欽に会えるのなら、死んだ方がいいな)


 そう思っている自分がいた。


 死後にどうなるかなど許靖には分からなかったし、それに備えて何かの宗教を信じるということもなかった。


 しかし、もし息子に会えるのならむしろ死にたいと思った。


 許靖が死への羨望を持ち始めている時、何の前触れもなく扉が開け放たれた。


 夕陽を背にして現れたのは、花琳だった。なんの声掛けもなく部屋へと入ってくると、無言で許靖の前に立った。


 許靖は花琳が入ってきても何の反応もなく、天井を見つめ続けている。花琳の方へは視線すら向けなかった。


 花琳は無言で許靖を見下ろしていたが、やがて口を開いた。


 「立ってください。甲板に出ます」


 許靖はその言葉にも反応を示さなかったが、それを予想していた花琳はすぐに許靖の腕を掴んで起こし上げた。


 そして有無を言わせず寝台から引きずり下ろすと、そのまま扉の外へと引っ張って行った。


「花琳、やめてくれ」


 許靖は拒んだが、拒めるだけの力が入らない。それどころか足がふらついて何度もこけそうになった。


 その都度花琳がしっかりと支え直し、半分引きずるようにして甲板へと連れ出した。


 看板は夕陽に照らされ、赤い敷物でも敷いたようになっていた。その反射で船上の全てが赤く染められている。


 まるで別の世界に来たかのような、そう錯覚するほどの見事な夕暮れだった。


 花琳は許靖の片腕を取って、前へ突き出させた。そして逆側の腕を腰へ据えさせる。


「拳での突きは、こうです。あともう少し腰を落としてください」


 そう言って、腰をぐっと押さえつけた。しかし、その力で許靖が倒れそうになり、花琳は抱きつくようにして支えた。


「花琳……?一体何をして……」


「今のように、左右の突きを繰り返してください」


 花琳は許靖の質問を無視して腕を取り、交互に突き出させた。許靖の体は下手な操り人形のようになった。


 しばらく無抵抗でされるがままになっていた許靖だったが、じきに抗議の声を上げた。


「やめてくれ……一体何をしているんだ?」


 花琳は動きを止めないまま、ようやく許靖の疑問に答えた。


「適度な運動は体と心に良い影響を与えます。これから毎日、あなたには武術の鍛錬を行ってもらいます」


 花琳なりに夫をなんとかしなければと思い、悩み抜いたあげくの行動だった。


 これで夫が良くなるかどうかなど正直分からない。しかしこれ以外自分に出来ることが、もう何も思いつかなかったのだ。


 が、許靖にとっては迷惑この上ない。またあの天井を見上げ、後悔と自責の沼に浸りたいと思った。


「もう、私のことは放っておいてくれ」


 花琳は許靖の拒絶にかぶりを振った。


「だめです。このままでは死んでしまいます」


 そう言って、操り人形のような運動を繰り返させた。


 許靖は言うことを聞かない花琳に腹を立てた。


「私はもう死んだっていいんだ!むしろ、死なせてくれ……そうすれば欽に会えるかもしれないじゃないか」


 花琳の動きがピタリと止まった。


 うつむき、少しの間を置いてから喉を震わせた。


「……じゃあ、私はどうなるんですか。欽とあなたを失って、私はどう生きていけばいいんですか」


 花琳の瞳からは、涙の粒がいくつも溢れてきていた。自分で冷たい涙だと感じた。


「あなたは私にずっと寄り添ってくれると……そう言ったじゃないですか!あれは嘘だったんですか!?」


 花琳は叫びながら許靖の肩を掴んだ。


 顔を寄せ、涙で濡れた瞳を許靖の瞳に触れるほどに近づける。


 途端、許靖は花琳の瞳からおびただしい量の桜の花びらが流れ出してくるのを見た。


 それは嵐のように許靖の体を包み、視界の全てが花びらで埋め尽くされていく。夕陽で赤かった世界は桜色へと染め直された。


 花びらの奔流がおさまると、そこに一本の桜の大樹が現れた。美しく、力強く、どこか懐かしさを感じさせる桜の樹だ。


 そしてこれは許靖にしか感じられないことだろうが、その桜はどこか儚げな寂しさを漂わせているのだった。


 許靖はこの桜の樹に寄り添っていたいと思った。


 初めて会った時から、ずっとそう思っていたのだ。ずっとずっと、そう思っているのだということを疑わなかった。


(だが欽が死んでから、それを忘れてしまっていたのか……自分にとっても、この桜に寄り添っているのが何よりも幸せだったのに……)


 愛おしい切なさとともに、許靖はそのことを思い出していた。


「……私は天井ばかりを見て、ずっとこの瞳を見ていなかったんだな」


 許靖はそうつぶやいた。


 そして、大好きな桜の樹を抱きしめた。


「ごめんよ花琳、寂しい思いをさせてしまった。もう二度と、こんな思いはさせないから……」


 夫の言葉と抱擁に、花琳は驚いて目を見開いた。見開いたまま、先ほどよりもいっそう涙を溢れさせた。


 今度の涙は冷たくない。ずっと、ずっと温かい涙だと感じられた。


 二人は長い時間、夕陽の中で抱き合っていた。


 許靖の肩が涙でびしょ濡れになり、夕陽が沈みかかった頃、二人はようやく離れた。


 沈んでゆく夕陽に二人の影が長く伸びる。それは船べりを越えて、許欽の眠る海へと届いていた。


 許靖ははにかむように笑い、花琳も涙を拭って同じようにした。


 それから許靖は花琳に先ほどさせられていた突きを、自分で何度かやってみた。


「花琳の言う通り、毎日続けてみるよ。どうかな?様になってるかな?」


 花琳は許靖の動きをキョトンと見ていたが、やがて顔を伏せてうずくまった。


 その肩が小刻みに揺れている。


「花琳、どうしたんだ?大丈夫か?」


 心配する許靖に対し、花琳は喉の奥を鳴らしながら引きつるような声を出した。


「あ……あなたに、武術は向かないということが、よく分かりました……でも、せっかくなので、明日からまた頑張りましょう……」


 花琳は必死に笑いを噛み殺しているようだった。


(そんなに変な動きだろうか)


 許靖はそう思って、もう一度突きを繰り返してみた。


 すると花琳は耐えられなくなり、大きな笑い声が船上に響き渡った。


 妻があまりに笑うので、許靖は自分でも可笑しくなって笑った。


 笑うと、やたら腹が空いている自分に気がついた。

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