第89話 太守襲撃
執事から眠るよう言われたが、眠れるわけがない。明日には自分の首が飛んでいるかもしれないのだ。
いや、自分の首が飛ぶだけならまだいい。大切な仲間たちの首まで飛んでしまうかもしれない。そんなこと、耐えられなかった。
自分の仲間には世間からはみ出し者のように言われている人間も多いが、付き合ってみると皆気のいい愉快な連中だ。
あいつらが世間からはみ出しているのではない。世間があいつらをはみ出しているのだ。
(どうしてこうなったのか……)
謝倹は何度そう思ったことだろう。
始まりは誰の一言だったか、もう覚えてもいない。
「新しい太守の王朗はひどい人間だから、謝倹さんが
誰かがそう言ったのだ。そしてそれに周囲が賛同していき、だんだんと話が大きくなっていった。
始めこそ何のことはないただの世間話だったのに、気づけば謝倹を慕う仲間連中が具体的に動き始めていた。
(俺自身も途中から状況に乗せられていたのがいけなかった)
今、
(いや、確かに上手くいけば成功する目はあったんだ)
そうも思う。
王朗を拉致する。太守を辞職して謝倹を推薦するよう迫る。断れば半殺しにする。
初めは殺す予定だったが、実は民思いの良い奴だったらしい。だから半殺し程度で済ましてやる。
(半殺し程度でも太守に手を上げれば、あの頭の固い、真面目一本な親父でも腹をくくって動いてくれるはずだったんだ)
謝倹の父親が動くなら、郡のかなりの民が賛同してくれるはずだ。
それからこの辺りの有力者である袁術にでも媚びれば、多少の反対勢力はあっても郡の太守におさまることは可能だったろう。
「くそっ、初めの一歩で
第一歩目の王朗拉致をしくじったのだ。悪態をついて寝返りを打ったが、苛立ちと後悔は募るばかりだった。
まだ王朗は捜索中だが、おそらく逃げられているだろう。そうなると、軍がこちらに向かって来る。
(こっちも
そう思うと、やはり眠れない。謝倹は寝るのを諦めて床を出た。
仲間連中の話では、軍が来るにしても明るくなってからだろうという事だった。
肝心の王朗が逃げおおせているのだ。急ぐことはないし、こちらにそれなりの戦力が集まっていることも予想できているはずだから、翌朝以降にしっかり準備を整えてから来るだろう。
だから寝ておけと言われたが、無理な話だった。
謝倹は屋敷を一回りしてみることにした。警備の連中に声をかけて歩いてやるのも良いことだろう。
とりあえず正面の門へと向かう。
謝倹の屋敷はかなり広く、家屋も多くあった。塀は高くて堀もあり、屋敷というよりもちょっとした砦のようだった。軍が来ても一戦できる程度の防御力がある。
もちろん元々は父親の物だが、質素な暮らしが好きな父親は街はずれの小さな小屋で寝起きしている。
門が近づくと、話し声が聞こえてきた。
「なんでよぉ。なんでだめなのよぉ。楽しくお酒を飲みたいだけじゃない」
女の声だ。しかも、少しろれつが回っていない。
謝倹は眉根を寄せた。こんな夜更けに、女が何の用事で来ているのだろう。
門には篝火が焚かれている。普段はここまで明るくしてはいないが、今は戦時のようなものだ。警戒のため、屋敷のあちこちで篝火が焚かれていた。
門番の男が迷惑そうな声を上げた。
「駄目に決まってるだろうが。こんな夜更けに来た誰とも分からん酔っぱらいが、謝倹さんと飲めるわけないだろう」
「いいじゃない。私は偉い人と飲むのが好きなのよぉ。ここの一番偉い人連れてきてよぉ」
「馬鹿言ってんじゃない。無理だ」
「そんなこと言わないでよぉ。ほら、とっても良いお酒持ってきたの。最高に美味しいんだから。あ、あなたも飲んでみる?」
「やめてくれ。というか、今日はそれどころじゃないんだよ……早く失せてくれよ」
門番の男はため息をついた。世に、鬱陶しい酔っぱらいほど面倒な存在はないだろう。
謝倹は少し離れたところから女の顔を見た。
またずいぶんと若い女だった。小柄で、まだ娘と言って良いような年齢に見える。
かなり酔っているようで、視線がふわふわと浮遊して定まらない。
その女が酒の瓶を抱えて門番に絡んでいた。どうやら自分と飲ませろと言っているらしい。
(可愛いじゃねぇか)
謝倹の好みだった。
容姿だけではない。謝倹は酔った女が好きなのだ。力の抜けた頼りない様子や、開放的になった表情がたまらない。
「ねぇお願いよぉ」
「なぁ、頼むからどっか行って……」
「おい、俺のことを呼べと言ってるのか?」
門番は驚いて後ろを振り返った。そこに謝倹を認めると、申し訳なさそうに頭を掻く。
「す、すいません謝倹さん。こんな大事な日に酔っ払いなんぞ……すぐに追っ払います」
「まぁ待て。お前、俺と飲みたいと言っていたな?」
女は焦点が合ってるのかどうか分からない目を謝倹に向けた。
謝倹も女を見返す。
「俺がこの屋敷で一番偉い男だぞ。謝倹という。お前は?」
女はしばらくぼぉっと謝倹を見ていた。
謝倹はなんとなく値踏みされているような気分になったが、不思議と嫌ではない。
やがて女は、酔っぱらい特有の弛緩した笑顔を見せて名乗った。
「芽衣」
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