第92話 酔い

 男たちの一人が離れの扉を開けると、芽衣がその男を押しのけて部屋に入ってきた。


 そして柱にくくりつけられた許欽を見て、一瞬猫のように目を細める。


「何だお前は」


 押しのけられた男は見知らぬ女の闖入ちんにゅうに戸惑った。断りもなしに入って来た女の肩を掴もうとする。


 芽衣はその手をするりと避けて、代わりに手に持った酒の瓶を男に抱かせた。


「お酒を届けに来たって言ったでしょう?それ、しっかり持ってて」


 そう言ってから、両手の塞がった男の顎に素早く拳を叩き込んだ。


 男は悲鳴も発さず地面に崩れ落ち、芽衣は慌てて酒の瓶を掴んだ。


「あっぶないなぁ。言ったじゃない、しっかり持っててって。良いお酒なんだから」


 理不尽な文句を口にして、酒を一口あおってからそれを大事そうに床に下ろした。


(また無茶苦茶言ってるな……)


 許欽はその様子を複雑な気持ちで見ていた。


 死を覚悟していたほどなので、もちろん助けが来てくれことは嬉しい。が、これまで芽衣が酔っていて良かったことなど、ほぼ無いと言っていいだろう。


 まず今のように、なんの理屈も通じない。無茶苦茶なことを言ってくるし、無茶苦茶なことをしてくる。世の決まり事は全て、芽衣の中にある酒世界の決まり事に置き換えられてしまうのだ。


 男たちは仲間をいきなり殴り倒した女に唖然としていたが、やがて近くの一人が芽衣に掴みかかった。


「な、何しやがんだ!?」


 芽衣はしなるように後ろにのけぞってそれを避けた。男は芽衣が酔い過ぎて倒れたのではないかと思ったほどだ。


 しかし、芽衣は倒れる勢いを利用して男の顎を蹴り上げていた。


 男は予想外に真下から伸びてきた足をかわしようがない。いや、むしろ蹴られたことに気づかないまま昏倒しただろう。


 ここで男たちは芽衣がただ者ではないと気づいたらしい。それぞれが武器を手に取った。


「気をつけろ、普通の女じゃないぞ」


 男たちの一人が太い木の棒を持って、振り回してきた。芽衣を打ちつけようと、鋭い風切り音を鳴らす。


 しかし、何度棒を振っても当たらない。芽衣はゆらゆらとした捉えどころのない動きで、それらを全てかわした。


 そして男が一際大きく振りかぶるのに合わせて、男の方へと倒れ込んだ。


 芽衣が男と接触した次の瞬間には、男は完全に気を失っていた。芽衣の動きはふらついて倒れかかっただけに見えたが、実際にはその動きで棒をかわしつつ、体重の乗った肘を食らわせていた。


 男の振っていた棒が手を離れ、乾いた音を立てて低い卓へと立てかかる。


 今度は二人の男が小さな刃物を構えて、同時に突いてきた。芽衣はそれらもふらつくような動きでかわしていく。


 しかし狭い室内で複数に囲まれては、さすがに全てをかわしきれない。


(とらえた!)


 男たちはそう確信を持って刃物を突き出した。が、それらは金属が擦れる音とともに、芽衣の前腕で受け流された。


 花琳から受け継いだ手甲だ。美しい刺繍が施されており、見た目には手甲とは分からないため、刃物が防がれたことに男たちは驚いた。


 しかし、驚きながらも攻撃は止めない。次々に斬撃や刺撃を繰り出した。


 芽衣は手甲でそれを受けながら、二本の刃物に絶妙な力を加えた。それで男たちの腕は誘導され、気付けば刃物がお互いの腕に突き立っていた。


 二人とも呻き声を上げて刃物を落とした。芽衣はその瞬間を逃さず、一人の顎に拳を叩き込み、振り返りざまもう一人の男には蹴りを叩き込んだ。


 二人ともその一撃で床へ伏し、動かなくなった。


 あとはまとめ役の巨漢だけだ。


「……あなたが一番強そうねぇ」


「まぁな。女のお前さんよりは強いだろうよ」


 そう答えて、もりをしごていみせる。


 男は間合いを測ってじりじりと近づいた。


 素手の芽衣よりも、銛の方が攻撃範囲は明らかに広い。しかし銛の攻撃部位は先端に偏っているため、内側に入られると逆に不利だった。


(これは間合いの勝負だな)


