第76話 揚州
抜き身の剣が視界に入り、許靖は急速に心拍数が上がるのを感じた。何もしていないのに呼吸が早くなる。
ゆっくり息を吐くよう心がけて、左手の指輪を回した。それで少しだけ体は楽になる。
許靖たち家族は身を寄せるように集まった。
「……どういう事でしょうか?」
問いつつ、許靖は李浩の瞳の奥の「天地」を見た。
普段は厳格に胸を張って立っている番兵たちが、苦しげにうずくまっている。許靖はそれを見ただけで、おおよそのことは掴んだ。
李浩は苦しげな声を絞り出した。
「荷物の全てとは言いません。呉郡に着くための、最低限の物はお持ちください。渡してもらうのは資産価値のある物だけで結構です」
この時代の銭は、とにかく重い。ある程度の資産を持つ者なら、その全てを銭として持って旅をすることなど到底できない。
許靖たちも、資産は貴金属や宝石など軽くて価値のある物品に変えて移住先へと向かっていた。
李浩は旅に必要な荷物までは取らないから、それらだけ置いていけと言っているのだった。
(李浩殿らしいな……)
許靖はそう思い、思ったままのことを口にした。
「李浩殿、あなたは物盗りにはなれない。あなたは真面目な兵だ」
李浩はその言葉にハッとしたように顔を上げ、そして許靖と目が合うとまたすぐに視線を地面に落とした。
(きっと辛い事情があるのだろう)
許靖はそう推察した。
「隊長、話が違いますよ。荷物は全部いただいて、女は売る。そういう予定だったでしょうが」
その言葉は、李浩のすぐ後ろに立った男から発せられた。
見ると、部下の中でも特に目つきの悪い男がイライラした様子で剣を抜いていた。
抜き身の剣の腹でペタペタと肩を叩きながら、上長であるはずの李浩を
「奪った物を売る
李浩は睨まれたからではないだろうが、少しだけ後ずさりした。
「……しかし、許靖殿たちは揚州のために随分と貢献してくれたと聞く」
「じゃあ、あんたの家族を避難させる伝手だけは用意できねえな」
その言葉に、李浩はビクリと体を震わせた。
「分かってんでしょう?刺史が死んだ揚州は、袁紹と袁術の取り合いになりますよ。そしたら戦だ。隊長は立派な兵として戦うのに迷いはないでしょうがね。病気の母親と奥さん、産まれたばかりの息子さんたちはさぞ困るでしょうねぇ」
兵の口元は醜く歪んでいる。どこか愉快そうに喋るのが、見ていて不快なほどだった。
「俺はそれを安全な場所へ避難させる手筈を整えてあげようって言ってんですよ。でもね、それにゃどうしたって結構な銭がかかるんです。取れるところから、取れるだけ取らねぇと」
李浩は部下の言葉をうなだれて聞いていた。
家族のため、望まぬ犯罪を持ちかけられたのだ。そして一晩悩み抜いた結果、それを今実行してしまっている。
許靖は李浩に同情した。真面目な李浩にとって、この背徳行為は心の傷となるだろう。
地面を見つめたまま答えない李浩に苛立った男は、一つ舌打ちをしてから大きな声を上げた。
「隊長がやらねぇってんなら俺がやりますよ!男ども三人を殺してみせれば、腹の一つも据わるでしょう」
そう言って、李浩の前の空間を剣で薙いでみせた。
しかしその動作が終わるかどうかといった瞬間、男は首筋に冷風を受けたような感覚を覚えた。
その風で冷や汗が吹き出るのを感じながら、猛烈に嫌な感じのする方向へと顔を向ける。
そこでは許靖の妻が、視線だけで人を殺せそうな眼差しをこちらに向けていた。
いや、許靖の妻だけではない。そのやや斜め後ろから、同行者の小娘がこれまた恐ろしい視線で自分のことを刺し殺そうとしている。
確か名前は芽衣といったか。ここまでの旅程ではごく普通の明るい娘としか思えなかったが、今はまるで小さな虎に見えた。
「芽衣、なかなか良い殺気を放てるようになったわね」
花琳は後ろを振り向いて、芽衣に優しく微笑んだ。
先ほどまでの顔つきとの落差が、逆に周囲の恐怖を煽る。
「花琳ちゃん。こいつ今、欽兄ちゃんを殺すって言ったよね?」
