第88話 太守襲撃
「欽が、欽が捕まったとはどういうことですか!?」
「欽兄ちゃんは無事なの!?」
部屋に駆け込んできた花琳と芽衣は、許靖を見るなり掴みかかってきた。
二人に強く体を揺すられて、まだ濡れたままの髪から雫が飛んだ。
(家に報せたのは失敗だったか。要らぬ心配をさせただけだ)
許靖は後悔しながら二人をなだめた。
「落ち着け。今、郡の兵が集められている」
許靖は二人に簡単な経緯を説明した。
地元豪族である
店を脱出したあの後、許靖と王朗は街に着くと、すぐに一番近い軍の詰所に駆け込んだ。
夜更けに下着一枚で現れた太守に兵たちは驚いたが、事情が分かると素早く対応してくれた。乱世であることもあり、兵の心構えと練度は高いようだった。
元々の太守付きだった護衛たちもすぐに駆けつけた。彼らはこの世の終わりのような顔をして、涙を溢れさせながら謝罪した。
それには同情したものの、許靖としては泣いている暇があったら早く息子を助けに行ってくれ、と言うのが正直な気持ちだった。
ただ、そう簡単にはいかないらしい。
「軍は動いてくれている。しかし、すぐには出動できない。敵はかなりの人数を集めているらしく、こちらは夜間でもあり十分な兵が集まるのに少し時間がかかるとのことだ」
今回の首謀者である
もちろん素人では正規軍とまともにやりあっても勝てはしないだろうが、彼らは何度か民兵として賊の討伐にも参加したことがあるらしい。軍としての動きも学んでいるので、戦闘力は馬鹿にできないとのことだった。
王朗の護衛たちはそういった事情もあって店の人間たちを準兵士のように認識しており、つい信頼してしまったのだという。
花琳は許靖の言葉に何一つ納得できない様子だった。いや、納得できないというよりは、現実が受け入れられないのだ。
「そんなこと言ったって……そもそも欽が無事かどうかも分からないんでしょう?私だけでもすぐに行きます。川沿いにある店でしたね」
「いや、もし捕まっているなら謝倹の屋敷に移動させられているだろうという話だ。ここから一番近い漁師町にある、大きな屋敷だ。以前、海に行った時に見たことがあるだろう」
「分かりました、では」
踵を返そうとした花琳の腕を許靖が掴んだ。
「待ってくれ。敵は軍を相手にするつもりで相当な人数を集めているはずだ。こうなると、もはや小規模とはいえ戦だ。花琳が強いのは分かるが、すでに一人でどうこうできる段階ではない」
許靖は『戦』という自分の言葉に、身の凍るような思いがした。そんな所へ妻一人を行かせられるはずがない。
「離してください!こうしている間にも欽が殺されてしまうかも知れないじゃないですか!太守やその身内ならともかく、あの子はなんの役職もないただの付き人です。人質としての価値がない以上、今生きている保証だってないのに……」
花琳はそこまで言って、膝から崩れ落ちた。顔を覆い、手指の間から涙と嗚咽の声が漏れる。
許靖も花琳と同じ気持ちだった。
もしかしたら、息子は今まさに殺されようとしているかもしれない。そう思うといても立ってもいられないし、すぐにでも駆けつけたいと思う。
しかし、頭では自分一人が駆けつけたところで何も変わらないことは分かっている。むしろ自分も捕まってしまい、事態を悪化させる公算のほうが大きいだろう。
そして、それが理解できているのは花琳も同じだった。子供が人質に取られた状況では大したことは出来ないだろう。
そう頭では理解できているからこそ、感情と理性の板挟みになって泣きじゃくっているのだ。
許靖はここまで取り乱した妻を見るのは初めてだった。なおさら行かせるわけにはいかない。
許靖は妻の腕を掴んだまま、背中をさすってやった。
「……信じよう。それしか今出来ることはない」
そう声をかけてやるのか精一杯だった。それ以外に、どう言ったところで慰めにはならない。
許靖は花琳が泣き止むまでただ寄り添っていた。
花琳は結構な時間泣いてから顔を上げた。
布を取り出して顔を拭き、毅然とした態度で立ち上がる。目は赤くなっているものの、普段の落ち着いた花琳に見えた。
