第100話 後始末
許欽は帰宅するなり、ぐったりと卓に突っ伏した。
「お疲れ様、今日も大変だったみたいね」
花琳が疲れた息子をねぎらって茶を煎れ始めた。
花琳の茶は相変わらず絶品だ。家族は疲れると花琳に茶を所望する。
「もう……あちらこちらの調整が大変で」
一足先に帰宅していた許靖が息子を慰めた。
「大変だが、一度軌道に乗せれば後は放っておいても大丈夫なはずだ。きついのは今だけだから頑張ろう」
許欽は母親の煎れてくれた茶に口をつけて、大きく息を吐いた。
許欽の怪我は順調に癒えており、怪我の半月後には無理をしなければ動ける程度になったため、すでに働き出している。
「世間じゃ玉虫色の解決なんて皮肉を言ってるみたいですけどね、現実的にその玉虫色を出すのがどれだけ大変か……」
許欽の言う通り、太守襲撃事件の処分は世間から玉虫色の解決などと呼ばれ
玉虫は見る角度によって様々に色を変える。このことから、誰にとっても都合よくとらえられる曖昧な解決方法だ、という意味で玉虫色と言われているらしい。
事件後、郡では謝倹とその仲間たちの処分に関してずいぶんと議論になった。
普通に考えたら謝倹は当然死刑だろう。仲間のうち、主だった者も死刑でおかしくはない。
しかし、一番の被害者である許欽がそれに強く反対した。
単純に死者を出したくないという気持ちもあったが、それよりも処刑してしまった後の会稽郡が心配だった。
「謝倹殿は力のある豪族の息子です。郡の政治・行政には地元豪族の協力が不可欠ですし、仮に当主の
そう主張した。
さらに許欽は謝倹とその仲間連中との関係にも注目し、主張を重ねた。
「謝倹殿は街のゴロツキや若い漁師たちを中心にかなりの人気があります。もし処刑してしまえば治安の悪化が懸念されますし、郡の経済に大きな影響力を持つ漁師たちとのしこりを持つことになりかねません」
許欽の瞳の奥の「天地」は、森の調整者だ。常に各方面の均衡を考慮し、それを調整しようとする。
今回の事件を謝倹と主だった者の処刑で終わらせてしまえば、会稽郡の均衡は悪い方に傾くと思った。だから処刑には反対した。
しかし許欽の主張に一番強く反対したのは、意外にも王朗だった。
いや、元々は王朗が狙われたのだから処刑しようとするのはおかしくはない。しかし王朗は元来欲が薄く、自分の利益というものをあまり考えない。
自然、命を狙ってきた相手も簡単に許すのではないかという期待が許欽にはあった。
王朗の主張は明快だった。
「罪にはそれに応じた罰があるべきだ。そうでなければ道理が歪む」
(父上の言っていた通りの人だな)
許欽はそう思った。道理に則した行動をする人で、そこが良いところだが、たまに融通がきかない。
相手は王朗だ。許欽はよくよく熟考してから一つ提案をした。
「では、いったんは死刑をお申し付けください。その後に私の方から謝倹殿の仲間に話をしましょう。『もしあなた達が望むならば、太守は罰を労役という形で分散させてあなた達に与え、謝倹殿の死刑を免れさせる』と。そして嘆願状を出させます。つまり、罰を分散して振り替えるのです」
隣りで聞いていた許靖は、息子の言うことになるほど、と納得した。
この乱世で、郡は大変な忙しさになっている。
侵略や賊に備えるため軍事に注力しなければならないのはもちろんだし、治安も悪化しており警羅に力も入れなければならない。経済の悪化による貧困や難民の流入も問題になっており、福祉にも力を入れたい所だ。
しかし、人も物も資金も十分にはないのだ。ここで安易に増税や追加徴税すると、結局は経済が悪化して自分の首を絞めるようになる。
謝倹の仲間には相当数のゴロツキがおり、それらを労役に組み込めれば生産性や治安の改善につながるだろう。
王朗もその辺りのことはすぐに理解した。
「なるほど。それならば判決は死刑だし、郡の色々なことが解決するな。それに、孝や仁に基づく行動で罪が消されたり変えられたりするのは、ままあることだ」