芽衣は恐ろしい視線を男に送り続けたまま尋ねた。
「ええ、そう言ったわよ。男三人ってことは、欽もうちの人も陶深さんも殺す気ね」
「許せない、私の幸せ家族計画を邪魔するなんて」
そう言って、男の方へ一歩踏み出した。
男は芽衣から強い圧を感じ、一歩下がった。
下がってから、小娘に怯えている自分を恥じた。
「な、なんだてめぇは!大人しくしてねぇと痛めつけるぞ!」
芽衣は男の罵声を無視して、花琳の方を見た。
「あいつは私がやっていい?」
花琳は芽衣の顔をじっと見てからうなずいた。
「いいわ、今のあなたなら大丈夫でしょう。普通なら実戦では恐怖や緊張で体が動かないものだけど……」
「大丈夫。今は怒りの方が強いから」
「そのようね」
芽衣は花琳の許可を確認すると、無造作に男の方へ歩いていった。
「この小娘が……てめぇは商品だからな、顔だけは勘弁してやるよ」
男はそう言って剣を持っていない方の手で芽衣に殴りかかった。
それを見た陶深の喉から小さな悲鳴が上がる。
が、次の瞬間には芽衣は半身になって拳をかわしつつ、その腕を掴んでいた。そして、それを素早く捻り上げる。
男の関節がありえない方向に曲がり、その場に硬く鈍い音が響いた。
「っ?!……があぁああ!」
男の苦悶の声が山中に響く。
芽衣が腕を離すと、男は逃げるよう体をひねらせながら剣を振った。しかし、その時にはすでに芽衣は素早く下がってそこにはいない。
一連の動きを見た花琳は芽衣への指導を口にした。
「その技は本来なら相手を拘束するための技よ。力を入れ過ぎたら、今のように腕が折れるから注意しなさい。……わざと折ったのなら構わないけど」
(構わないのか?)
許靖、許欽、陶深の三人は同時に同じことを思った。
が、口に出せるような状況ではない。
「もし折るなら、折ったまま腕を離さないようにしなさい。離すとああやって逃げざまに反撃が来るわよ」
「はいっ」
芽衣は短く返事をすると、改めて男に向かって構え直した。
男はというと、腕の痛みに顔を歪めながら激昂していた。
「てめぇ!もう我慢ならねぇ……売り飛ばすのはやめだ!ぶっ殺してやる!」
片腕で剣を大きく振りかぶり、思い切り振り下ろした。
しかし芽衣は軽く下がるだけでそれをかわす。
重量物である剣を片腕で振り下ろしたのだから、簡単には止まらない。剣先が地面に突き刺さった。
芽衣はそれを見逃さず、素早く踏み込んで男の手元に手刀を打ち込んだ。
剣の柄が弾かれて飛んでいく。そしてその剣が地面につくより早く、男の顎に掌底が叩きつけられていた。
男はそれで白目を向いてグラリと倒れかけたが、芽衣はまだ止まらない。さらに一歩踏み込んで、股間を思い切り蹴り上げた。
男の体は軽く浮いた後、土下座するように倒れ込んだ。その頭を芽衣の靴が強く踏みつけ、男の顔面が地面にめり込む。
その様子を見た花琳がまた指導を口にした。
「やりすぎよ、顎に一発入った時点で相手の戦闘力はほぼ奪えているわ。……わざとやったのなら構わないけど」
(構わないのか?)
男三人はまた同時に同じことを思ったが、やはり口には出せなかった。
「でも、今回のように相手が複数いる場合は一人一人に時間をかけないことが大切よ」
「はいっ」
芽衣はまた短く返事をして、他の兵たちに向かって構え直した。
兵たちはただの娘だと思っていた芽衣の強さに呆気にとられていたが、自分たちへ殺気の矛先が向かったのを感じて全員が剣に手をかけた。
が、次の瞬間には風のように駈けた花琳に打ち身を食らわせられ、二人がその場に昏倒した。
許靖はその様子を半ば呆れるように見ていた。
(もうすぐ四十というのに……花琳は日々強くなるな)
「芽衣、残りはあと七人よ。五人は私が倒すから、残りの二人はやってみなさい」
「花琳、ちょっと待ってくれないか」
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