第78話 揚州

「父上、少し人が良すぎではないでしょうか?」


「私もそう思います。あなたの優しいところは好きですが、度を過ぎるとあなた自身を不幸にすることもありますよ」


 許靖は息子と妻に左右から非難を浴びせられて、閉口した。


 当然の非難だろう。


 自分たちを狙って強盗殺人を犯そうとした人間たちを笑って許しただけでなく、その家族が戦火から逃れる手伝いまで受け合ったのだ。


「……まぁいいじゃないか。許貢キョコウにそういった人たちが避難できるところがないかを聞いてみて、あれば文で知らせてあげるだけだ。大した手間ではない」


 許靖一行は呉郡へと続く街道を東行している。


 李浩たちはもういない。許靖たち六人だけだ。


 李浩からは道案内と警護を続けたいと言われたが、さすがにあのような事があった後も警護を依頼するのは恐ろしかった。


 李浩自身はごく善人で心配要らないと思ったが、他に八人も部下がいるのだ。誰かがまた良からぬ衝動に駆られないとも限らない。


「手間がどうこうという話ではありません」


 花琳の言うことは分かっているのだが、許靖には断ることはできなかった。


(自分の傷を覆うためにする善行は、果たして優しさと言えることなのだろうか?)


 許靖は李浩の話を聞いた時、自らの手で殺めてしまった周毖シュウヒの親族たちを思い出していた。


 それはもう救うことのできない人達だが、似たような境遇にある他人を救うことで、自分自身を救おうとしただけではないだろうか。


(自分は優しくなどない)


 許靖はそう思っていたが、それとこれとは別にして息子には伝えておきたいことがあった。


「欽。この世で最も偉大で最も難しいことは『ゆるす』ということだ。それが出来れば、世の中から争いはずっと少なくなる」


 許欽は少し思考を巡らせてから返答した。


「個人の感情を論ずるなら私もおっしゃる通りだと思いますが、もし社会機構として論ずるなら欠陥があると言わざるを得ません。罪に罰がなければ、秩序は守られませんから」


 我が息子ながら、的確かつ論理的に反論をしてくる。


 息子の頭脳が明晰なこと自体は喜ばしいが、父親の説諭をこうも綺麗にやり返されるとやるせない気持ちになった。


「……今回のことは私たちが当事者なのだから個人の感情で論じてもいいだろう。それに李浩殿自身は本来、真面目な善人だ。事情も事情だったし、これ以上あれこれ言うのはやめよう」


 許靖は父の威厳を守るためにも、半ば無理矢理に議論を閉じた。


 そして許欽が口を開く前に別の話題を取り上げることにした。


「しかし、芽衣があそこまで強くなっているとは思わなかったな」


 その言葉に芽衣の父親である陶深が大きくうなずいた。


「僕も驚いたよ。正直に言うと、女の子に武術なんて必要だろうかという気持ちもあったけど……こんな時世だし、やはり自分の身は自分で守れた方がいい」


「あなたの細腕じゃ、私も芽衣も守れないしね」


 妻の小芳に差し出口を挟まれた陶深は憤慨してみせた。


「そんな事はない。僕は君たちに危険が迫ったら、自分の身を呈してでも守るつもりだ」


「芽衣が襲いかかられた時、ちっちゃな悲鳴を上げてだけだったじゃない」


 それを言われてしまうと、陶深としてはバツの悪い顔をする以外にない。


 見かねた花琳が間に入ってやった。


「まぁまぁ。よほど覚悟をしてる人でもとっさには体が動かないものよ。人間の体は強い緊張に見舞われると筋肉を固めるようにできているんだから。実際に動けるかどうかと、守りたい気持ちの強さとは全く別のものよ」


 芽衣もそれに同意した。


「そうよ、お母さん。武術の鍛錬でもとっさに体が固まらないように、同じ動作を繰り返して反射的に動けるようにするんだから」


「ふーん……そういうものなのね。でもこの人が荒事で頼りにならないのは間違いないわ」


 妻から横目で視線を送られている陶深に、許靖も助け舟を出した。


「荒事で男が頼りにならないのはうちも同じだよ。しかも父子揃ってだ」


 そう言って笑った。許欽も情けなさそうに頭をかく。


 陶深も笑ってから、ため息をついた。


「……しかし、僕たちの娘でも強くなれるものだな。僕も小芳もその辺りのことはからっきしなのに」


「芽衣には武術に関して天賦の才があります。この短期間でこれだけものを身につけられたのは、やはり芽衣の力ですよ」


 それはお世辞ではなかった。


 芽衣は本人の努力もさることながら、持ち前の器用さで花琳の教えを驚異的な速度で吸収していった。膂力りょりょくは強くはないものの、それでも武術の才があると言って間違いはないだろう。


