第91話 酔い

「なぁ、太守は本当は川から逃げたんだろう?」


 そう問われたが、許欽は顔を上げなかった。何も答えず、何の反応も示さない。


 別に男の質問を無視しようと思ったわけではない。ずいぶんと殴られたので、顔を上げるだけの気力が湧かなかっただけだ。


「おい、生きてるか?生きてるよな。死ぬほどは殴ってねぇよ」


 男の言いように、許欽は苦笑いした。しかしその小さな顔の動きですら痛みを伴った。


 確かに生きてはいるが、肋骨はいくつか折れているだろう。顔も痣だらけなはずだ。先ほど小便に行かせてもらったら、尿が赤かった。内臓も傷ついているらしい。


 幸い腕と足は無事だが、両手は縛られて柱にくくりつけられている。身動きはとれない。


 男は再度問いかけてきた。


「川から逃げたんだよな?お前の言う通り山の中を探しまくったけど、収穫は猪だけだった」


 許欽はあの後、出来るだけ時間を稼ごうと山中を逃げ回った。


 といっても、捕まるまでそれほどの時間はかからなかっただろう。相手はそもそも店から逃げる相手を捕まえるために多人数で囲っていたのだ。窓から逃げ出す瞬間を見つかって、逃げおおせるはずはない。


 捕まった許欽は王朗の居場所を聞かれ、黙秘した。すると、目の前にいる男に殴られた。


 できれば死にたくはないので、数発くらったところで口を開いた。


「太守様は店の中に隠れています。私を使って山の中に逃げたと見せかけ、頃合いをみて逃げる手筈です。どこに隠れるかは知らされていません」


 まずはそう答えた。


 男たちは店の中をしらみ潰しに探した。床下から屋根裏まであらゆる所を探し、店中の家具をひっくり返したところで再び許欽を殴り始めた。


 嘘をついているだろう、そう言われた。


 許欽はまた数発殴られてから答えた。


「すいません、太守様からそのように言うよう申し付かっていたのです。本当は、私が出てから少し時間をあけて太守様も山に入っています。どこまで逃げたかは分かりませんが、山のどこかにいるはずです」


 今度は山狩りが行われた。それも多人数で徹底的に行われたが、獣以外は見つからなかった。


 許欽はまた殴られた。今度は何発殴られても、山にいるはずだと言い続けた。


 男たちは許欽を連れて、いったん本拠地である謝倹シャケンの屋敷に戻ることにした。念のため、数人はまだ山を探し続けている。


 そして、許欽は今いる離れに拘束されてからも殴られ続けた。王朗を捕まえるという微かな希望を捨てきれず、許欽を殴って何か情報が得られないかと努力しているのだ。


 だが、目の前の男はようやく王朗を今夜捕らえるのが無理そうだと悟ったようだった。


「もう今さら嘘だったと分かっても怒りゃしねぇよ。どっちにしろ今夜は失敗だ。俺たちだって好きで殴ってたんじゃないしな。なぁ、そうだろう?」


 男は後ろを振り返った。その先には男たちが五人いる。


 眠そうにあくびをしたり、目をこすったりしていた。監視要員兼尋問要員として配置された男たちだ。


 男たちは問われたので、適当にうなずいた。


 許欽に話しかけている男が一応はまとめ役のようだ。かなりの巨漢で、筋骨隆々としている。


 他の男たちもかなり筋肉がついており、恐らく力仕事の多い漁師なのではないかと思われた。謝倹は一部の若い漁師たちに人気があるという噂だった。


「な?話してくれたら俺たちもこの役目から開放されるし、山狩りに残ってる連中も帰って来られる。本当にもう殴りゃしねぇから、話せよ。さっきまでは必要があったから殴ってただけだって」


 その言葉はおそらく本当だろう。殴ること自体に嗜虐的な喜びを見せる男はいなかった。情報を得るために、必要に迫られて殴っていただけだ。


 許欽は少し考えた。


 もうかなりの時間が経っている。道中多少の問題があったとしても、許靖と王朗は無事街へ着いているだろう。


(自分が気張る意味も、もう無さそうだ)


「……川ですよ。私が窓から出た時には、すでに川に入ってました」


 男たちはまず沈黙し、それから深いため息を吐いた。舌打ちをした男もいた。


 許欽は舌打ちした男からやはり殴られるのではないかと怯えたが、その男は自分の頭を掻きむしるだけだった。


 巨漢のまとめ役が許欽に近づいてきた。


「まぁ……今の今まで黙ってたのは褒めてやるよ。こんだけ殴られて、なかなか出来ることじゃねぇ。あそこの川の流れは早いし、街にもだいぶ前に着いてるだろうな」


「……おそらく」


 許欽は殴られないことに安堵して相槌を打った。


「どうせ逃げてるだろうとは思ってたけどな。でもそれなら、明日には軍が来るな」


 男はそう言った後は押し黙った。何かを考えるように、伸びたあごひげを撫でている。


 しばらくそうしてから、部屋の隅へと歩いて行った。


 そこには漁で使うもりが置いてある。それを掴むと、一度強く振った。


 許欽は嫌な予感がした。


 男はゆっくりと許欽に近づいてきた。


「なぁ、お前が出て来た時に太守たちは川に入ってたって言ってたよな?」


 許欽はその問いに答えなかったが、男は構わず先を続けた。


「ということは、俺たちは太守を襲っていないんだ。やった事といったら、太守のいない店や山で騒いだだけだな。何もとがめられることはない」


 男の言い分は、一応理屈としては通っている。ただ一点を除いて。


「お前を捕まえたこと以外は、だ」


 ここまで来ると、許欽はさすがに己に待つ運命を悟った。しかし悟っただけで、何が出来るわけでもない。


「もしお前がいなくなったら、何もかも無かったことに出来るんじゃねぇかな」


 男の銛が、鋭さを増したように思えた。殺気が乗ったのかもしれない。


 許欽は目を閉じた。


 見ていても恐怖が募るだけだ。どうせ死ぬのなら、出来るだけ平穏な心で死にたかった。


 目を閉じて、銛が風を切る音を待つことにした。


 が、聞こえてきたのは全く別の音だった。


「すいませーん。極上のお酒を届けに来ましたよー」


 妙に聞き覚えのあるその声は、どうやら酔っているようだった。

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