 喧嘩慣れした男はそう検討をつけた。


 芽衣の方はというと無造作に立っているだけ、というか、無造作にふらふらしているだけだ。


「あ、ちょっと待って」


 芽衣は相手に向かって片手を上げると、ふらふらと酒を置いたところに向かって歩いていった。そしてそれを再びあおる。


 数回喉を鳴らしてから満足げに息を吐き、それから男に向き直った。


「よし、いいよ」


 男は馬鹿にされたと思い、怒りに任せて踏み込んだ。そして素早く突きを繰り出す。


 案の定、芽衣のゆらゆらした動きでそれはかわされた。


 しかし、男もそれは予想済みだった。かわされることを前提に、突き出すよりも引き戻すことに意識を置いて小刻みな攻撃を繰り出したのだ。内側に入られる前に銛を戻してしまえば、負けはしない。


(さあ、踏み込んでこい)


 その瞬間を逃さず突いてやるつもりだった。


 しかし芽衣は踏み込まなかった。


 いや、正確には踏み込んだのだが、男に向かって踏み込んだのではない。自分の足元にあるものを思い切り踏み込んだ。


 次の瞬間、男は下半身に強い衝撃を受けた。


 見ると、己の股間を太い木の棒が下から殴り上げている。


 三人目に倒した男が持っていた棒だ。その棒はたまたま卓に立てかかり、うまい具合にてこのような形になっていた。


 芽衣はそれを踏みつけ、てこの原理で男の股間にぶつけたのだった。


 男は脳の芯まで悶絶した。自分の魂にありえないことが起こってしまったような感覚を覚えた。


 当然ながら、動きが鈍る。芽衣はそれを見逃さず、流れるように間合いを詰めた。


 そして男の顎をめがけて殴りかかる。


 男は苦しみながらも顎を守ろうと、腕を上げた。


 しかしそれは芽衣の陽動で、本命はもっと下の方だった。


 芽衣の足が振り上がり、男の股間が強く蹴り上げられた。


 魂へのさらなる追撃に、男は文字にできないような複雑な悲鳴を上げてうずくまる。


(うわぁ……)


 と、見ている許欽も気の毒になるほどだった。


 しかし芽衣には当然そんな苦しみは分からない。足元に降りた巨漢の頭を無慈悲に踏み抜いた。


 床板と頭蓋骨とで鈍い音が鳴る。男の体から力が抜けて、動かなくなった。


 これで部屋にいる男は、許欽を除いて全員が意識を失ったはずだ。


 芽衣は大きく息を吐いてから、許欽の元へ走り寄った。


「欽兄ちゃん!怪我は……だいぶしてるよね。死なない?」


 許欽は芽衣の質問に苦笑いを浮かべた。


「死なないよ。あと少しで死ぬところだったけどね」


 芽衣は懐から小さな刃物を取り出して、素早く縄を切った。


 許欽は芽衣に支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。あちこち痛みはするが、動けないほどではない。


「助かった。実際、ちょうど殺されるところだったんだよ。でもこんな無茶はもうやめてくれ。芽衣に何かあったら私は耐えられない」


「私だって欽兄ちゃんに何かあったら耐えられないよ。だから来たの」


 言われた許欽は、覆いかぶさるようにして芽衣を抱きしめた。


 芽衣は胸が高鳴るのを感じた。普段、許欽の方から積極的な愛情表現があることは少ない。だから突然抱きしめられて、脳が麻痺したように思考が停止した。


 が、すぐに違和感を感じて芽衣の脳は覚めた。


 かすかな鈍い音とともに、許欽の口から苦悶の声が漏れてくる。芽衣にはその正体が分からなかった。


 許欽の体が崩れ落ち、背中のそれを目にしても、脳が現実を拒否してすぐには理解できなかった。


 許欽の背中に刃物が突き立っている。


 いくら脳が否定しようとしても、それは紛れもない現実だった。

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