実際、この時代にはそのような形で法が歪められることも多かった。場合によっては美談になるほどだ。
この言葉で許欽は王朗が折れてくれたと思ったが、付き合いの長い許靖には、
(いや、まだだろう)
と分かっていた。
王朗は言葉を続けた。
「しかし、罰を振り替えるのはできるだけ避けた方が良いことだ。例外を多く使いすぎると、それは例外ではなくなる。やはり死刑を死刑にしないということは、道理にもとることで……」
「王朗様!」
許欽は珍しく大きな声を出した。
「今回一番痛い思いをした自分がいいと言っているのです。それでいいではありませんか」
王朗は普段見せない許欽の強い言葉に押し黙り、しばらく沈思した。
珍しくずいぶんと長い時間考えていてから、やがて結論を得たようで口を開いた。
「……私には友人と呼べる人間は少なく、許靖はその大事な一人だ。その息子が傷つけられ、感情的になっていたのかもしれん。お前の言う通りにしよう」
許欽はその言葉に胸をなでおろし、許靖は王朗が思っていた事に驚きを覚えた。
かくして、会稽郡の太守襲撃事件は謝倹とその仲間たちに労役を課すことで終幕した。
世間から玉虫色の解決と言われたが、その通りだろう。裁判の根本である、罪に対する罰という意味では多くの者が納得できる内容ではない。
が、罰を受ける側からすればありがたい処分だし、行政や民にとっては労役も治安改善もありがたい話だ。
ふわふわした処分にはなるが、それで都合が良いと感じる者が多いのは確かだった。
(でも、それからが大変だったんだよな……)
許欽は苦々しい感情でこの後のことを思い出した。
労役を執行するに当たり、許靖と共にその調整役を申し付かったのだ。
簡単に言えば労役をする側と受け入れる側の調整だが、元がゴロツキの人間を受け入れるに当たって色々と気を遣わなければならないことが多かった。一緒に働く一般人の理解を得ないといけないし、ゴロツキが徒党を組んだり揉めたりしないよう、人間関係と配置にも苦心した。
若い漁師連中は本業があるため、そちらへの影響を最小限にするよう予定を組むのも大変だった。
毎日毎日、苦情と要望に塗れて生活している。
「しかし欽、お前は評判がいいぞ。まだ若く、傷も治りきっていないのに獅子奮迅の働きだと言われている。街でも役所でも、皆お前のことを褒めていた」
「父親を前に気を遣ってくれているだけですよ」
許欽は特に嬉しそうな様子も見せず、無表情に茶をすすった。
「欽兄ちゃん帰ってきた?」
廊下から芽衣が顔を出した。
会稽郡に来てから、許靖一家と陶深一家は同じ屋敷に住んでいる。本来なら二つ屋敷が用意されていたのだが、あまりに広すぎた。
一つを二家族で使っても十分過ぎるため、管理の手間も考えて一緒に住むことにしたのだ。
芽衣は許欽の顔を見て、表情を明るくした。
「おかえりなさい、あ・な・た」
言われて許欽は茶を吹き出しそうになった。
花琳がその様子に微笑んだ。
「あらあら、もう『あなた』なんて呼んでるの?式だってまだなのに」
「ううん、初めて呼んでみた。でも……なんかしっくり来ないから、やっぱり欽兄ちゃんの方がいいや」
「私も初めはそうだったけど、慣れてくるものよ」
花琳は自分の新婚時代を思い出した。ずいぶんと昔のことな気がする。
自分の時はあなた、と呼ぶのが嬉しくて、何度も呼んでいたものだ。
「やめてください、母上」
「いいじゃない別に。悪いことでもないんだから」
許欽が母親に苦情を言っている時、門から訪問を告げる声が聞こえた。
「はーい」
芽衣が玄関へ駆けて行った。
なんの警戒もせずに玄関を開けた芽衣だったが、思わず身構えることになった。
そこに立っているのは謝倹だった。
いや、謝倹だけではない。芽衣が倒した巨漢を始め、謝倹の仲間数十人が門の前に立っていた。
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