 芽衣は師匠であり、第二の母親でもあるような花琳から褒められて照れくさそうに笑った。


 はにかむ芽衣を見て、許靖はずっと思っていたことを口にした。


「芽衣はだんだんと花琳に似てきているような気がするな。見た目とか武術の技とかではなく、性格というか何というか……」


(特に欽が殺されるという話になった時のあの反応、あの殺気)


 許靖の言葉に陶深もうなずいていた。父としては、娘のあの殺気は心配にもなるだろう。


 芽衣は小首を傾げた。


「そうかな?まぁ確かに花琳ちゃんには武術以外にも色々と相談してるから、だんだんと影響されてるかも」


 陶深が娘の言葉に素早く反応した。


「相談って何を?」


「お父さんには関係の無いこと」


 間髪入れずに拒絶の意思を告げられ、陶深の眉根は切なく歪められた。年頃の娘と父親とは距離感が難しいものだ。


 それを見た小芳が声を立てずに笑った。


 この様子だと、小芳は花琳と一緒に相談を受けているのだろう。三人が菓子などをつつきながら談笑している姿が目に浮かぶようだった。


「そんな心配するような事じゃないから大丈夫ですよ」


 花琳が陶深を安心させるように笑った。


「それに、私から見ると芽衣はやっぱり小芳によく似ていると思います。そう強く感じることがあるもの」


「それはどんな時に?」


「お酒に酔った時なんか、特に」


 その言葉に、許靖と陶深は絶句した。


 しばらくの沈黙を経て、陶深は絞り出すような声を出した。


「あの悪夢が……遺伝してしまったか……」


「なんか言った?」


「いえ、何も」


 小芳に下から睨み上げられた陶深は、即座に首を振ってまた黙ることにした。


 許靖はとりあえず感想を述べることは避けて、別の気がかりを口にした。


「花琳、芽衣に飲ませたのか?少し早くはないだろうか」


「わざと飲ませたわけじゃありませんよ。甘酒と間違えて飲んでしまったことがあって……」


 花琳は弁解した。


 この時代、いつから飲酒しても良いという決まりはなかったが、あまり年少の頃から飲むのは当然良いことではない。


「でも……酔った時の性格の変化よりも驚くことがありました」


「驚くこと?」


「ええ。その時たまたま街に出ないといけない用事があったんです。でも、初めての飲酒で酔ったままの芽衣をそのままにしておくのもどうかと思って、仕方なく芽衣も連れて出たのだけど……」


 確かに産まれて初めて酩酊状態になった者を一人で置いておくのは心配だろう。許靖は頷いて先を促した。


「市でゴロツキに絡まれてしまって。相手は五人ほどいました。適当にあしらって去るつもりだったんですけど……振り向くと芽衣が三人目を倒してるところでした」


「……あぁ、酔っていればそういう事もあるだろうな」


 小芳は闘えるわけではないため酔っても毒を吐くだけで済むが、芽衣は鍛えている分、手も出てしまったのかもしれない。


「その酔った芽衣が四人目、五人目を倒しているところを見て、とても特殊な動きをしていることに気づいたんです。なんというか……酔ってふらつくような動作をそのままの攻撃や回避、牽制や陽動に使っていて。私が教えた動きではないから、天性のものですね」


「酔った動きがそのまま武術に?」


「そうなんです。それで帰ってから手合わせしてみたら、これが結構強くて。その後も何度か酔った状態で手合わせをしてみましたけど、酔えば酔うほど強くなります」


「酔えば酔うほど強くなる……」


 そのような事が起こりうるのだろうか?


 花琳も天性のものだと言っていたし、少なくとも狙ってできるものではないのだろう。


「……というか、やっぱり飲ましてるんじゃないか。まだあまり良いことではないだろう。芽衣、少し控えなさい」


「ごめんなさい、許靖おじさん」


 許靖の説教に、芽衣は素直に頭を下げた。


 昔から芽衣は許靖、花琳夫婦の言うことなら素直に受け入れることが多かった。


 最近は父親の陶深から説教をされても反発するだけだが、実の父に対する甘えのようなものがそうさせるのかもしれない。


「でもお酒を飲んで良いこともあるんだよ?なんていうか……素直になれたりもするし」


 そう言って芽衣は、許欽へいたずらっぽい視線を送った。


 送られた許欽はなぜか手に持っていた竹の水筒を落としてしまった。


 すぐにそれを拾おうとしたが、上手く拾えない。拾おうとしてまた落とすのを繰り返している。


 許靖は足元まで転がって来た水筒を拾ってやった。


「どうしたんだ、欽?……よく見たらすごい汗じゃないか。疲れたなら少し休むか?」


「い、いえ。大丈夫です……それより先を急ぎましょう」


 許欽は水筒を受け取ると、率先して先頭を歩き始めた。妙な早足で、確かに疲れているわけではなさそうだ。


 許靖と陶深はその様子をいぶかしげな表情で眺めただけだったが、その後ろで花琳と小芳は必死に笑いを噛み殺している。


 芽衣はまだ少女のような瞳を明るく輝かせながら、許欽の背中を小走りで追いかけた。

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