第75話 揚州
晩秋の冷たい風が許靖の頬を打った。
厚着をしているので、寒いというほどではない。日差しもある。
むしろ荷物を抱えて歩き続けているので、じわりと汗をかくほどだった。
(また放浪か……)
許靖は憂鬱な気持ちで真っ直ぐに続く街道を眺めた。
許靖の一行は揚州全体を治める州治所のある
揚州刺史の
陳温は随分と許靖に感謝しながら死んでいった。許靖に強く勧められて医者にかかり、それで余命を数ヶ月延ばすことができたのだ。
「この数カ月で、私が死ぬに当たって必要な事務処理をかなり行えた。民への影響も最小限にできただろう。ありがとう」
陳温は死ぬ前に、許靖の手を握ってそう言った。地方行政機関の長という責任ある立場にとって、数カ月の時間は大きかった。
また、本人と家族にとっても大切な別れの時間ができた。
陳温は強い男だ。誰に聞いてもそう答えるし、実際にそう言えるだけの心と実績を持っていた。
しかし、人が死と向き合うには強さとはまた別のものが要る。それが何かは人によって異なるが、過程としてまず通らなければならないのは『受け入れる』ことだ。
そして『受け入れる』ためには往々にして時間が必要となる。許靖はその時間を作ってやることが出来たのだった。
また、許靖は陳温の話をよく聞き、本人が病気と死とを受け入れられるよう支えた。一人で抱えていては受け入れられない現実も、人に思いを話しているうちに不思議と受け入れられることが多いものだ。
陳温は早めに医師にかかったことで早めに余命宣告を受け、結果として安らかに逝くことができた。
(それはいい。友人が安らかに逝けたこと自体は、私にとって喜ばしいことだ)
許靖はそう思ったが、庇護者を求めて揚州へ来た身としては、そうとばかりも言っていられない。孔伷に引き続き、陳温もごく短期間で亡くなってしまったわけだ。
そして許靖たちは落ち着く間もなく、また次の庇護者を求めて街道を歩いているのだった。
「父上。
許欽は父親の背中に尋ねた。
許靖はそのハキハキとした声音に、少し戸惑うほどの頼もしさを感じた。
息子はこの一年でまた随分と立派になったように思えた。陳温のところでも孔伷の時と同じように、付き人のような仕事をさせてもらっていた。
孔伷に上手く鍛えられていたので、仕事の評判も良かった。もちろん父親の許靖に気を遣って褒めてくれた部分もあるだろうが、それを差し引いても実のある仕事をしていたようだ。
許靖は後ろを歩く息子を軽く振り返って答えた。
「ああ、許貢の役職は呉郡
「この乱世できっとお忙しいでしょう。押しかけて迷惑ではないでしょうか?」
許靖と許貢は家族ぐるみの付き合いをしていた友人同士なので、許欽もよく知っている。
知っているだけに、むしろ気軽に相手のことを気遣った。
「確かに忙しい身だろうが、こんな状況だ。この際甘えさせてもらおう。それに許貢は『何かを守りたい』という気持ちの強い男だからな。助けを求めて無下にされることは、まず無い」
許靖は許貢の瞳の奥の「天地」にそびえる大きな門を思い出しながら、そう断言した。
それは『守る』という気持ちが強く伝わってくるような、重厚な門だった。
門の中までは見通せない。ただ許貢の普段の言動から考えれば、親しい周囲のものだけでなく国や民、そしてその生活など、ありとあらゆるものを守りたがっているように感じられた。
(何を守るかではなく、守るという行為自体が許貢の人格を形作っているようにも思える)
許靖は乾いた街道を見つめながら、そんなことを考えていた。
「許靖殿。多少道が悪くなりますが、ここから脇道を行こうと思います」
許靖はその声に顔を上げた。
声の主は許靖のすぐ前を歩いている男だ。男は許靖に背中を向けたまま言葉を続けた。
「この先で賊が出没するという情報がありました。少し回り道をしてでも避けたいのです」
許靖はその背中に言葉を返した。
「道中の案内と安全は
李浩は揚州九江郡の兵で、許靖たちが呉郡へと移動するにあたって護衛を依頼した男だった。
一隊の隊長を務めており、その隊員の一部を護衛として連れていた。
護衛の人数は十人で、許靖一行を前後から五人五人で挟むようにして街道を進んでいる。
許靖の一行は許靖、花琳、許欽、陶深、小芳、芽衣の六人だ。
六人に対して十人の護衛を多いと見るか少ないと見るかは難しいところだが、少なくとも許靖は揚州でなんの役職に就いていたわけでもない。格別の待遇と言えるだろう。
聞けば、李浩は陳温の存命中に許靖たちの身の振り方について、何か出来ることがあれば助けてやるよう命令を受けていたらしい。
陳温は剛毅な男だが、意外にも細々とした事にも気が回った。
許靖も李浩の瞳を見て、真面目な人柄を感じ取っていたので全面的に任せることにしていた。
「李浩殿がいてくれたおかげで大変助かっています。道だけでなく、賊の情報などもよくご存知だ。我々だけではきっと無事に呉郡へ辿り着けなかったでしょう」
半ば獣道のような脇道へ入って行く李浩の背中に、許靖は礼を伝えた。
しかし李浩はピクリと一瞬体を固めただけで応えもせず、振り向きもせず、そのまま歩を進めていった。
許靖はその様子に軽い違和感を覚えた。
李浩は真面目で礼儀正しい男だ。その瞳の奥の「天地」では、幾人もの番兵が美しく整列している。一人一人がきっちりした身なり、厳しい顔つきで胸を張っていた。
まさに真面目な兵になるために産まれてきたような男だ。陳温もそれを分かっていたから、許靖たちのことを頼んだのだろう。
そんな男だから、相手の言葉を無視するなどという非礼は考えられなかった。
(やはり、何かおかしい)
実は、許靖は今朝から李浩の様子を不審に思っていたのだった。
昨日までは全く普通だったのに、今朝顔を合わせた時から妙にそわそわした態度になっていた。目も合わせないし、言葉も歯切れが悪い。
直立不動を貫いていた瞳の奥の番兵たちも、妙な汗をかいて身じろぎしていた。
「ちょっと悪い夢を見まして……よく眠れなかったのです」
心配を口にした許靖に対して、李浩はそう返事をした。実際に目の下にくまが出来ていたので、そうなのかも知れないと思った。
しかし念のため、許靖は花琳たちへ不測の事態へ備えて警戒だけはするように伝えておいた。
李浩は無言で荒れた道を進んで行く。許靖はその背中をじっと見つめながらついて行った。
道は細く、草や枝に覆われている箇所も多い。そういった場所は先頭を行く李浩の部下が
一行が四苦八苦しながらしばらく行くと、急に開けた場所に出た。
小さな広場のようになった空間の中心に、石積みで囲まれた井戸がある。
獣道のようなところを進んだ割にはある程度の手入れがされており、今も地元の猟師か誰かが使っているのだろうと推察された。
許靖はその開けた場所に出て、嫌な予感がした。
(先に続く道がない)
見たところこの空間にあるのは井戸だけで、そこから先に進めそうな道が見当たらない。
許靖はそれとなく李浩から距離を取りつつ尋ねた。
「李浩さん、この道でよろしいのですか?ここで行き止まりのようですが……」
李浩は許靖の目を見ず、地面を見つめながらすらりと腰にはいた剣を抜いた。
「許靖殿……申し訳ありませんが、荷物を置いていってもらえないでしょうか」
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