「私も軍について謝倹の屋敷へ行きます。止めないでください」
許靖は花琳が戦場へ行くなど絶対に嫌だったが、状況が状況だ。何を言っても無駄だろう。
ため息をついて、止めるのを諦めた。
(まぁ……上手くいけば戦闘にはならないはずだ)
「仕方ない。だが軍と行動するんだ。絶対に自分勝手には動かないようにしてくれ」
花琳は一応うなずいてはくれたが、いざとなったら好き勝手にするだろう。そういう妻だ。
「それよりあなた。欽が捕らえられているとして、救出の手立てなどは考えているのですか?例えば欽を救出するための別働隊を組織しておくとか……」
「ああ、それについてはすでに王朗と話をしていて……」
と、許靖の言葉の途中で、ちょうどその王朗が部屋に入ってきた。
当然すでに太守らしい服を着ているが、髪は許靖と同じようにまだ濡れていた。
王朗は花琳を目にとめると、深々と頭を下げた。
「奥方。この度はご子息のこと、大変申し訳なかった。すべて我々の油断が原因だ。お詫び申し上げる」
太守に非を認められた上でこうも堂々と謝られては、さすがの花琳も文句を口にできなかった。ただし、その代わりに何の返答も返さなかった。
当たり前だが、護衛を帰させるという軽率な行動に怒っている。
その怒りは普通ならば伝わっていそうなものだが、相手が王朗なのでその様子からは分からない。
案の定、無表情で顔を上げた王朗は全く別のことを口にした。
「奥方ともう一人女性が来たと聞いていたが、そちらはもう帰ったのか?」
許靖と花琳は顔を見合わせた。
いない。芽衣がいなかった。一体、いつからいなかったのだろうか。
花琳は悪い予感がした。
「王朗様、軍の準備ができるまでまだ時間がありますか?」
「申し訳ないが、まだ少しかかりそうとのことだ」
「では、私は一旦家に帰ってきます」
言うがが早いか、花琳は会釈もなしに部屋から飛び出して行った。
家までの道をひた走る。今は雲が晴れて月が出ていたので、明かりがなくともそれなりに視界は確保できていた。
夜道を走っていると、集合場所へ歩いて行く兵たちと何度かすれ違った。
兵たちは夜道を女一人で風のように駆ける花琳に驚いていたが、その様子すら花琳にとっては苛立ちの種でしかない。
なぜ歩いているのか、なぜ走らないのか。
何度かそう怒鳴ってやろうかとも思ったが、数人急いだところで何も変わりはしないだろう。
感情をぐっと抑えて家までを駆けた。
家に着くと、ちょうど陶深と小芳が不安そうな顔をして玄関から出てくるところだった。
「お嬢様!」
「小芳、芽衣はどこ?」
花琳は息を切らせながら小芳の肩を掴んだ。
その様子に、小芳の顔が曇った。
「お嬢様と一緒じゃないんですか?あの子、家に帰ってくるなりすぐにまた出て行ってしまって……しかも、馬を連れて」
「馬を?」
花琳の感じていた悪い予感が強まった。
「芽衣は何か言っていなかった?」
花琳の質問に、陶深が不安を滲ませた声で答える。
「それが何の事情も話さずに飛び出して行ったんだ。僕たちも心配になって、今軍の詰所へ行こうと思ったところだよ」
夜目にも陶深の顔が青ざめているのが分かった。可愛い一人娘に何かあったらと思うと、気が気ではないだろう。
花琳は少し思考を巡らせてから尋ねた。
「……芽衣は何かを持って行かなかった?例えば武術で使う道具とか」
花琳は芽衣に手甲を譲っていた。まだ若い頃、韓儀を捕まえた時に使った業物の手甲だ。刺繍入りで、パッと見には手甲だとは分からない。
あれを持って行ったとしたら、悪い予感が的中したということだろう。
「それが……バタバタと何かを持ち出していたのは分かったんですが、何だったかまでは」
小芳の記憶は曖昧で、悪い予感を断定できるような答えではなかった。
「あ、でも……」
「何?何か覚えてる?」
「お酒は持って行きましたね。それも、とびきり上等なやつを」
花琳は絶句した。
どうやら悪い予感は的中してしまったようだった。
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